Tokyo Chapel

2019年8月4日

第216日

一致

何年か前、私はクリスチャンではない友人と話をしていました。その友人はこう言いました。

「僕には理解できない。プロテスタントだのカトリックだの…僕にはどちらも全く同じに見えるよ。教会の建物だって同じみたいに見えるし、どちらも、主の祈りだの、パンとぶどう酒だの同じことをやってるんじゃないかい?どんな意見の違いがあるのか、それは僕には全然わからないけど、僕や妻には全然関係がないね。それに、そうやってお互いにいがみ合っている間、僕はどんどん白けてしまうんだよ。」

それを聞いて私は打ちのめされました。いかに教会の不一致がこの世に対する私たちの証しにダメージを与えているかです。まぎれもなく、イエスは「完全な一致(ヨハネ17:23)」を祈りましたし、使徒パウロは私たちは「完全な一致(1コリント1:10)」を持つべきだという情熱を持っていました。

一致は私たちの信仰の核心です。私たちは唯一の神を信じます。父、子、聖霊です。三位一体の内に一致があるのです。一方、不一致はアダムとエバが罪を犯して以来、人間にとっての、のろいとして存在しているのです。

イエスは死をもって和解と一致をもたらしました。今日、神に感謝しましょう。世界中で教団教派の壁が低くせられ、教会の偉大な一致を見ることができることを。


関係における一致

箴言19:3-12

この箇所は、私たちの人間関係における一致が実に重要であることを示す箴言の一つです。「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。(11)」

私は自分の生活の中でこの節にチャレンジを受けることが何度もあります。人を攻撃することは簡単です。また、与え渋りやすいものであり、すぐに復讐しようとしてしまうのです。もし、そのように反応すれば、小さな攻撃であっても、人間関係を崩してしまうことになりかねません。それは友情を終わらせてしまいます。

他方、攻撃を看過することは誉れ高いことです。これは攻撃されているということを拒むことを意味します。それは、与え渋ることを拒むことです。それは復讐することを拒むことです。そうすることは難しいことです。しかし、それは、もし私たちが自分の人間関係を維持していこうとするなら、とても大切なことなのです。

祈り:主よ。私が簡単に攻撃的になりやすいことをどうぞ御赦しください。主イエス・キリストの十字架を通して、あなたは私の攻撃を見過ごしてくださいました。どうか、私にも他者からの攻撃を看過する同じ力を与えて助けてくださいますように。


イエスを巡る一致

1コリント1:1-17

コリントは大きな国際都市ですべての国、文化そして宗教からの人々で賑わっていました。いろいろな意味で、現代のロンドン、香港、ニューヨークに似たような都市でした。そこは商業の中心でした。そして、芸術、娯楽、文学、建築の中心でもありました。そこには多くの博物館や劇場がありました。

コリントの人々は裕福で、酒豪で、性的に乱れており、それは、不道徳で悪名高い都市でした。

AD 50年、パウロはコリントに行き、教会を形成しました。パウロは友人のプリスキラとアクラを伴って滞在しました。彼はそこで仕事を見つけ、福音を宣べ伝え始めました。パウロは家で教会をはじめ、AD 52年の春まで18か月間とどまりました。それから、パウロは教会をアポロに託し、さらに教会を形成するために移って行きました。

しばらくして、パウロは、彼が去ってから、教会の中での分裂を含む様々な問題が起こってきたという報告を受け取りました。およそ5年後にパウロは、いくつかの課題について取り扱うためにこの手紙を書きました。

実際、口論や不一致は教会の歴史の初期の段階から始まっていました。コリントでは、派閥の違いは、もっぱら教理によるものではなく、物の見方によって分裂していたようです。キリストによって一致すべきであるにも関わらず、彼らは彼らのもっとも好きなリーダーは誰か、パウロか、アポロか、あるいはペテロ(ケパ)かで派閥に分かれていたのです(11-13)。

パウロが訴えかける一致と愛について始める前に、私たちは彼の導入と挨拶を見ることが出来ます。そしてその中にパウロの思考の中に深く根差した一致というテーマを推し量ることができます。私たちの一致の基礎はイエスの人格です。

  1. イエスとの関係
    パウロは「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々(2)」に対して書き送っています。

    世界中のすべてのクリスチャンは、イエス・キリストにあって聖なるものとされており、主イエス・キリストの御名によって召されたのです。キリストは分割されません(13)また私たちも分割されるべきではありません。私たちは同じ主を分かち合います。」あなたがたは皆、「キリストとの交わり(koinonia)(9)」に招かれているのです。今日、キリストとの交わりを楽しむために時間を割きましょう。これは最も深く、最も親密な関係です。「コイノニア(koinonia:交わり)」は結婚関係に用いられたギリシャ語です。私たちは皆、イエスを深く、親密に愛するのです。
  2. イエスの恵み
    パウロは「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。(3-4)」と言っています。クリスチャンであるということは、キリスト・イエスにあって、あなたに神が与えられた恵みを体験するということです。あなたは愛されています。恵みとは受ける価値無き者が受けることを許された愛を意味します。イエス・キリストが私たち一人ひとりのために死んでくださったことに、それは最高に示されており、そして、そのことが恵みを可能にしたのです。世界中のすべての教団教派の、そして、すべての教会のクリスチャンのためにキリストは死んでくださったのです。神の恵みは私たちの一致の基礎です。
  3. イエスの御霊
    パウロはコリントの人々に「あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく(7a)」と書いています。イエス・キリストの御霊はすべてのクリスチャンの内に生きておられます。パウロはこの手紙の中で、私たちの内に聖霊が生きておられるので、私たち一人ひとりが、いかに霊的な賜物を受け取るのかを説明し続けます。世界中のすべてのクリスチャンは、あなたの内に聖霊がおられるように、彼らの内に聖霊が生きておられるのです。
  4. イエスにある希望
    パウロはさらに続けて、あなたがたは「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。(7b-8)」と記します。私たちは皆、イエスの再臨を待ち望んでいます。やがてある日、私たちはイエスと完全に一致する者となるのです。それまでの間、私たちは共通の希望を持っているのです。

パウロはこの一致について情熱的でした。パウロは記します。「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。(10)」

パウロは表面的な一致を形づくることはしたくありませんでした。彼が訴えたのは完全な一致です。私たちが生きている間に、教会の完全な一致を見ることは叶わないかもしれませんが、気落ちすることなく祈りましょう。そして、あなたが一致をもたらすためにできることを追い求めましょう。イエスは私たちが「みな一つとなるため」に祈られたのです(ヨハネ17:20-21)。

祈り:主よ。私たちの地域の教会、そして世界中の教会が一致することが出来ますように。私たちが大いなる一致の兆しを見ることが出来ますことを感謝します。この世があなたを信じるために、完全な一致を私たちがもたらすことが出来ますように。


一人の王のもとでの一致

1歴代16:37-18:17

神の願いは、ご自身の民の間に一致がいつもあることです。新約聖書の中でご自身の民の中に一致があることを神が願っておられることをちょうど見ましたが、旧約聖書にも同じように神の民に神は一致を願っておられることを私たちは見ます。

悲しいことに、旧約聖書の中の神の民の歴史もまた不一致の歴史でした。イスラエルの歴史の中で一度だけうわべだけながらも僅かに一致した期間がありました。それが、今、私たちが読んでいる歴代誌の箇所の期間なのです。ダビデは「イスラエルの全部(18:14)」を一致させました。

これは神の民が大いに祝福された期間です。ナタンはダビデに言いました。「あなたの心にあることをみな行いなさい。神があなたとともにおられるのですから。(17:2)」「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。(18:6b)」「ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行った。(14)」

この一致はソロモンの治世にも続きました。歴代誌の作者は、この期間の一致を理想的なものとして理解していました。何百年も経って書かれたのですが、彼はダビデ王の失敗について無邪気ではありません。また、金、馬、多くの妾、という、この黄金期の最期の兆しをソロモンの誘惑の結果として彼はゆっくりと指摘しています(申命記17章参照)。

何百年もの不一致の後に、作者はやがてある日、イスラエルはダビデやソロモンでさえ完全に成し遂げることが出来なかったことさえ、やってのける一人の王が現れることに希望を持ちます。彼は何よりも、神の民に全体的な、永遠の一致をもたらすであろう王を切望したのです。それを成就したのは、地上の王を通してではありませんでした。それを成し遂げたのは天からのお方を通してだったのです。

祈り:主イエスよ。あなたこそ油注がれた王です。あなたはイスラエルが待ち望んだことよりはるかに大きいことを成し遂げられました。あなたが王であるもとで人類全体が一致する力をあなたがお持ちであることを感謝します。やがて来るべき日に私たちがこの一致を見ることができますことを感謝します。アーメン。

H.K