Tokyo Chapel

2018年10月24日

第297日

神があなたに語る方法

フョードルは野性的な青年でした。彼の生活は食べて、飲んで、話をし、音楽、劇場、女性と一緒に過ごすことに明け暮れていました。彼は有名になるのが夢でした。彼はニコラス皇帝の圧政の下で、ロシアの政治的、社会的、革命運動に追随しました。彼は逮捕され、裁判にかけられ、死刑判決が出されました。

ひどく寒い朝、囚人たちが銃殺されるために連れ出されました。看守がマスケット銃を肩に当てて、銃口を目標に向けました。最後の瞬間、白旗が挙げられ、皇帝の恩赦でシベリアへの拘留されると告げられました。

彼がシベリアに到着したのは1849年のクリスマスイブ。彼が当時28歳の時でした。二人の女性が新約聖書を彼にそっと手渡しました。看守が目を離した僅かな瞬間、彼女たちはしっかり読むように彼にうながしました。そして彼はその通りにしたのです。

収監されている間、偉大なロシアの作家であるフョードル・ドストエフスキーは新約聖書を端から端まで読み、多くを心に学びました。彼は記しています。「私はイエスよりも愛に満ち、深く、あわれみに満ち、完全なお方は他に誰もいないと信じます。私は自分自身に対して、イエスのようなお方が誰もいないと嫉妬深い愛をもって言うだけでなく、誰もイエスのようになることは出来ないと言います。」彼がイエス・キリストと出会ったのは聖書を通してだったのです。

使徒パウロは聖書はすべて「神の霊感によって(2テモテ3:16)」書かれたと記しています。芸術家、詩人、作曲家、演奏家がインスピレーションが与えられたというのと、聖書がインスピレーションによって書かれたというは同じではありません。それはまさに神の息吹、神の霊の働きがあるのです。聖書を通して、神はあなたに語るのです。


聖書を読むことを楽しむ

詩篇119:89-96

18世紀の哲学者でキリスト教を批判したヴォルテールは言いました。「これから百年のうちに、聖書は廃れ、もはや流通しなくなるだろう。」それから百年経って、聖書はそれよりももっと人々に読まれるようになりました。パリにあったヴォルテールの家は聖書の印刷所に代わり、時間単位で聖書が大量に生産されているのです!あなたが聖書が攻撃されるのを聞くとき、それは今日に始まったことではないことを覚えるよい機会です。

神の言葉は「永遠(90)」です。聖書がどんなに攻撃されたとしても、今まで生き残ってきました。「あなたのおっしゃることが通用します。神よ。そして、天と同様に永遠にとどまるのです。あなたの真理は決して流行遅れになることはありません。日が昇るごとにそれは最新のようです。あなたの言葉と真理はいつまでも変わらず頼りになるのです。(89-90,MSG訳)」

聖書は喜ばしいものです。詩篇の作者は、自分が読んだみことばを「私の喜び(92)」と描写しました。

詩篇の中で最も長い、この詩篇が、聖書全体についてそうあるべきということは的を得たことです。

あなたが攻撃の下にある時、神の言葉に思いをひそめましょう。「悪者は私を滅ぼそうとして待ち伏せしています。しかし、私はただ、私のためのあなたの計画だけに心を寄せます。私は人間のすべての事柄の限界を知っています。しかし、地平線でさえ、あなたの戒めを満たすことはできません!(95-96,MSG訳)」神の戒めはあなたを守るためにあります。そして、神の言葉を覚えることは、あなたを邪魔するものから守ります。「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。(93)」

祈り:主よ。日々あなたの永遠のみことばに思い巡らすことができますように。そして聖書を読むことに喜びを見出しますように。


あなたが読むとき、イエスをさがす

2テモテ3:1-17

聖書とはまさにイエスそのお方についてです。「キリスト・イエスにある信仰を通しての救いの方法があなたに知らされるためには神の言葉が記されるほかはありません(15,MSG訳)」

パウロは私たち自身のとは似ていない社会に向けて書いていました。

「今後、難しい時代がやって来ます。最後の時が近づくとき、人々は自分のことに夢中になり、金銭に飢え、自己宣伝し、つけあがり、冒涜し、親をさげすみ、粗野になり、荒っぽくなり、食うか食われるかの、強情な、悪口を言い、一時の感情に駆られ、獰猛で、冷笑的で、裏切り、無慈悲で、尊大な態度でくだらないおしゃべりし、欲望に耽り、そして神に対するアレルギーとなります。(1-4,MSG訳)」

パウロは彼らを「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者(5)」として描写しています。それは世俗化した世界と、敬虔な形式をもったノミナリズム(Nominalism:もし「あなたの宗教は?」と尋ねたら「キリスト教」ですと形式だけで答えるような人々)の両方を描写しています。彼らは実のところその力を否定します。また、ある人々は真理に背いて長期間過ごします(8)。

あなたは異なる者として召されています。この世の圧力は強いです。パウロは書きました。「あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており…(14)」パウロは自分の教え、自分の生き方、自分の目的、信仰、寛容、愛、忍耐、迫害、苦難を指し示しています(10-11)。パウロは「誰でもキリストから全く外れて生きていこうと願う者は大きな問題にぶつかります。それを避けては通れません。(12,MSG訳)」と警告します。反対に驚いてはなりません。「聖いみことば」の上に岩のように立ちなさい。

ある書物は情報(inform)を与え、改善(reform)もしてくれるでしょう。しかし、聖書は変革(transform)を与えます。一人の男が牧師に不満を言いました。それは自分の仕事が邪魔されるので、彼は自分の聖書を読まなかったというのです。彼の仕事は何なのかと尋ねると、彼は「私はスリだ!」と答えました。聖書は単純にあなたの知識を増し加えるだけではありません。それはあなたに人生の変化を与えるのです。

聖書の目的はあなたをキリストの向かわせることです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。(15)」イエスは言いました。「その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」偉大な宗教改革者、マルチン・ルターは「聖書はイエスが横たわるゆりかごです。…すべての言葉はキリストに繋がっています。」と言いました。

他の多くの人々のように、私は聖書を読むことを通してイエスに初めて出会いました。それはあたかも新約聖書のページからイエスが登場したようなものでした。

しかし、それは初期の信仰だけが聖書を通してもたらされるというのではありません。それはあなたに継続して信仰を与え、成長させてくれます。なぜなら、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。カトリック教会カテキズムでは聖書は「神が、聖書の作者です。聖書に含まれ、かつ示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」と記されています。

聖書は私たちの信仰と生活のすべての事柄についての権威です。苦難について、イエスについて、十字架についてなどなど、あなたは神が何と(そしてあなたがどうすべきか、それゆえ、何を信じるべきか)おっしゃっているかを見出すことができるでしょう。そしてまた、聖書の中に、神の目に何が間違っているか、そしてどのようにあなたが義なる生活を過ごすことが可能なのかを見出すことが出来ます。聖書を摂取することは「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため(17)」の方法なのです。

祈り:主よ。私があなたのみことばを学び、熟考し、思い巡らし、あなたの霊に聴くとき、日ごとに私が整えられた者とされていることを感謝します。イエスの臨在の内に時を過ごすとき、イエスのように成長し、イエスのように変えられますように。


神の言葉を聞き、それらを実践する

エレミヤ50:11-51:14

私たちは皆、どこかに自分の信頼と安心を置いています。あなたのお金、教育、仕事、健康、家族や友人にあなたの信頼と安心を置くことは誘惑です。それらのものはどれも悪いものではありません。しかし、究極的にはあなたが信頼をおくべき絶対に安心な場所は一つだけです。それは主に置くことです。

エレミヤ書のこれらの近しい章を読み通してきて、私たちはいかに多くの国々が自分たちの安心と信頼を究極的には果たしえない物事に置いてきたかを見てきました。今日、私たちはバビロンが川や富にどれほど信頼していたかを読みます。「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ…(51:13)」ひとつづつ、エレミヤはこれらに偽りの希望を取り除けていきます。

再三、エレミヤは自分の読者にこの世の事柄よりも神の言葉と約束を聴くように呼びかけます。連続して二つのフレーズが繰り返されています。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。(50:18、33、51:1)」そして「―主の御告げ―(50:21、30、40)」です。

私たちは「わたしがあなたがたに告げたことをする(21,MSG訳)」ために、そして「良い知らせを告げる(51:10,MSG訳)」ために、主の言葉を聴くように励まされているのです。あなたは主の言葉の約束の上にあなたの人生を築くことができるのです。あなたは神の言葉を聴くべきです。そしてそれらを実践すべきです(マタイ7:24-27参照)。

聴くべき、そして実践すべき、主の言葉を聴く者たちに、ご自身が約束されたことには二つの大いなることがあります。

第一に、神は満足を約束します。あなたの霊的な空腹感はただ神との関係によって満足できるのです(エレミヤ50:19)。それはイエスが来てくださって可能となりました。

第二に、神は完全な罪の赦しとあなたの罪責を取り除けることをあなたに約束します。「その日、その時、―主の御告げ―イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。(20,MSG訳)ように」神がイスラエルとユダに約束したことは十字架のイエスを通して成就しました。どんなに注意深く検査しても、だれもあなたに罪と罪過を見出すことは出来ません。なぜならそれはイエスが担ってくださったからです。

祈り:主よ。私はあなたに信頼します。日ごとに、あなたの言葉を聴き、実践することを助けてください。そして、あなたの臨在とあなたの愛の内に満足を見出すことができますように。アーメン。

H.K

References

Letter To Mme. N. D. Fonvisin (1854), as published in Letters of Fyodor Michailovitch Dostoevsky to his Family and Friends(1914), translated by Ethel Golburn Mayne, Letter XXI, p.71.

Martin Luther (Author), E. Theodore Bachmann (Ed), Luther’s Works, Volume 35: Word and Sacrament I (Fortress Press, 1960) p.236.