Tokyo Chapel

2018年4月1日

第91日

イエスに従う

ピッパと私は、とうとうツイッターやインスタグラムの世界に入りました。そこでは、あなたは、誰かを「フォロー」し、あなたも誰かに「フォロー」されます。

ケイティ・ペリーやジャスティン・ビーバーは、それぞれツイッターで、今や一億人のフォロァーがいます。他の多くのセレブリティーも非常に多くのファンがフォローしています。人々は彼らの生活、言葉、ライフスタイル、ダイエット、ファッションをフォローするのです。ファンは彼らの全部を知りたいのです。そして彼らと繋がって、彼らのようになりたいのです。そしてまねるのです。これらは本来的に問題があるわけではありません。尊敬する人物をフォローしたいというのは自然な事です。ツイッターでセレブをフォローすることは楽しいことですし、為になることもあるでしょう。

しかしながら、ツイッターで誰かをフォローすることはともかく、誰かの真のフォロワーになるということは全く別の次元の話です。それは、彼らの生き方に倣い、彼らがあなたにするように命じたことを行うということを意味します。フォローする正しい人々を選ぶべきです。ツイッターと違って、あなたが誰をフォローするかは一大問題です。たとえば、何百万人もの人々がヒットラーや、スターリン、ポルポトに従いました。今日でも、何百万人もの人々が悪しき独裁者やテロリスト、ギャングのボスに従っています。

ある人々は伝統や制度に対して懐疑的であり、従うべき人物を知りません。私たちの家庭、制度、政治的指導者によってしばしばもたらされたり、擁護されてきた伝統的なモデルは、ある程度崩壊しつつあります。多くの人々は誰に従っていいのかわからないのです。

イエスは何度も「ついて来なさい。(フォロー・ミー)」と言いました。この世界に生まれた、すべての人々のうち、イエスこそが最も多くのフォロァーがいます。世界中の二十四億人を超える人々がイエスに従うことを告白しています。イエスのフォロァーのことを「弟子」と呼びます。彼らはイエスとともに居たいですし、知りたいですし、イエスのようになりたいのです。そして、イエスがせよと命じたことを皆したいと願っているのです。

「いや、ツイッターの話をしてるんじゃなくて…文字通り、君に『フォロー』して欲しんだ。」

イエスの例に従う

詩篇40:1-8

困難の中にあるとき、かつて神がいかに助け出してくださったかを思い起こすことは大きな力です。

ダビデは「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。(40:2)」と記しています。ダビデは経験してきた罪、病気、深い失意などを表したのでしょう。コーリン・テンブームは「どんなに深い泥沼も、神の愛の深さには及ばない。」と言いました。

失意という「泥沼」は本当に酷いものです。その時は失敗やがっかりした事柄がずっと思い出されるのです。私にはもう良いことは起こらないのだと信じ始めてしまいます。そして無情な気持ちと寄る辺のない気持ちにさいなまれるのです。そして、問題は克服することが出来ず、私の人生に対する神の召しを全うすることも出来ないと考え始めてしまいます。

寄る辺なきダビデは、「私は神を待って、待って、待ち続けた。ついに神は見た。とうとう神は聞いた。神はどぶから私を引き出し、深い泥沼から私を引き上げた。(1-2a,MSG訳)」

神は泥沼から引き上げたあとで「神は私が足を滑らさないように堅い岩の上に立たせてくださった(2b,MSG訳)」のです。神はダビデの口に新しい礼拝の歌を授けました。そして彼の証しは多くの人々を「主に信頼(3)」することへと導きます。

ダビデは「この世が礼拝するモノ(4,MSG訳)」を無視し、主に従うことの大いなる祝福について記しています。「幸いなことよ。主に信頼し、…あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。(4-5)」

ダビデは「あなたは私の耳を開いてくださいました。(6)」と言いました。ダビデの成功の秘訣は祈りと従順です。

ダビデは神のご意思にすべて従うように自分に命じたのです。ダビデは言います。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(7-8)」

これもまた、イエスの成功の秘訣です。ヘブル人への手紙の作者によれば、これらの節はイエスに完全に成就したことが見出されます。作者はこの詩篇の6-8節をイエスご自身が引用して言われたことを私たちに告げています。(ヘブル10:5-10参照)イエスは祈り、従って言いました。「わたしは来ました。…神よ、あなたのみこころを行うために。(7)」作者はさらにこう続けます。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(10)」

イエスの例とに従いましょう。そして、あなた自身を神の御心を行うように命じましょう。ダビデは、主に自分の信頼を置く者たちは祝福されると言っているのです。あなたは「奇しいわざ(5)」のすべてを見ることになるでしょう。そして「私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。(5)」

祈り:主よ。あなたが滅びの穴から、泥沼から引き揚げてくださり、しっかりと立つことができる岩の上に立たせてくださったことを感謝します。私の口に新しい歌を授け、人々が私を見てあなたに信頼を置くことができるようにしてください。今日、あなたに祈り、従うことを助けてください。


イエスの指示に従う

ルカ8:40-9:9

イエスはご自身のメッセージを発信するにあたって、ソーシャル・メディアを使いませんでした。放送も、大きなスクリーンも使わず、マイクさえ使いませんでした。イエスにはそれらは必要なかったのです。イエスには「力と権威」があり、従う者達に付与されました(9:1)。

イエスのメッセージを発信するためにあらゆる方法を用いても構いませんが、メッセージの核心を忘れて現代的なコミュニケーションツールを追いかけても仕方ありません。今日の箇所で私たちが読む、イエスの例とイエスの指示に従うのです。

イエスは長血を患っていた女を癒し、ヤイロの娘の命をよみがえらせました。ヤイロと女には対照的な異なる特徴がありました。一人は男性、一人は女性です。一人は個人であり、もう一方は群衆の一部です。一人は影響力のある人物、もう一人は一見して取るに足りないような人物。一人は自分の娘についてイエスに語り、もう一人はイエスから「娘よ」と呼ばれました。一人は健康であり、もう一人は病気でした。

しかし、二人の共通点はイエスの力と権威に拠り頼んだということです。そして、二人とも、イエスに近づき、同じように振舞いました。ヤイロは「イエスの足もとにひれ伏し(41)」ました。そして女は「震えながら進み出て、御前にひれ伏し(47)」ました。

二人とも、イエスに対して正しい姿で応答しました。彼らはイエスの力を認め、イエスの指示に従う準備が出来ていました。そして、イエスが癒す力を持っておられると信じたのです。イエスは女に言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。(48)」そしてヤイロに「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。(50)」と言いました。これらはどちらも考えられないような力、考えられないようなあわれみの物語です。

イエスについて「そして、さわった人々はみな、いやされた。(マルコ6:56)」と言われています。十二年間長血を患っていた女は「イエスの着物のふさにさわった」のです。そしてイエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしからが出て行くのを感じたのだから(ルカ8:46)」と言われました。彼女は「たちどころにいやされた(47)」のです。イエスがヤイロの娘を死からよみがえらせました。人々は「ひどく驚いて(56)」いました。イエスの御業は大いなる力と権威が伴うのです。

イエスがこれをあなたにも授けておられるということはさらに驚くべき事です。権威はイエスの御業にふさわしい言葉です。しかしながら、それはイエスだけのものではありません。イエスは弟子たちを呼び集め、「彼らに、…権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え病気を直すために、彼らを遣わされた。(9:1-2)」これはイエスの弟子として召されているすべての人に与えられている務めです(マタイ28:18-20)。主の力と権威は今日、あなたに与えられているのです。

祈り:主よ。あなたの指示にしたがうことができますように。神の国を宣べ伝え、病人を癒すことをさせてください。あなたの例に従って、力と権威を伴う働きを学ぶことができますように。


全身全霊でイエスに従う

民数記31:25-32:42

神の力と権威は主に「全身全霊で(32:12,NIV訳)」従い通した人々に与えられます。カレブとヨシュアはイスラエル人の中から例外的に選び出されました。なぜなら、この二人が「全身全霊で(NIV訳)主に従い通したからである。(32:12)」これが、神の民が為すように召されていることです。

モーセはイスラエルの民に「あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。(15)」と警告しました。モーセは律法に反して罪を犯さないように警告したのです。「あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(23)」聖句がいつもチャレンジすることは、私たちの心すべてをもって主に従い、罪に手を染めないことです。

これを新約聖書のレンズごしに読むならば、「主に従う」ことはイエスに従うことです。「イエスは主」という告白は新約聖書の中心的な主張です(ローマ10:9など)。

これらの箇所に、主にある信仰と信頼を置き、主の御心を為すことを自らに命じ、イエスに全身全霊で従う者たちにどれほどのことが可能であるかを私たちは見ます。これはあなたが召されていることなのです。あなたがこれをする時、イエスはあなたを力と権威を与えて、福音を宣べ伝え病人を癒すために世に送り出されます。

祈り:主よ。私をカレブとヨシュアのように全身全霊であなたに従うことができますように。今日、私はあなたの例に倣いたいのです。そして自分自身にあなたの御心を行うように命じます。力と権威を授けてくださり、福音を宣べ伝え、病人を癒し、働きを為すことができるように助けてください。アーメン。

H.K

References

Cartoon © Charlie Mackesy

Corrie ten Boom, The Hiding Place, (Hodder & Stoughton, 2004) p. 196