2019年7月24日
第205日
疲れ切った頭を休ませる枕
私は時々、神が本当に私を愛してくださっていると信じることに葛藤を覚えることがあります。私は自分を責め立てたり失敗した感覚に囚われたりする誘惑に遭うこともあるのです。神が他のすべての人を愛すると信じることは比較的容易いことですが、神が私を愛しておられることを信じることはもっと難しいものです。
パウロがローマ8章で説明している神の愛は、「決して罪に定められることのない(1)」最後まで引き離されることのない愛です。どんなものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(39)」ジョン・ストットはこの節の真理を「疲れ切った頭を休ませる枕」と描写しました。
「神は私たち一人ひとりを、あたかも愛するただ一人の人のように愛してくださる。」と聖アウグスチヌスは記しました。もしあなたが、この世界に生きるたった一人の人であったとしても、イエスはあなたのために死んでくださったことでしょう。そしてもしあなたにとって真実であるなら、それはまた私にとっても真実です。神は私をそしてあなたを愛しておられます。
主の偉大な愛を告げる
詩篇89:1-8
私たちの礼拝と私たちの証しの両方の焦点は神の愛です。
- 礼拝
この詩篇は礼拝、賛美の歌(1-18)、神の愛に焦点を合わせることで始まっています。「私は、主の恵み(偉大な愛,NIV訳)を、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。(1)」
神の偉大さと栄光について考えましょう。「万軍の神(8)」に愛される者となったということはなんと驚くべきことでしょうか。これは、何者もあなたから取り去ることができないものなのです。詩篇の作者は記します。「あなたは、その真実を天に堅く立てられる(2)」 - 証し
あなたが誰かに手渡すメッセージはいつも神の愛が中心にあるべきです。「私はあなたの愛の物語を告げることをやめることなどできない。(2,MSG訳)」
祈り:主よ。私があなたの愛と誠実を経験することを感謝します。主よ。私が続けてあなたの愛を他の人々に知らせることができますように。
キリストの驚くべき愛を想う
ローマ8:18-39
あなたを取り巻く環境が、あなたへの神の愛に対する疑問の原因になったことがありますか?
パウロはとても迫害されました。殴られ、牢に入れられ、他にもたくさんの困難がありました。しかし、彼はこれらの迫害はやがてある日私たちが見るであろう栄光に比べれは足元にも及ばないと言います。「今の困難な時とやがて来る良い時とは(18,MSG訳)」比べ物にならないのです。
あなたが待っている間、あなたは「御霊の最初の実(23,NIV訳)」を持っているのです。聖霊はやがて来る、将来の栄光という報酬の手付金です。ある日、被造物すべてが自由にされます(21)。今ここで、あなたの身体はだんだんと劣っていき「うめいて(22)」います。しかし、ある日、完全な癒しと回復が与えられます。あなたの復活は「霊的に」だけではありません。それは肉体においてもです。私たちは「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(23)」
パウロは妊娠のたとえを用います。あなたは「産みの苦しみ(22)」をしています。
「一方、あなたが待つことに疲れた瞬間、神の霊はあなたに寄り添ってあなたを助けてくださいます。もしあなたがどのように祈っていいか分からなかったなら、心配しなくてよいのです。聖霊は私たちのうちで私たちのために祈っておられます。言葉にならないため息が、私たちのうめきが祈りとなるのです(26,MSG訳)」聖霊はあなたを神の御心にそって祈ることを可能にしてくださるのです(27)。もしあなたの祈りが聖霊に導かれるなら、それらは必ず答えられます。なぜなら、その祈りは神の御心にかなった祈りだからです。
人生はでたらめで乱雑な出来事の連続ではありません。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(28)」
あなたの人生の細かな一つひとつすべてに神は働いておられます。「すべてのこと」には間違いさえ含まれているのです。神はあなたの失敗さえ用いて、あなたに良い結果をもたらしてくださるのです。神は支配しておられます。神は統治されるのです。すべてのことのうちに神は、ご自身を愛するものたちに良いことを成しておられるのです。その極みとして、神は、十字架を歴史上の実に最悪の出来事でしたが、最善を生み出すものへと変えられたようにです。神はあなたの人生の最悪の出来事を取り除け、それを良いことのために用いることがお出来になるのです。
この約束はすべてのクリスチャンに当てはまります。神は29-30節に緻密に描きこんでいます。あなたは、前もって知られ、定められ、召され、義と認められ、栄光を受ける者とされたのです。最初の4つの出来事はすでに起こったことですが、しかし栄光を受けるのは将来の出来事です。しかしながら、パウロはこれらすべてを同じ時制を用いて表現しています。「神は…栄光をお与えになりました。」これはアオリスト形と呼ばれる完了形でパウロは将来に起こることを確信して見せています。それは必ず起こることが確かにされたということです。
これは思いもよらないことです。新約聖書全体の中で最も豪快な宣言と言えるでしょう。それは安全がすべて確定していると告げているのです。クリスチャンの安心は神の揺るぐことのない愛の上にしっかりと据えられているのです。この確かな土台はあなたのどんな環境や感覚よりも深く確かなのです。
あなたは神の愛をどのように確信できるでしょうか?パウロは5つの反論の余地のない質問を突き付けます。
- もし神があなたの味方なら、どうしてあなたが打ち負かされることがあるのか?
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31b)」もし神があなたのためにおられるなら、他人が何を考えているかはさほど問題ではありません。あなたは人々を恐れることから解放され、他人の考えに必要以上に左右されなくなるのです。 - もし神がひとり子をあなたのために与えたのなら、神は他のどんなものでも同じように与えないはずがあるだろうか?
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(32)」 - 誰が、あなたを訴えることができるのでしょうか?
「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。(33a)」 - もし、神が裁判官であり、イエスが弁護人であるなら、どうして訴えが通ることができるでしょうか?
「神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか(33b-34a)。」イエスはあなたを守ってくださる弁護人です。その手腕はお墨付きがあります。「死んでくださった方、…キリスト・イエス(34)」がすでに私たちのための判決を取り置いてくださっています。彼は「よみがえられた方である(34)」からです。彼は名誉ある最高の「神の右の座に(34)」位置におられます。イエスはそこであなたのためにとりなしておられます(34)。イエスはあなたのために弁護しておられるのです。イエスはあなたのために祈ることをやめることはありません。 - 誰があなたとキリストの愛とを引き離すことが出来るでしょうか?
あなたは友人や家族から、環境が変わったり、死別によって引き離さることはあり得ることでしょう。しかし、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。(35a)」これは人生が楽だと言っているわけではありません。問題、困難、憎悪、空腹、家を失うこと、いじめ、裏切り…があるかもしれません。しかし、「聖書に列挙された最悪の罪の数々でさえ…これらが私たちを慌てふためかせることはありません。なぜならイエスは私たちを愛しておられるかれです(35b-37,MSG訳)」すべての困難の真っただ中で、あなたは、あなたへの神の愛にぴったりとくっつくことができるのです。パウロは人生で起こるかもしれない17の惨事をリストアップしました。それには人間を超えた存在や、時間、空間を含んでいます(35-39)。
パウロのリストはあなたが遭うかもしれない可能性のある困難や試練を網羅しています。そしてパウロは結論として「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(39)」と全き確信をもって語るのです。アイザック・ワッツはこう記しました。「あまりに驚くべき愛、あまりに神々しく、私の魂に迫り、私の命に迫り、私のすべての迫る。」
祈り:主よ。あなたの驚くべき愛にどのようにして十分に感謝することができるでしょうか?あなたは私の人生に、すべてのことにおいて、良いお方として働いてくださることを感謝します。そしてどんなものも私をあなたの愛から引き離すことはできません。
神の尽きることのない愛を楽しむ
ホセア10:1-11:11
あなたは自分の子を愛する親のどんな愛よりも、神があなたを愛しておられることに気づいていますか?
ホセアは、ご自身の民の不忠実にもかかわらず、彼らに向けられた神の愛について話し続けます。彼らは罪を犯し続け、対立と偶像礼拝は「畑のうねの毒草(10:4)」そして「いばらとあざみ(8)」のように生え続けています。あなたの生活の内にそのようなものが成長しないように気をつけなさい。悪いものを刈り取ってしまいなさい。たとえ、わずかな雑草でも放置するとぼうぼうとなってしまいます。
雑草を刈り取るように悪いものを摘み取ると同時に、美しい花を植えましょう。神は彼らに(そして、私たちに)「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実(尽きることのない愛の実,NIV訳)を刈り入れよ。…今が、主を求める時だ。(12)」と呼び掛けておられます。
ホセアはここで親の子に対する愛の様相で描写します。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。…わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは…優しくこれに食べさせてきた。(11:1-4)」
これは神の愛と優しさの素晴らしい描きです。親がよちよち歩きの幼児を世話するように「わたしは彼を抱き上げ、赤ちゃんのように、ほおずりした(4,MSG訳)」彼らを食べさせ、かれらの手をとって、歩くことを教えたのです。
彼らが悔い改めることを拒んで、背を向けることを決めたとしても、神はあきらめません(5-8)。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。(8b)」これは、あなたを離すことのない愛そのものです。
祈り:父よ。感謝します。あなたの愛、同情、優しさ、あわれみを。どんなものも私たちの主キリスト・イエスの愛から引き離すものがないことを感謝します。あなたの愛は疲れ切った頭を休ませる枕であることを感謝します。
H.K
References
John Stott, The Message of Romans, (IVP, 1994) p.246.
Isaac Watts, When I Survey the Wondrous Cross.