Tokyo Chapel

2018年5月3日

第124日

良い選択をする方法

法律家であり伝道者であったチャールズ・フィニーは1830年代にニューヨークの教会で説教をしました。毎夜の集会の最後に、彼は部屋の前に出てくるように招きをして人々がイエスに人生を委ねる機会を与えました。多くの偉大な法律家たちが彼の説教を聞きにやって来ました。ある夜、ニューヨークの主席判事が天井桟敷の席についていました。彼はフィニーが福音を語るのを聞いたとき、それが真理であると確信しました。

次に彼の思いに去来したのは「他の一般人と同じように前に出て行くべきかどうか?」でした。ニューヨーク州の法曹界の中の頂点に位置するという高名な社会的地位を考えると、そうすることは不適切ではないかと彼は思ったのです。彼はしなければならない選択を思案しながらそこに座っていました。その時、彼は思いました。「なぜだめなんだ。私は真理であると確信した。なぜ他の人たちのようにするべきでないと考えるのか?」

彼は天井桟敷の席から立ち上がり、階段を降りてフィニーが説教している後ろに立ちました。フィニーは説教をしている最中でしたが、誰かが彼の上着を引くのを感じて振り返りました。主席判事は言いました。「ミスター・フィニー。もし、あなたが人々に前に出てくるように招くなら、私は前に出ましょう。」フィニーは説教を中断して言いました。「主席判事が、『もし私が人々を招くなら前に出る』と言いました。さあ、皆さん今前に出てきてください。」

主席判事は前に進み出ました。ロチェスター、ニューヨークのほとんどすべての法律家は彼に従いました!その地域において、その12ヶ月間に100,000人の人々が回心したと言われています。一人の選択が莫大な数の人々に影響を及ぼしたのです。

人生は選択の連続です。毎日、私たちは選択します。良いものを選べば良い結果が得られ、悪いものを選べば悪い結果が待っています。選択が重要です。そして、ある選択の決断は人生を左右するものとなるのです。


不安に打ち勝ち信頼を選ぶ。

詩篇55:12-23

「心配とはロッキング・チェアーのようなものだ。それはあなたを揺さぶるだけで、どこにも連れて行かないからである。」という格言があります。問題や闘いや不安の種に直面することがない人は一人もいません。

ダビデは人生で多くの困難に直面しました。ここでダビデは彼の人生で最も痛みに満ちた闘いについて語っています(18b)。ダビデが「秘密を分かち合った(14,ERV訳)」親友(13b)が寝返って、ダビデに反対する大勢に加わってしまったのです(18c)。もちろん、ダビデは、私たちもそうでしょうが、敵に侮辱されるよりももっと困難を覚えました(12a)。

どのような闘いでも、私たちがどのように応じるかを「選択」しなければなりません。ダビデは朝に昼に夕に主なる神に呼ばわることを選びました(16-17)。もしあなたが親しい家族や友人と面と向かわなければならない時、平安と力を得るために主に向きましょう。ダビデはそうしました。そしてその結果、彼は神の平和を体験しました。ダビデは「主は、私のたましいを、敵の挑戦から、 平和のうちに贖い出してくださる。 私と争う者が多いから。(18)」と記しています。

ダビデは彼自身の経験を通して次のようにアドバイスしています「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(22a)」毎年、私は聖書の余白にこの節への応答として、「神にゆだねた重荷」を書き記します。そのほとんどは(すべてではありませんが)もう解決しました。

もしあなたが心配ごとを抱え、闘いに直面し、がっかりすることがあった時、それらに心を占領するままにさせてはなりません。ダビデが「けれども、私は、あなたに拠り頼みます。(23b)」と言ったように。

祈り:主よ。今日、私は重荷をあなたに委ねます。そしてあなたを信頼します。


イエスを選ぶ

ヨハネ3:22-36

バプテスマのヨハネの働きは衆目を集めました。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていました(23)。バプテスマのヨハネの弟子たちは競争熱心でした。そしてイエスの成功を羨むようになりました。彼らはバプテスマのヨハネのところにきてイエスについてこう言いました。「今や彼は私たちと競り合っています。…みんな私たちのところではなく彼のところに行ってしまいます。(26,MSG訳)」

ヨハネはどのように応ずるかを選択しなければなりませんでした。ヨハネは、それは人の力によって為し得る成功(永遠の視点における成功のことです。)は天の助けなしには得られないことを指し示すことから始めました(27,MSG訳)。彼は自分を指し示すことよりもむしろイエスを指し示すことを選びました。「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。(28)」

ヨハネは自分を「結婚式を祝福する友人の立場にたとえました(29)。ヨハネはイエスが来られるまでのまさにベストマン(結婚式で花婿を先導する役割)でした。花婿が到着することに脅かされるどころか、まさに待ち望むこと、それがベストマンの喜びです。同じように、ヨハネは自分がイエスを待ち望んできたことを説明します。イエスの御業を喜びに満たされて受け止めていることを説明しました。イエスはバプテスマのヨハネの後継者といえます。ヨハネは言いました。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(30)」

時々、私たちは皆、より高い地位、人気、評価を得ることを目指します。向上心は悪いものではありませんが、これらの野心によって、日々の選択に心は揺れ動きます。あなたは、自分の人生をどのように生きるかを選択しなければなりません。あなたの心の願いは、イエスが高められることでしょうか?それとも自分が高められることでしょうか?あなたの野心は自分自身のためでしょうか?それともイエスのためでしょうか?

時々、私たちは異なるキリスト教団体が互いに競争しているように見えることがあります。そのようなことは起こるべきではありません。

次の言葉を心に響かせましょう。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(30)」究極的に焦点はあなたではありません。それはいつもイエスにです。私たちの野心は常にイエスを人々に指し示すためのものであるべきです。

ヨハネは現実的な話題に光を当てます。「御子を受け入れ、信頼する者は誰でも、すべてにおいて、命を完璧にし、永遠に永らえます。そしてまた、御子を退け、信頼しない者は闇の中にあり、命を見出すことができないので、そのような人すべてにとって神の体験は闇であり、怒りなのです(36,MSG訳)」

すべての内で最も重要な選択はこれです。「私はイエスを選んだか?それとも拒んだか?」

祈り:主よ。私は「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(30)」と言うことを選びます。人々が御子を信じることができるように、神の言葉を語るために聖霊によって満たしてください。


主に仕えることを選ぶ

ヨシュア23:1-24:33

神を礼拝し、神に仕えることは人生を成就させる道です。あなたの人生を偽りの「神々」を求めることに浪費してはなりません。聖キプリアヌスは記しました。「人が神よりも好むものは何であれ、その人はそれを自分自身のとしているのだ。」現代において他の神々は山のようにあります。それらは概して「お金、セックス、権力」としてまとめることができるでしょう。

イスラエルが安住に暮らせるようになって年月が経ちヨシュアは老人になっていました(23:1)。晩年になってヨシュアは民を集めて、どのように生きるかを選択しなければならないかを語りました。

ヨシュアは神が今まで民に成して下さったすべてのこと、それらがすべて神によって祝福されたことを思い起こさせました(23:14、24:10)。今、ヨシュアは主を礼拝し、彼らの神に「すべてを明け渡す(10b,MSG訳)」ことを彼らに願っています。

主があなたのために為されたことへの応答において、あなたはまた主を礼拝し主に仕えることで「主を愛す(23:11)」ことに召されています。ヨシュアは「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。(24:15)」と言って、選択肢を示しました(14-15)。

  1. 偽りの「神々」(彼らの先祖の「神々」または征服した民の「神々」)それとも
  2. イエスラエルの神、唯一まことの神

征服した民の神々は、豊穣と多産、生殖を司り現代的で「科学的」であると考えられました。カナンの民はイスラエル人よりも知的にも文化的にも遙かに先んじていると自負していたのです。しかし、ヨシュアは、神の善と力に対抗するものとしての「他の神々」の欠点を気に病んでいました(3-13)。

あなたは選択しなければなりません。ふらふらすることはできません。多くの人々が、はっきりとした意思を定めることが出来ずに人生を通じてふらつきます。

ヨシュアは多くの良い指導者のように、手本となって導きました。彼は解放を与え、主を礼拝し仕えることを個人的に選び、そして言いました。「私と私の家とは、主に仕える。(15)」

民は答えて言いました。「私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」(18,21,24)ヨシュアは言いました。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。(22)」その結果、「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、…主に仕えていた(31)」のです。ヨシュアと(おそらくヨシュアによって訓練されていた)長老たちがイスラエルを導いている間、イスラエルは主に仕えました。リーダーシップが鍵です。

ヨシュアは民に悔い改めと信仰に招きました。これはいつも神が求めるものです。第一に悔い改め「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り(23a)」悪しき者を取り除けることです。第二に信仰「イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(23b)」あなたの人生すべてを主の御手にゆだねましょう。

祈り:主よ。私は心をあなたにお任せします。私の人生において良い選択をすることができますようにお助けください。アーメン。

H.K

References

St Cyprian, cited in Alphonsus di Liguori, Preparation for Death (Brooklyn, NY: Redemptionist, 1926) p.157.