イエスを見つける方法
聖書全体の中心はまさにイエスです。マルチン・ルターは言いました。「みことばはキリストが寝かせられた飼い葉おけである。」親が自分たちの赤ちゃんを見るためにベビーベッドに行くようにして、クリスチャンはイエスを見つけるために聖書におもむくのです。
今日の箇所で、私たちはいかにイエス・キリストが新約聖書やヨハネの黙示録の中だけに啓示されているのではなく、旧約聖書の中に ― 箴言やゼカリヤ書の中に ― 啓示されているのかを見ます。
イエスの御名
箴言30:1-10
神の証拠は果たしてあるのでしょうか?
「懐疑論者は悪態をつく『神はいない!
神はいないのだ! ― 私は自分の思いのままにできるのだ!…
私は聖なる神の証拠など見たこともない』(1-3,MSG訳)」
懐疑論者は5つの質問を尋ね続けます。
- だれが天に上り、また降りて来ただろうか。
- だれが風をたなごころに集めただろうか。
- だれが水を衣のうちに包んだだろうか。
- だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。
- その名は何か、その子の名は何か。
新約聖書はそれぞれ5つの質問の答えを啓示してます。それはイエス、イエス、イエス、イエス、イエスです。それは高いところに上げられたイエス(たとえばエペソ4:8-10参照)。それはこのお方を通して全世界が創られたイエス(ヨハネ1:1-3)。すべての名にまさる名を持たれるイエス(ピリピ2:9)。神の証明はイエスに見出されます。
新約聖書は神の名はイエスであるということを啓示します。箴言の作者は「私の神の御名(箴言30:9)」について深く取り扱います。彼は「貧しさも富も(8)」願い求めていません。彼は、富は主を自分のものではないとさせてしまうことを恐れ、そして貧しさは盗みをし、「私の神の御名を汚すこと」になってしまうことを恐れたのです(9)。
祈り:すべての名にまさる名を持たれるイエスよ。私はあなたを礼拝します。私はあなたの御前に膝をかがめます。今日、私の盾となってください。私はあなたに身を避けます(5)。私があなたの御名を汚すことになりませんように。
イエスのことば
黙示録2:1-17
「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方(8)」であるイエスが7つの教会に宛てて語ったこれらの言葉は大きなチャレンジを含んでいます。よみがえり、天に昇られ、栄光を受けられたイエスは、ご自身が望まれる教会がどのようなものであるかを啓示なさいました。
- あなたの初めの愛を失わない
イエスは何にもましてその愛によって有名とされる教会を探し求めておられます。あなたが初めてイエスに出会った時にあなたが何を感じたかを覚えていますか?多分、あなたは喜び、平和、意味と目的についての新しい感覚、そして興奮を味わったのではないでしょうか。あなたは「恋に落ち」ましたか?「ハネムーンの時期」がありましたか?
人生が進んでいく中で、「初めの愛(4)」を失いやすいものです。他のことが忍び込むのです。仕事、生活の煩さ、あなたの主への働きでさえあなたの始めの愛の情熱からあなたを遠ざけてしまうこともあるのです。
イエスは彼らに仕えることを命じています。「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦…を知っている。(2)」しかし、私の人生において、御国のために労苦して働いたとしても、御国の王を無視してしまうことがありました。
イエスは彼らの苦難の中で耐え忍び、忍耐することを命じています。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び(3)」しかし、私が、自分の問題や苦難に焦点を当てる時に、自分の熱心さを失ってしまうことがありました。
イエスは彼らの信仰の正統性を命じています。― 彼らは、悪い者たちをがまんすることができませんでした(2)。しかし、私が正統性に関心をもっていながら、私は愛を忘れてしまったことがありました。
イエスはチャレンジします。「あなたは初めの愛から離れてしまった。(4)」と。心かき乱される言葉です。もしこうなったら、あなたは何をしますか?
イエスはあなたに勧めます。
第一にイエスはあなたに始めの愛を思い出すように勧めます。 ― あなたは、どこから落ちたかを思い出しなさいと(5)。あなたの始めの愛、イエスについての熱心さと興奮を失ってはなりません。
第二に悔い改め、あなたの行動をきよめなさい。もしあなたが独りよがりや妥協に堕してしまったら、あなたは浮きかすを取り除く必要があるのかもしれません。私たちがゼカリヤ書で読んだように、「わたしは、…銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。(ゼカリヤ13:9)」
もしあなたが人生の試練と試みの時にあるなら、神はあなたを製錬するために火の中を通らせるのです。
第三に、あなたが初めてイエスに出会った時にあなたがしたことをもう一度するように戻されます。「あなたは、…初めの行いをしなさい。(黙示録2:5)」
- 迫害に直面してしっかりと立つ
ナダルカニ牧師はイエス・キリストを信じているということだけでイランで収監されました。彼は死刑判決を受けていました。国際世論の圧力によって彼は釈放され、彼の家族と再び会うことが出来ました。わたしは彼にホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会でインタビューする機会に恵まれました。私たちは皆、彼の忠実さと勇気に奮い立たされました。7つの教会の中でイエスに非難されていない教会は、スミルナとフィラデルフィアのたった二つだけです。スミルナは迫害と物質的な貧しさにもかかわらず、霊的に豊かでした。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。―しかしあなたは実際は富んでいる―(9)」
(しばしば、他の教会の場合はそうなのですが)イエスの教会に対する言葉は「悔い改めよ」ではありません。むしろ、「恐れてはいけない。(10)」です。今日、迫害されている教会のように、彼らは投獄、迫害、そして死さえも直面します。そかし、神は期限を設定しています(「十日の間」)そして「わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(10b)」と約束しています。
- 真理のために闘う
ペルガモの教会は、「そこにはサタンの王座がある。(13)」と呼ばれるほどこの地上で最も邪悪な場所にありました。しかし、イエスは言います。「あなたは、わたしの名のために真理に留まった(13,NIV訳)」彼らは迫害の中にあったにもかかわらずイエスにある彼らの信仰を放棄しなかったのです。それでもなお、イエスは彼らに偽りの教えと性的な不道徳に陥ったことがあったと非難します(14)。真理が重要です。イエスは彼らに悔い改めを呼びかけ(16)、もし彼らがそれに打ち勝ったら、イエスは彼らに魂を養う食べ物(「隠れたマナ」,17)とキリストにある永遠の安全を与えます。
祈り:主よ。私があなたへの始めの愛から離れることがありませんゆに。私が堕落していた所とあなたが引き戻してくださった所の落差を覚えることができますように。大きな試練に直面している迫害されている教会に勇気を鼓舞してくださることを感謝します。私たちの文化によらずあなたの真理を握ることができますように。あなたに忠実であらせてください。
イエスの恵み
ゼカリヤ12:1-14:21
神はご自身の民に約束されます。「わたしは、…恵みと哀願の霊を注ぐ。(12:10)」聖霊は恵みと哀願の霊です。聖霊はあなたの心に神の恵み(受けるに値しない私たちのために与えられる愛)とあなたが祈るための助け(ローマ8:26-27参照)を注いでくださいます。聖霊はあなたの思考の中に働かれます。あなたが祈るべき人々や状況に気づかせてくださいます。
どのようにしてこのすべてが可能なのでしょうか?ゼカリヤは続けます。「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見…(ゼカリヤ12:10)」彼らが突き刺した者とは誰でしょうか?使徒ヨハネは私たちに答えを与えています。「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。…また聖書の別のところには、『彼らは自分たちが突き刺した方を見る』と言われているからである。(ヨハネ19:34-37)」
その結果は何でしょうか?「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。(ゼカリヤ13:1)」これは私たちの主イエス・キリストの恵みです。イエスの死を通して、このお方が刺し通されたことを通して、あなたはすべての罪とすべての汚れからきよめられることが出来るのです。
イエスは、ご自身の死について考える時に、この箇所が頭にあったように思えます。イエスは、ご自身が捕縛され、弟子たちが見捨てるであろうことを予期した時、ゼカリヤ13:7を引用しました。「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。(7,マタイ26:31,56参照)
ゼカリヤ14章の言葉は、イエスの生と死と復活、そして再臨までをも待ち望んでいるかのように見ることが出来ます。
- イエスはその足でオリーブ山に立つであろうと言われた人です(ゼカリヤ14:4、マタイ21:1)
- イエスは決戦の日に戦うように、それらの国々と戦うために出てこられるお方です(ゼカリヤ14:3、黙示録20章)
- イエスはいのちの水が流れ出てくるお方です(ゼカリヤ14:8、ヨハネ7:37-39)
- イエスは王として礼拝されるべきお方です(ゼカリヤ14:16、黙示録5章)
- イエスはすべてのものを「主への聖なるもの」と刻印することを可能にしてくださるお方です(ゼカリヤ14:20)
- イエスは世俗と聖なるものとの区別を撤廃なさいます。なべはもっとも日常的な家庭で用いる調理器具です。しかし、それらもまた「万軍の主への聖なるものとなる」のです。