2018年3月10日
第69日
十字架
アメリカに奴隷制度があった当時、南部の奴隷たちは劣悪な環境の下で生活していました。彼らは深い感動を呼び起こす歌を忘れられない、心豊かなメロディーを持って作曲しました。これら「黒人霊歌」は希望と未来の歌です。それは奴隷状態から自由を切望する魂の叫びです。
彼らは、負い難い苦難の中で、彼らの救い主、主としてイエスを抱擁しました。彼らは未来のための恵み、平和そして希望を経験しました。この関係の中でこれらは歌われたのです。
「君もそこにいたのか 主が十字架につくとき(彼らが私の主を十字架につけた時)」(聖歌400番)という歌詞があります。
今日の新約聖書の箇所に、私たちは、私の主を、事実「彼らが十字架につけた」という新約聖書の卓越した主張の背景が分かります。神は旧約聖書では「主」として記述されています。
ヘブル語で「主」と訳される言葉「YHWH」には母音が記されていませんので発音が分かりません。それは口にするのが畏れ多いと考えられたのです。そのような理由で、子音字のみの元来のヘブル語聖書本文に母音記号がつけられた時に、神の名である「YHWH」には母音が加えられなかったのです。近代になってから、どのような母音が割り当てるべきかという議論が活発に交わされました。かつては「Jehova(ジェホバまたはエホバ)」と発音すると考えられていましたが、現在では「Yahweh(ヤハウェまたはヤーウェ)」と発音すると考える学者がほとんどです。
旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書では聖なる名(YHWH)は「Kyrios(キュリオス)」と訳されています。ですから、唯一信教であるユダヤ教の背景を持つ新約聖書の作者たちが「イエスは主(キュリオス)」というキリスト教信仰の基礎となる確信をもたらしたということは特筆すべきことです。(ローマ10:9、2コリ4:5、使徒2:36)
その「主」が「私たちのために十字架」につけられたのです。
主を愛す
詩篇31:19-24
ダビデは「すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。(31:23a)」とうながしました。主を愛することは第一の戒めです。これは双方向の愛の関係です。私たちは、神がまず私たちを愛してくださったので、神を愛します(1ヨハネ4:19)。私たちの愛は主の愛への応答です。
ダビデは「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。(詩篇31:21a)」と記しました。神がどれほどあなたを愛してくださったか思いを潜めましょう。「あなたを礼拝する者たちのためにあなたが積み上げられた祝福はなんと山積みになっていることでしょう。(19,MSG訳)」
神はあなたを「神の臨在の隠れ場」(20a)へとかくまいます。神はあなたをご自身の住まいに安全に留められます(20b)。彼はあなたを舌禍から守り(22b)ます。神は、あなたが助けを求める時、あなたの「あわれみを求める叫びを聞かれ」ます(22b)。「神はご自身に近く留まるすべての者たちの面倒を見てくださいます(23,MSG訳)。」ですから、たとえ物事が困難に思える時であっても、私たちは雄々しくあることができ、心を強くして頂けるのです。(24a)「勇敢であれ。強くあれ。あきらめてはならない(24,MSG訳)。」
祈り:主よ。私はあなたのくすしい愛を賛美します。私があなたに助けを求めるとき、あわれみを求める私の叫びをあなたは聞いてくださることを感謝します。主よ。どうぞ助けてください。
イエスは主
マルコ15:1-32
「彼らが私の主を十字架につけた時、あなたもそこにいたのか?」私はイエスが虐待され、拷問され、十字架につけられたことを説明する箇所を読む時に胸が締め付けられる思いがします。彼らは「わが友主イエス」を十字架につけたのです。イエスとは…
- 私の王
イエスは「ユダヤ人の王(15:2)」という称号を受け入れました。兵士たちは皮肉でそう呼び(18)、イエスに対する告訴として十字架にそのような名を記されました(26)。しかしながら、イエスは長きにわたってイスラエルが待ち望んできた、そして多くの人々が約束してきたダビデの王(イザヤ9-11)を成就されたのです。イエスこそ、人々の考えていたのとは違う「王」であったのです。イエスは宗教指導者たちの妬みから(「もっぱら腹いせに」マルコ15:10,MSG訳)ピラトの手に渡されました。妬みに気をつけなさい。それは時に「宗教的罪」と呼ぶことができます。イエスは偽の告発によって侮辱を受けました。もし、あなたが悪口や誹謗中傷を受けるなら、神がそれをお許しになったことを、イエスが受けた迫害のほんの一部に入ることができたことを感謝しなさい。そして、愛と赦しをもってイエスがなさったように対応することができるように助けを求めて祈りなさい。
- 私のメシア
宗教指導者たちはイエスをあざけって「このキリスト(31-32,NIV訳)」と表現したことは皮肉な事です。なぜなら、それは正確にイエスがどのようなお方であったか、そしてあるかを表しているからです。「キリスト」という言葉はギリシャ語の「クリストス(Christos)」を語源とします。さらにそれはヘブル語の「メサイア」または「メシア」を翻訳した言葉です。ギリシャ語もヘブル語も文字通りの意味は「油注がれた者」です。私たちはイエスが油注がれた神の大祭司として見ています。ここでは、私たちは油注がれた王としてイエスを見ることができます。 - 私の救い主
イエスは「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。(30)」と通りがかりの人々に嘲笑され、宗教指導者たちは「他人は救ったが、自分は救えない。(31)」とあざけりました。ここでも私たちはあざけりの言葉が強烈な皮肉となっているのを見ることができます。それは、まさしく真理です。世の救い主である為には自分を救うことができません。イエスはあなたや私を救うために十字架の苦しみを通って行かなければならなかったのです。バラバの身に起こったことが、世の救い主としてイエスが為さったことを私たちに描き出しています。バラバは、私と同じように、罪人であり、罰を受けるのが当然でした。彼は「暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢に入っていた(7)」のです。一方、イエスは、全く罪を犯していませんでした。ピラトが「あの人がどんな悪い事をしたというのか(14)」と言ったとおりです。しかし、バラバは釈放され、自由の身となり、その一方で、イエスは「十字架につけるように(15)」引き渡されたのです。無罪のものが死刑に向かい、それによって、罪人なる私は、自由を得ることが出来たのです。私たちはバラバのように殺人を犯してはいないかもしれませんが、世の救い主によって救われる必要があるのは私たちすべてです。 - 私の主
昨日の箇所で、私たちは大祭司がイエスに、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と尋問したときに「わたしは、それです。(14:61-62)」と答えたために冒とく罪となったことを見ました。それは、自分が神だという主張だからです。なぜでしょうか?神がモーセにご自身の名前「YHWH」を示されたとき(出3:14-15)、神はまた、その意味を説明なさいました。それは、ヘブル語の言い回しで「わたしはあってある者」あるいは単純に「わたしはある」という意味です。大祭司はイエスの答えたことばに、イエスがご自身を他の誰でもない「YHWH(主)」であるという宣言を示唆していることに激昂したのです。
この驚くべき真理は、ピリピ2:5-11にある聖パウロの大いなる魂の叫びの背景となっているのです。(下記の祈りにまとめます。)
祈り:主よ。へりくだって死にまで従われたイエスとおなじあり方を持つことができるように助けてください。あなたはイエスを大祭司としての位に引き上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。イエスの名のもとにすべての膝がかがめられ、地の上も、地の下もすべての舌が「イエス・キリストは主です」と認めるようになることを感謝します。
主を礼拝せよ
レビ21:1-22:33
今日の箇所では「神の聖なる名」が強調されています (22:2) 。22章には「わたしは主(ヤハウェ)」が9回も出てきます(2-3、8-9、16、30-33)。なぜ神はこれらの節でご自身の名を強調しているのでしょうか?
古代において、名前は非常に重要でした。名前は、その当の本人について何か重要なことを告げると信じられていました。私たちが見てきたように、神の名も例外ではありません。YHWHというなが神の唯一性と偉大さを宣言してるのです。
神の名はまた、民と神との他に代えることのできない関係を民に思い起こさせました。神の約束がご自身の民と共にあるしるしとして啓示されたのが神の名であったのです。(出エジプト3章)
それぞれのときに神はこう宣言しています。「わたしは主」それは人々に神との関係と神の偉大さを思い起こさせました。この章におけるそれぞれの律法はこれらの真理を建て上げ、人々をこれらに向かわせるように構成されています。
レビ記21章のテーマは神が聖であることと人々が神に近づくことができるように祭司職が必要であるということです。新約聖書では、私たちはイエスが大祭司であり、イエスによって神に近づくことができるということが分かります。イエスは…
- 完全なる聖
大祭司は儀式的にきよめられなければなりませんでした(21:11b)。イエスは道徳的に完全でした。イエスは「悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司」(ヘブル7:26)です。 - 神にささげられた
大祭司は神にささげられなければなりませんでした(レビ21:12)。それはイエスもです(ルカ2:22)。 - 油注がれた者
大祭司は聖霊の注ぎの象徴として油を注がれなければなりませんでした(レビ21:12)。イエスはご自身がバプテスマを受けられる時に聖霊によって油注がれました。イエスこそ油注がれた者、キリストです。
もし、私たちが21章の完全な祭司のための必要を心に留めるなら、私たちはまた、22章の完全なささげものの必要も思い起こします。ささげものは「傷のない(22:19,21)」ものでなければなりませんでした。イエスは完全な祭司であり、完全なささげものです。
これらの3つの箇所をもって、大いなる魂の叫びをもって主の前に思いをひそめましょう。「イエスは主」(ピリピ2:11)です。そして、私たちのためにご自身の驚くべき愛を十字架を通して私たちに示してくださいました。私たちにふさわしい応答は「主よ愛します」(詩篇31:23a)です。
祈り:主よ。私はあなたを礼拝します。あなたは私を聖別してくださいます。あなたは囚われから私を救ってくださいます。あなたは主。私はあなたを愛します。アーメン。
H.K