2019年7月5日
第186日
神の祝福の笑みの輝きはあなたの上にある
2017年にコンサートで死者を出したテロの攻撃を受けたアリアナ・グランデは、「ワン・ラブ・マンチェスター」コンサートのためにマンチェスターに戻って来ました。マーカス・マムフォードはコンサートのオープニングで「愛は恐れを追い出す」と言いました。コンサートの半ばでジャスティン・ビーバーは「僕は愛に向かわせようとしているんじゃない。神に向かわせようとしているのでもない。神は良いお方で暗闇の真っただ中におられる。神は真ん中にいるんだ。そして君を愛している。神は君のためにここにいるんだ。」と言いました。それはまるで暗闇の中に輝く光です。
「十字架のヨハネ(※)」は「魂の暗夜」について語りました。かつて私は人生の中で暗闇の中を通ってきました。 旧約聖書にも新約聖書にも神の民にとっての暗黒の時があったことが記されています。教会にとっても歴史の中で暗黒の時代がありました。しかし、福音の光は消え去りません。イエスの光はいつも暗闇を照らすのです(ヨハネ1:5)。あなたには聖霊によってあなたの内に光があります。そして、あなたが行くところどこにおいても、あなたはその周りに暗闇よりももっと大いなる光をもたらすのです。
(※16世紀のスペインのカトリック司祭)
神の微笑み
詩篇80:8-19
ラニエロ・カンタラメッサ神父はその微笑みで有名です。彼の顔は光のように輝いています。それは特に彼が微笑んだ時です。マザー・テレサは「微笑みは愛の始まり」と言いました。
神があなたの上に微笑みの光を輝かせていると考えることはなんと驚くべきことでしょう。ただ神があなたと共にいるだけではなく、そのお方はあなたが大好きなのです!詩篇の作者は祈ります。
「あなたの祝福の笑みで笑ってください。
それは私たちの救いとなるでしょう。(19,MSG訳)」
イスラエルの民は明らかに暗闇の中にありました。「ぶどうの木(8,14)」はイスラエルの国を表す喩えです。神はイスラエルをエジプトから連れ戻し、ぶどうの木のように心をかけて世話したのです。
しかし、今やぶどう畑の石垣が壊されました(12)。それは「火で焼かれ、切り倒されました。(16a)」「侵入者がそのぶどうを摘み取り、…ネズミが余り物をかじっています。(12-13,MSG訳)人々は痛めつけられ悲惨です。
詩篇の作者は神に叫びます。「私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(18-19)」
この国の教会の状態を私たちが見る時、石垣が破れたぶどう園のようです。それは絶望的に思えるかもしれません。であったとしても神はかつてご自身の民を立て直し、生かしてくださいました。主は今日もそうお出来になるのです。リバイバルを叫び求めましょう。
祈り:私たちを再び生かしてください。主よ。私たちは祈ります。あなたの民を聖霊で満たしてください。教会を心からイエスに仕える人々で再び満たしてください。あなたの笑みを私たちの上に輝かせてください。
福音の光
使徒24:1-27
パウロは行くところどこでも「福音の光」を輝かせました。しかし、すべての人がその光を見れたのではありません。パウロはこう書いています。「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(2コリント4:4)」
この時期はパウロの人生における暗闇の時でした。パウロは獄につながれ、裁判にかけられました。検察官であるテルトロは御用聞き的な法律家の見本です。彼は役人におべっかを使い「私たちはあなた様の賢明で寛大なご支配のゆえに、いつもどこにあっても素晴らしい恩恵にあずかっております。(使徒24:2,MSG訳)」と言いました。
彼のお世辞はパウロについての偽りの訴えへと続きます。パウロが「何度も平和を脅かし、世界中にユダヤ人の反乱を扇動しようとし、ナザレ人と呼ばれる治安を揺るがすセクトの首謀者(5,MSG訳)」だと訴えました。キリスト教信仰が「一派(セクト)」として陳述されました(5)。むしろ今なら、ある人々は教会を「カルト」として解散させようとしたかもしれません。
パウロは弁明しました(10以降)。、彼はまず虚偽を退け、証拠のある事実を申し述べました(10-13)。次にパウロは自分がイエスに従う者である事を明言しました(「この道」,14)。パウロがした事は、「ただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです』と叫んだにすぎません。(21)」(これは実際に何が事実なのかを確立する助けになります。)
パウロは信仰の正統性を示しました。彼は歴史の神を礼拝します(14a)。彼は聖書に記されているすべてを信じています(14b)。彼は復活に希望を置いていること(15)を分かちました。彼は、律法と預言者が書き記したことに同意し、パリサイ人のように「義人も悪人も必ず復活するという(15)」同じ希望を神に置いているということをすべて信じていることを示しました。彼が明示したのは、良心(16)、施し(17)、清め(18)など、パリサイ人として非難されるところがないことを主張しました。
ペリクスの評価は間違っていませんが弱すぎました。どっちつかずで、政治的に流動的でした。彼は無実のパウロを罰することを好みませんでしたが、釈放する勇気はありませんでした。彼は「パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、(25)」恐れを感じたのですが、何をして良いのか判断できませんでした。
2年もパウロは拘束されました(27)。ペリクスは袖の下をもくろんでいたのです。やがて、新しい統治者が立てられ、彼はパウロから経済的利益を受ける可能性がなくなりましたが、政治的理由(27)でペリクスはパウロを釈放しませんでした。結論を出すのを避けるために先送りしたのです。
結果として判断を長引かせることが彼の判断でした。私たちは優柔不断によって責任を回避することは出来ません。優柔不断そのものは行動しないという決断です。それは現状維持の決断です。それは取り返しのつかない結果を伴う決断です。
パウロはどのような機会をも用いて、福音の光を輝かせました。彼はどんな時であろうとも「キリスト・イエスを信じる信仰について話(24)」したのです。
祈り:主よ。ありとあらゆる機会を用いることができるように助けてください。私たちが反対に遭い、偽りの訴えやもどかしさを覚える時、使徒パウロのように、あらゆる機会を暗闇を照らす福音の光を輝かせることができますように。
若者たちの光
2列王10:1-11:21
毎年、イギリスでは若者のためのクリスチャンの夏のフェスティバルが開催されます。何万人もの人々がこれらのフェスティバルに参加します。ピッパと私はそのようなイベントに参加したことがありました。若者たちに信仰、情熱、熱心さを見ることはとてもエキサイティングなことでした。それは将来のための希望の大きなしるしです。それは地平線の明るい光です。悪い事柄を見たとしても、次世代は良くなるという希望があるのです。
もし、あなたが今は暗い世界に生きていると思うなら、この箇所を学び、歴史の中で目も当てられない時代があったことを知るでしょう。
これはイスラエルの民の歴史の中でもう一つの暗黒時代でした。この箇所には、王の子どもたちを捕らえ、その七十人を切り殺し、その首を門の入口に積み上げるというような凄惨な殺戮の記事が続きます(10:7-8)。そして、さらに大量殺戮がありました(17)。エフーはアハブ王によって据えられた、イエスラエルの最悪の王たちのような振る舞いをしなかったために称えられています。特に、エフーはイエスラエルの中のバアル崇拝を打ち壊しました。
しかしながら、エフーは、ヤロブアムが持ち込んだ金の子牛の礼拝(29)はやめませんでした。エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけなかったのです(31)。
ユダでも状況は良くありませんでした。アタルヤが王家の一族を殺させました(11:1)。しかし、神はヨアシュを守りました。それは、ちょうど生まれたばかりのモーセやイエスが守られたのと似ています。「エホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れて、彼をアタルヤから隠した。それで、彼は殺されなかった。こうして、彼はうばとともに、主の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。(2-3)」
「こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、『王さま。ばんざい』と叫んだ(12)」のです。この後、彼は王座につき(19)、「一般の人々はみな喜び、この町は平穏であった。彼らはアタルヤを王宮で剣にかけて殺したからである(20)。」
ヨアシュはわずか7歳で王になりました(21)。しかし、この幼い王が未来の希望をもたらしました(2列王12、2歴代24)。しばしば、私たちは若い人々に希望を見出します。もう一度記しますが、神は最も暗い時にさえ光を輝かせ続けるのです。
祈り:主よ。私たちの教会の子どもたちや若者たちのゆえに、そしれ彼らが持ち運ぶ希望のゆえに感謝します。世界中の若者のムーブメントが彼らを通して光輝きますように。最も暗いと思える時でさえ、あなたはご自身の光を輝かせ、私たちに祝福の笑みの光を与えてくださいますことを感謝します。アーメン。
H.K