2019年1月26日
第26日
神はなぜ苦難を許すのか?
一歳の男の子が階段から落ちて脊髄を損傷しました。彼は幼い時から十代に至るまでずっと病院で過さなければなりませんでした。ギャビン・リード前メイドストーン主教は、教会で彼にインタビューしました。この少年は「神は公平です。」と言いました。ギャビンは言葉をさえぎって「君はいくつ?」と尋ねると「17歳です。」と少年は答えました。「病院ではどれくらい過ごしたの?」と尋ねると、この少年は「13年間。」と答えました。続けてギャビンが「それが公平だと思う?」と尋ねると、彼は答えました。「神は、僕に埋め合わせをする永遠のすべてをお持ちです。」
私たちが住んでいる世界はインスタントな満足を求め、永遠という視点がほとんど欠如しています。新約聖書には将来に対する素晴らしい約束が満ちています。すべての被造物が回復せられます。イエスは新天新地を建て上げるために再び来られます(黙示21:1)。そこには叫びもなく、痛みも苦しみもありません。私たちの朽ちていく体はイエスの栄光に満ちた復活の体と同じような体へと変えられます。
苦難は神がもとから創造されたものではありません(創世記1-2)。人間が神に反逆するまでの世界には苦難はなかったのです。そして、神が新天新地を創造する時、そこには苦難はありません(黙示録21:3-4)。ですから、苦難はもともとの神の世界にとって異質な侵入者なのです。
これはもちろん「なぜ神は苦難をお許しになるのか?」という疑問の完全な答えではありません。昨日見たように、単純で完璧な解決はありません。しかし、昨日に続いて今日の箇所はいくつかの洞察を与えます。
永遠の目で試練を見る
詩篇16:1-11
今日の詩篇は神の臨在のうちに永遠の希望を予見している、旧約聖書では数少ない箇所の一つです。ダビデは記しています。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(10-11)」
これは、私たちの将来の希望です。これらの節はイエスの復活が聖書の中で予告されたものとして見ることができます(使徒2:25-28)。この命は終わることがありません。私たちは神の臨在と満ち溢れた喜び、とこしえの楽しみのうちに永遠を待ち望むことができるのです。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)
祈り:主よ。キリストにあって、神の臨在のうちに復活の体と永遠性を楽しみに待つことができますことを感謝します。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
人間の自由と苦難との関係を理解する
マタイ18:10-35
神はあなたを愛しています。愛は強制されるならば愛ではありません。愛は真に選択によるものです。神は人間に愛することと愛さないことを選択する自由を与えました。多くの苦難は神を愛すること、他者を愛することを選ばなかった結果から生じます。今日の詩篇でダビデが「他の神に走った者の痛みは増し加わりましょう(詩篇16:4)。」とあった通りです。
しかしながら、イエスは罪と苦難の関係を自動的に結びつけてはいません(ヨハネ9:1-3)。イエスはまた自然災害を神の裁きであるとも言ってはいません(ルカ13:1-5)。それでも、ある種の苦難は私たちの罪、あるいは他の誰かの罪の結果です。この箇所から私たちは3つの例を見ます。
- 迷い出ること
イエスは羊が「迷い出る」ことについて語っています(18:12)。
私たちが羊飼いの守りから迷い出るなら、私たちは傷つきやすくなります。しかし、神は私たちを探すことをやめません。「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(18:14)」 - 他人の罪
イエスは「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら(15)」と言いました。この世界の中にある多くの苦難は他の人があなたに犯した罪によって生じています。それは地球規模でも地域規模でも個人レベルでもです。この箇所には、イエスが和解する方法を教えています。
イエスは弟子たちを、無制限の赦しへと招きます。イエスは人々が私たちに対して罪を犯す時、私たちは彼らを赦すべきだと言いました。それは七度を七十倍するまでです(21-22)。
赦すことは簡単ではありません。十字架はいかに犠牲が払われたか、どれだけ痛みを伴ったかを思い起こさせます。赦しは他人がしたことを否定せず良しとすることでも、見過ごしにすることでも、傷ついていないふりをすることでもありません。むしろ他者が犯した罪から目を背けず、仕返しすることをやめて、あなたを傷つけたその人に愛とあわれみを表すことなのです。 - 寛容を示さないこと
時には赦すことが限りなく難しいことがあります。CSルイスは「人は自分が誰かを赦さなければならない何かが起こるまでは、赦すことは良いことだと思っている。」と言いました。
最後のたとえの中で、赦さない性質が破壊的であることを見ることができます。最初のしもべが比較的少ない負債(16万年間の賃金と比べて3ヶ月半の平均賃金)を赦免することに気が進まなかったことは、もう一人のしもべとの人間関係を破壊しました。そして、二人目のしもべを牢に入れてしまったのです。赦さないことはしばしば人間関係を破壊します。そして、その結果、彼らに対して罪を犯したと考えられる人々に報復するのです。私たちは、このような結果として結婚生活が破綻したり、異なるコミュニティー同士の対立などを見るのです。
赦しは報酬として得るものではありません。イエスはあなたのために赦しを十字架の上で成就してくださいました。しかし、あなたが赦すことを意思することは神の赦しを知っていることの証拠です。赦された人々は赦すのです。私たちは皆、神によって多くを赦されました。私たちは私たちに対して「小さい負債」を持っている人々を赦すことを続けるべきです。
私は神が私を赦すことに制限を設けなかったことにとても感謝しています。それでも、私は他者を見る時、「私はもう一度、さらにもう一度赦されて幸せだ。でももし彼らがこんなことをし続けるなら、赦し続けることは期待できない。」と考える誘惑があります。
神があなたのために為されたように、他者に対して同じ態度を持つことができる心を養って行きましょう。
祈り:主よ。愛するために、迷い出た人々を探すために、そしてあわれみを持つために私の自由を用いることができますように。私が苦難の原因にならないように、むしろ、苦難から人々を解き放ったイエスに倣うことができますように。
思いやりをもって苦難に応答する。
ヨブ1:1-3:26
ヨブ記はまさに苦難の書です。この書の中心的な問いは「苦難に対してどのように応答すればよいのか?」です。
たぶん、私たちはまた苦難の起源についてのヒントを見ます。御使いたちが神の前に集ったとき、「サタンも来てその中にいた(1:6)」のでした。サタンは「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。(7)」サタンの目的はできる限りの苦難をもたらすということは明らかです。
サタンは堕落した御使いのようです。神が人間を創造する以前に、神は自由で、想像性と知性を持つ他の存在を創造し、霊的な領域において反乱があったようです。
私たちは堕落した世界に生きているという事実によって、苦難をかなり説明することができます。その世界とは、人間の罪によってだけではなく、サタンの罪によってすべての被造物が蝕まれた世界です。蛇はアダムとエバが罪を犯す前から存在していました。アダムとエバの罪の結果、「いばらとあざみ(創世記3:18)」が世界に入ってきてしまったのです。その時から、「被造物が虚無に服し(ローマ8:20)」「自然災害」が創造の秩序が乱された結果として起こるようになったのです。
サタンは、神を恐れ、悪を避けてきた、非の打ちどころのない実直な一人の男(ヨブ1:1)の人生に数多くの悲劇をもたらすことが許されました。ヨブが被った苦難は、財産や所有物を失い(13-17)、家族を失い(18-19)、健康を失い(2:1-10)、ついには、友人たちの支えを失ったことでした。
私たちは思わぬ苦難があると、いとも簡単に神を非難します。ヨブはなぜ自分が苦難に遭っているのかを知りませんでしたが、今まで歩んできた幸いな時(1:21,2:10)と同じように、苦難の中で彼は神を信頼し礼拝し続けたのです。ヨブ記の作者は感心したように「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。(2:10b)」と記しています。ヨブは状況が最も困難な中にあっても忠実であることを心に留めたのです。
当初、ヨブの友人たちの対応は正しかったのです。「だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである(13)」。大きな苦難に直面する中で、合理的に説明を試みようとすることは逆効果です。普通、あなたができる最も前向きなことは、そっと肩に手をおいて「泣く者といっしょに泣き(ローマ12:15)」できる限り、苦難にある人に寄り添うことです。
今日の箇所がヨブの物語の終わりではありません。最終的には、神は彼を祝福して以前の二倍に増し加えて立て直されるのです。イエスを通して、私たちは知ることができます。神は永遠のすべてをお持ちであり、この地での一生で受けるすべての苦難を償って余りあるということを。
祈り:主よ。苦難に遭う者に出会うとき、泣く者とともに泣くあわれみを示す者とならせてください。アーメン。
H.K
References
For a wider discussion about suffering, see Nicky Gumbel’s booklet: Why Does God Allow Suffering?
It is also available in chapter 1 of Nicky Gumbel’s book Searching Issues
C. S. Lewis, Mere Christianity, (William Collins, 2012).