2019年5月16日
第136日
あなたの証しには力がある
マーク・ヘザーの両親は、彼がまだ子どもの頃に別れ、彼はアルコール依存の母親によって育てられました。母親はよく彼を殴りました。彼が14歳の時、彼は母親に立ち向かい、もうこれ以上殴るのはやめてくれと言いました。彼女が自殺したのはその翌日のことでした。
それ以後、彼は施設での保護を受け、彼の言葉を借りると「マジで変に」なってしまいました。警察沙汰を起こし、ドラッグにはまり、自暴自棄な生活にどんどんのめり込んでしまいました。
30代になり、マークはガールフレンドからアルファに誘われました。アルファ・ウィークエンドで彼は力強い聖霊の働きによって神と出会いました。彼は言いました。「私のグループのリーダーのトビーは僕のために聖霊が来てくださるようにと祈ってくれたんだ。僕にはそうなることが分かっていたんだ。こらえきれずに泣いてしまったよ。」
「僕はその道をちょっと行ったところにあるパブに飛び込んで、ビールを手に取ると、ふらふら歩いて、外の暗い隅の席を見つけて座ったんだ。静かに座っていると、全身を包み込むような安心感に覆われたんだ。本当に愛を実感したよ。家族の一員になったような気がしたんだ。それまで、一度も味わったことのない何かを経験したんだ。」
「泣きながら、もう一つしるしを見せて欲しくて祈ったんだ。『どうかトビーがあのドアから出てきてくれるように』ってね。そう祈ると、トビーがそのドアから僕を探しに出てきてくれたんだ。」
「神は真実で、僕を無条件に愛してくれる。そして優しいんだ。聖霊は僕を救ってくれたんだ。アルファ・ウィークエンドで僕は主に出会うことが出来た。主は僕が居たところ知っていて、僕があるべきところに戻って来るまで、待っていてくれたんだ。」
マークの個人的な証しは多くの人々の人生に大きな力強いインパクトを与えます。あなたの証しはマークほどドラマチックではないかも知れません。しかし、皆が証しをもっているのです。あなたがクリスチャンとして幼いころから過ごしてきたとしても、数時間前にクリスチャンになったばかりだったとしても、あなたの証しには力があるのです。
あなたの証しを確実に語る
箴言12:8-17
家畜の世話のこと(10)から侮辱に対していらだちを見せるよりも見過ごしにすることまで、今日の箴言は多くの異なるテーマを取り扱っています。「愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(16)」
その中の一つは特に今日のテーマに沿ったものです。「真実に満ちた証人は正直に証しする(17a,NIV訳)」これは、もちろん、法廷での証言のことについて想定したものです。しかしまた、私たちは皆、イエスについてどんな時も証しする者であるといえます。
あなたが友達と夜遊びに出ていても、教会で前に出て話す時であっても、一人の人が真実に、正直に、心から話すことばには力があるのです。
祈り:主よ。私が心から私の証しを話すことができますように。正直に、そして確信をもって。
あなたの証しを根気強く話す。
ヨハネ9:1-34
私は今日の箇所の生まれつき目の見えなかった男の箇所が大好きです。第一に、イエスは罪と苦難とを自動的に結びつけることをはっきりと否定しました(1-3)。パリサイ人たちはこの男の眼が見えないのは、「生まれた時から罪に染まっていた(34,NIV訳)」からだと想定していました。
イエスの弟子たちでさえ、どのような文化でも尋ねられる質問を尋ねました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(2)」イエスは彼らが間違った質問をしたことを告げました。イエスはこう答えたのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(3)」
イエスはご自身の言葉と触ることを通してこの男を癒されました。イエスは深い愛と尊敬をもって彼に触れたのです。奇跡は多くの興奮を呼び起こします。この男を知っていた人々は、この出来事について議論し始めました。
私たちは癒しの奇跡が起こった時、それをどのように説明するかということが常に持ちあがるのです。盲人の眼が開かれた時、「近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか。』ほかの人は、『これはその人だ』と言い、またほかの人は、『そうではない。ただその人に似ているだけだ』と言った。」(8-9a)
私たちは些細なことに囚われて全体的なポイントを見落としがちです。この男が癒された自分の体験を証しした時、ある人々はこう反応しました。「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。(16)」
この男は単純に、自分に起こったことを何度も何度も話しました。彼は投げかけられる複雑なすべての質問に答えませんでした。しかしながら、彼は、あなたが答えを知らない質問を投げかけられた時に、答えることのできる最善の答えを教えてくれているのです。彼はただこう言ったのです。「私は知りません」(12)
彼の答えが最終的に、すべての懐疑的で皮肉っぽい質問をした人々をいらいらさせたことは何とも痛快なことではないでしょうか。彼は彼らのした質問すべてに対してただ知らないと言っただけです。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(25)」
彼の眼が開かれた時、彼の心と思いもまた開かれました。彼は「イエスという方(11)」を知り始めたのです。それで、彼はイエスを「預言者(17)」、「神から出ておられる(33)」ことが分かりました。ついには、彼はイエスに「主よ。私は信じます。」と言って、イエスを礼拝したのです(38)。
これは証しの力です。反対を取り扱う場合、それはほとんど答えることができないものです。できることは「以前の私はこのようでした…、そして今私はこうなりました…この違いはイエスが私の人生の中に与えてくださったものなのです。」ということです。
あなたの証しを語ることは、新約聖書のこの箇所と同じように、依然として現代の世界の中であなたの信仰を伝える鍵なのです。
祈り:主よ。「私はかつては盲人でした。しかし今は見えます(25)」という人々の力ある証しを感謝します。さらに多く人々が、目が開かれ、癒され、あなたと出会い証しすることができますように。
謙遜にあなたの証しを語る
ルツ1:1-2:23
真実の愛とはしばしば困難であり、容易ではなく、犠牲を伴うものです。そして、本当の幸せは犠牲をもって誰かのお世話をした人にやって来るものです。
ルツ記は、二人のやもめと田舎の村に住んでいた一人の農夫のお話です。それは前の書である士師記とはみごとな対照を示しています。二つの書が置かれた背景は同じです。ルツ記の時代は「さばきつかさが治めていたころ」(1:1)です。しかし、二つの書の内容は大いに違っています。
士師記は悪と混乱の一覧を物語っています。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師21:25)」ルツ記は忠誠、誠実、親切という素晴らしい物語です。もっとも印象的なのはそれがこの殺伐とした時代になされたということです。士師記はこの時代を通して、国としてのイスラエルの大きな絵を見せてくれますが、ルツ記は特に家族に焦点が当てられています。
宇宙と歴史を支配する神は、同時にあなたの人生のこと細かなすべてに関わってくださる神であることを心にとめましょう。神は全知全能であるだけではなく、あなたの父であり、親しくあなたと関わってくださる神なのです。あなたの生活とこまごまとしたすべてのことは神にとって大切なことなのです。あなたの命は大切なのです。
ルツ記は神が私たちの人生の小さなひとこまを気にとめてくださり、備えてくださり、真実であることを思い起こさせてくれます。
ナオミはルツのことを自分より大切に考えました。ナオミは再婚のチャンスもあるだろうと、ルツに家に戻るように願いました。そしてルツを去らせることでルツに幸せになって欲しいと考えたのです(ルツ1:8-13)。ナオミへのルツの愛もまた等しく自己犠牲的であり自分自身を与えるものでした。
ルツは再婚する気はまったくありませんでした。彼女は姑に対して人並み外れた忠誠をつくしたのです。彼女は言いました。「あなたから去るように、家に帰るようにしむけないでください。あなたの行く所へ私も行き、あなたの住む所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死ぬ所で私は死に、そこに葬られたいのです。ですから神よ。助けてください。死でさえも私たちの間を分かつことはできないでしょう。(16-17,MSG訳)」
ボアズもまた神を恐れる人でした。ボアズはルツの評判を聞きました。彼女は忠実であるだけでなく、実に勤勉だったのです(2:7)。彼女の働きぶりを聞いたボアズは「あなたのことをすべて聴きました。あなたの姑が夫に先立たれた後もずっとお世話をし、あなたの生まれ故郷や両親のもとを去って、全くよそ者扱いされるこの地にやって来たのですね。(11,MSG訳)」
さらには、ルツははっきりと神への自分自身の信仰について証ししています。ボアズは彼女がイスラエルの神に「その翼の下に避け所を求めて来た(12)」ことを知っていました。
ですから、ボアズは尋常ではない親切をルツに表わしました。ルツは姑にこう言いました。「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました(19)」そしてナオミは嫁にいいました。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。(20)」
祈り:主よ。忠誠、親切、誠実のお手本を与えてくださり感謝します。どうか私も同じようにできますように。どうか私たちのコミュニティーが忠誠、親切、誠実によって知られるようになりますように。アーメン。
H.K