Tokyo Chapel

2018年4月19日

第109日

神の戦略的計画

ロンドン人口は800万人以上、ヨーロッパ最大の都市であり、世界で屈指の大都市です。年間1800万人が訪れ、300以上の言語が話されています。

都市は福音を宣べ伝える上で戦略的な場所です。それはいつの時代もそうでした。パウロは都市から都市へと福音を取り運びました。AD100年には北アフリカやイタリアを含む地中海を囲む40以上の都市にクリスチャンのコミュニティーが存在しました。AD300年には、それらの地域の半数はクリスチャンとなりましたが、農村部の90パーセントは依然として異教徒でした。ほとんどのパウロ書簡は都市に宛てて書かれています。

都市は文化が形成される場所としての傾向を持っています。都市は様々な分野で影響力をもって発信しています。政治、行政、司法、芸術、芸能、ビジネス、市場、大学や各種教育、メディアや情報通信の中心、都市で生み出されたものが周辺地域や農村部へと流れ出て影響を与えていくのです。文化を変えるには、都市を変えることです。

それゆえ、神の目的において、都市が重要な役割を果たすことは驚くに値しません。特に、一つの都市が神の世界戦略において中心となりました。


都市の力

詩篇48:1-8

詩篇はいつも「神の都(エルサレム)」について語ります。この箇所で、形を変えて7回、都市について言及されています。都市の「美しさ(2)」、その「安全(8)」を祝っています。ほとんどすべてが、それが「私たちの神の都」であるという事実を祝っています(1,8)。そこには神の神殿が建てられ、神の臨在がありました(3)。そこは神の守りがありました(3,8)。それは「全地の喜び。(2)」として全世界への祝福の源となることが意図されていました。

パウロは実際のエルサレムと「上にあるエルサレム(ガラテヤ4:26)」とを対照的に描き出しています。彼はキリストの教会を 新しいエルサレムと見なしているのです。

黙示録の中でヨハネは「聖なる都新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来る」のを見ました(黙示録21:2)。新しいエルサレムは教会、キリストの花嫁です。それは神が永遠に住まわれる場所です。

教会は「高嶺の麗しさは、全地の喜び。(詩篇48:2)」として驚くべき場所となるべきです。そこには神の臨在があり、神の安心と守りがあり、私たちのまわりの世界に祝福を流し出していく場所であるべきです。

祈り:主よ。あなたの臨在の力が教会にありますことを感謝します。どうか、私たちがこの世界の祝福の源となることができますように。


都市への情熱

ルカ19:11-44

イエスがエルサレムの都に近づいた時(11)、イエスはミナのたとえを話されました。それは聴く者に神の国を思い巡らし、神が地上での神の都に対するご計画に挑戦を与えるたとえでした。1ミナは、およそ3か月分の給与にあたる金額で、大きな金額です。神があなたを信頼して委ねたすべてのものをどのように使うかが大切です。

それはお金の事だけだと思ってはなりません。神があなたに与えた時間、教育、仕事、技術、機会など、王なるお方と御国のために用いるべきすべてを含んでいます。

ミナを信頼に応えて管理した報酬として「十のを支配すること」や「五つのを支配すること」(17,19)なのは興味深いことです。

イエスが盛大にエルサレムのに入城した時、「弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。』」と言いました(37-38)。

彼らはイエスを、ローマの支配からエルサレムの解放し、ダビデの王権のすべての約束の成就として、エルサレムに来て統べ治めてくださる救い主(メシア)として見ていました。

しかし、イエスは違った計画をもっていました。イエスがエルサレムを近づかれた時、彼は都を見て涙されました(41)。イエスはこの都に深い思いとあわれみをもっていました。イエスはやがてAD70年に起こるエルサレムの崩壊を予見していました。神殿は再び建てられることはなく、エルサレムは多くの涙が流される場所として残ったのです。

悲劇は、エルサレムが「神の訪れの時(44)」を知らないことです。しかし、神はイエスという人を通してお越しになりました。そしてエルサレムでイエスは死に、復活しました。イエスは新しいエルサレムを実現することができたのです。

祈り:主よ。あなたと同じ深い思いとあわれみを、今を共に生きる人々に私が持つことができるようにしてください。


都市の人

申命記30:11-31:29

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(31:8)」

恐れたり、おののいたりすることは人間の自然な反応です。モーセほそれらに直面しました。彼の後継者であるヨシュアも、そして民もまた実際の戦いだけでなく「内面の戦い」に直面しなければならないことをモーセは知っていました。

モーセは生涯の終わりに、民に対して神のことばに従うように促しました(30:14)。主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように(16)命じたのです。心変わりすることの無いように警告し、「いのちを選ぶ(19)」ように促したのです。

この選択は、あなたの「思い」から始まり、あなたの思いは「ことば」となり、あなたのことばは「行動」となるのです。毎日、命を与える思いを選びましょう。

モーセの後継者はヨシュアです。彼は神の民の新しいリーダーでした。ヨシュアはその先、多くの闘いに臨むことになります。ヨシュアには次の言葉が与えられました。「強くあれ。雄々しくあれ。…主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(31:6,8)

モーセは「あなた方の前に恐れをもたらすものも、おののかせるものもない」とは言っていません。むしろ恐れさせるもの、おののかせるものがあることを知っていました。すべてのリーダーシップには、ビジョンを粘り強くとつかむことと、道を進みゆく中での困難に対する非難に忍耐するという強さが必要です。この時も今も、神の民は強いリーダーシップを必要としています。そのリーダーシップは、そこにある反対や抵抗によっておののいたり意気消沈したりせず勇敢であることです。

恐れに対する答えは「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。(6)」です。今日、主は同じ約束をあなたや私に与えておられます。あなたが疑い、失意、困難によって攻めたてられる時、あなたが行く所どこにでも、そしてどんな状況においても、あなたが神があなたの前に道を備えてくださいと願い求めることができるということを覚えましょう。それゆえに、あなたは確信を持ち、恐れる必要がないのです。

それからモーセは彼らに告げました。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。(10-11)」

もちろん、「主の選ぶ場所」とはエルサレムの都であることが判ります。仮庵の祭りにおいて、人々はエルサレムに行き、モーセを通して神が荒野で岩から水を湧きあがらせた時のことをお祝いしたことでしょう。彼らはかつて神が水をお与えくださったことを感謝し、これから迎えようとする年も同じようにしてくださることを祈ったことでしょう。水は神の恩寵のしるしであり、霊的な刷新の象徴と見ることができます。(たとえば、1コリント10:3-4)

仮庵の祭りの最後の日にイエスは立って、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)」イエスはこの出来事は、どこかの「場所」に起こるのではなく、「人」に起こる約束であることを示されたのです。

いのちの川はイエスの一番深いところから溢れ流れます。さらに派生して、いのちの水の川の流れはすべてのクリスチャン(イエスを信じる者は誰でも!)から流れ出ていくのです。イエスが言われたように、あなたからこの川は流れ、いのちをもたらし、実を結び、人々を癒すのです。

この描きは、再び黙示録の中に、エルサレムの都の成就した場所として見ることができます(黙示録22:1-3)。聖書の物語の始めにエデンから流れ出る川が描かれているように(創世記2:10)、聖書の最後には、新しい天と新しい地で、永遠に人が住まう家と神がなさった、この「神の都」から、川が流れ出るのです。

祈り:主よ。私が行く所どこにでもあなたがともにおられるという約束を感謝します。あなたは私を離れてどこにも行くことがありません。あなたの聖霊で満たしてください。そして今日、いのちの水が川となって流れて行きますように。アーメン。

H.K