2019年4月17日
第107日
神中心の人生のための6つのステップ
ウィリアム・テンプルは、彼の父がそうであったように、カンタベリーの大主教でした(1942-1944)。彼の偉大な業績の中に、ヨハネの福音書の卓越した講解書があります。彼は、神の前にひざまづき祈りを通して「聖ヨハネの福音を読む」と名付けられた、一巻の講解書を記したのです。
礼拝について、彼は記します。
「礼拝とは私たちの本性すべてを神に従わせることである。神の聖さによって良心を再生させること、神の真理で精神を養うこと、神の美しさによって想像力をきよめること、心を神の愛に向かって開くこと、意志をみこころに従わせること ―これらすべてを崇敬の念をもって集めることである。」
礼拝は私たちを自己中心から救い、神中心にします。あなたは神との関係に生きる者として創られたのです。それはあなたの第一に優先すべきものです。もし、あなたが人生の第一に神を置くなら、あらゆる祝福が流れます。なぜなら、神はあなたを愛し、あなたの人生のための計画を無視するという危険に対して警告しておられるのです。
しかし、神中心の人生を導くにはどうすればいいのでしょうか、そして、それを得るためにどのようなステップを踏む必要があるのでしょうか?
1.神を礼拝する
詩篇47:1-9
あなたは神を礼拝することに招ねかれています。
この詩篇の中の礼拝は、非常に感情をあらわに、騒々しい礼拝が描かれています。「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。…神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。(47:1,5)」そこにはまた、たくさんの歌声がありました(6-7)。
はちきれんばかりの喜びにあふれた礼拝は、神への崇敬と驚異的な御業のゆえに沸き立つ行動です。
あなたの主への礼拝のすべての表現が描かれています。礼拝はあらゆる神に対する、愛と感謝と神に栄光を帰する、私たちの表現であり、そこには感情が伴います。
すべての人間関係には感情が伴います。私はピッパに「私はあなたを私の思考と共に愛している。」と言ったりはしません。私が言うのは「私はあなたを私のすべてをもって愛しているんだ。私の思考、私の心、私の意思…」
サッカーの試合のようなスポーツ観戦の場で感情をあらわにしない人はいません。そこで感情をあらわにすることは良いことだからです。そうであるなら、なぜ神を私たちが礼拝する時にそのような違いを設けなければならないことがあるでしょうか?
祈り:主よ。今日、私をあなたにゆだねます。あなたの聖さによって良心を再生させ、あなたの真理で精神を養い、あなたの美しさによって想像力をきよめ、私の心をあなたの愛に向かって開き、私の意志をみこころに従わせることができますように。私はあなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。
2.堅実に神に祈る
ルカ18:1-30
神中心の生活は首尾一貫した祈りの生活です。イエスは弟子たちに「いつでも祈るべきであり、失望してはならないこと(18:1)」を教えられました。あなたは教会の中や、決められた祈りの時間だけでなく、いつでもどこでも、神と対話することができるのです。私はクリスチャンになって間もないころに、日々、「歩くように話す」ことを教わりました。
イエスはやもめと不正な裁判官のたとえをイエスは用いました。この裁判官は「このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。」と考えました(4-5)。イエスは、もし不正な裁判官でさえやもめの訴えを聞いてくれるなら、ましてや神は「夜昼神を呼び求めている(7b)」者の願いを聞いて下さらないはずはないと言われました。祈るのをあきらめないようにしましょう。祈るのが難しいときほど祈りましょう。
3.謙遜になる
謙遜さは、あなたに偶然起こる何かではありません。それは、あなたが意思してすべき何かです。むしろ自分を高めるよりも、「へりくだる」ことを意思しなさい。神は自分を低くする者を高くされるからです。(14)
もし私たちが、人と自分を比較するならパリサイ人のようになっていまいます。「ゆする者、不正な者、姦淫する者…あの人のようでなくて感謝します…」と。(11)パリサイ人は自分の義に基づいていました(9)。彼は自分自身に頼るという罠に陥ったのです。もし、私たちの人生が真に神中心であるなら(神の聖さによって私たちの良心が再生しているなら)、私たちは神と自分を比べてこう言うことが可能です。「神は罪びとである私をあわれんでくださった」(13)。真理は、私たちは皆、罪人で、神のあわれみを必要とする存在であるということなのです。
この箇所を読むと、神に、私はパリサイ人のようでないことを感謝する自分に気付かされます。しかし、それはイエスが描いたパリサイ人の失敗と同じことをしているのです。自分の罪や神を必要としていることを認識するよりも、他人と比べて自分の方が正しいと考えているからです。これはまさにパリサイ人の罪なのです。
4.子どものようになる
時々「幼子たち(15)」、教会の中の子どもや若い人々を「将来の教会」と形容されることがあります。しかし、イエスによれば、彼らは将来の教会だけではなく、彼らは「今日の教会」なのです。「神の国は、このような者たちのものです。(16)」
イエスは私たちがこどもようになるように召しています。こどもらしい、と子どもっぽいとは違います。イエスは「こどものよう」と言われたのです。
こどものようになることと、成長したクリスチャンは矛盾しません。こどものようであることは、オープンで、受容的で、信頼し、謙遜で、愛し赦すことを指向します。神中心の人生はイエスに頼り、こどものように生きることです。
あなたが、自分を正直に開示し、傷つきやすくもろい存在であることを認め、自分が神や他の人々をどれほど必要としているかを表す時、あなたは子どものようになります。
子どもは本能的に捜したり、見つけたりするのが好きです。子どもたちは過去に生きたりはしませんし、今でよしとは思いません。抑えられない好奇心をもって将来を見ます。大きな可能性を楽しみにして。
子どものように本能的に応答する自由を養いましょう。不思議さ、畏怖、愛、喜びを自由に感じ、表現しましょう。一途に探求し、あなた自身を発見し確かめましょう。
5.イエスに従う
イエスに従うことよりも価値あることはありません。ペテロはイエスに「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。(28)」と言いました。イエスは答えて「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」と言いました。
イエスは、若い役人を神中心の生き方に招きました。すべてを捨てて、イエスに従うようにです(22)。多分イエスは彼のうちに、使徒ペテロやマタイなど、「私に従いなさい」というイエスの言葉に積極的に応答する可能性を見ていたのでしょう。
日数を積めば積むほど、神中心に生きることはきつくなります。若い役人は「非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。(23)」とあります。金持ちが神の国に入ることが出来ないというのではありません(27)。しかし、それはとても難しいのです(24-25)。それは基準がより高いというのではなく、さらされる危険が大きいということです。
実際、金持ちである、ある人々には、自分自身の行いの力によって神の国に入ることは不可能なのです(24-25)。しかし、神によってはどんな人にでも可能になります。金持ちでさえ、神の国に入ることができます。イエスは言いました。「人にはできないことが、神にはできるのです。(27)」あなたの過去の失敗やあなたの現在の状況があなたの将来を決定する必要はありません、神によってすべてが可能なのです。
祈り:主よ。罪人である私をあわれんでください。子どものような信仰を、あなたに頼ることを得させてください。心を尽してあなたに仕えるために、他のすべてのものを捨て去ることを意思することを助けてください。
6.神に仕える
申命記28:15-68
この箇所で、律法に従わず、戒めに従わないなら(28:45)、また主に仕えず(47)、神を中心とせずに生きることが、どれほど悲惨なな結果を招くかを知ることが出来ます。私たちはまた、これをイスラエルの歴史のうちに悲惨な結果を見るのです。
私自身の人生において、ここに描かれていることの一部を垣間見ます。特に、神との関係を経験する以前の年月がそうです。「あなたの頭の上の天は青銅となり(23)」というような、神から遠く切り離された感覚を持っていました。
私たちはどれほど「主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる(65-66)」のかということを知ります。「思い煩いは恐れを中心にぐるぐる回る役に立たない思考の行き巡りである。(コーリー・テン・ブーム)」これはイエスがもたらしてくださる平和と喜びの反対です。
もちろん、時々、心を尽して主の命令に仕え、従うことに失敗することがあります。新約聖書の素晴らしい知らせは、イエスが私たちが受けるべき罰やのろいから救ってくださったということです。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。(ガラテヤ3:13)」
祈り:主よ。あなたが私の身代わりとなって死んでくださったことにより、私は赦され、私が担うべき結果から自由にされたことを感謝します。あなたが私を神中心の生き方へと招いてくださったことを感謝します。心を尽してあなたを礼拝することを助けてください。あなたに喜びをもってお仕えすることができますように。そしてあなたにいつも従うことができますように。アーメン。
H.K
References
Corrie ten Boom, Clippings From My Notebook, (Triangle, 1983)
Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p.862
William Temple, Readings in St. John’s Gospel (Macmillian, 1952)