Tokyo Chapel

2019年7月25日

第206日

信じなかった人はどうなるか

1974年2月、私はイエス・キリストと出会い、私の人生は全く変わりました。私は自分は死んだと理解しました。私はイエスの愛を体験しました。私は神は本当だと知ったのです。私はイエスとの関係という驚くべき祝福を知りました。しかし、ほとんど瞬間的にこの箇所でパウロが言っていることをすぐさま経験したのです。「大きな悲しみ…私の内にある莫大な深い痛み(ローマ9:2,MSG訳)」

私はたった今、自分が体験したことをすべての人々が体験し知って欲しいと切望しました。家族や友人でまだキリストを知らず、クリスチャンではない人々にです。

使徒パウロは実に情熱的に、同胞に対して関心を払っています。彼はもし彼らが救われるのであれば、自分が神や彼が愛した人々から切り離されても構わないとさえおもいました。パウロは記します。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。(3-4)」

しかし、同時に、パウロは神がすべての状況を神がご支配しておられることに信頼していました。神は統治されるお方です。神はこの宇宙を支配し治めるお方です。

どのようにして、私たちが愛する人々への、この苦悶と情熱と、神の究極の統治に対する信頼とのバランスを取ることができるでしょうか?


神の支配と統治のゆえに神に感謝する

詩篇89:9-13

私たちはすべての疑問に対する答えを知ってはいません。しかし、私たちは神がご自身の宇宙を支配しておられることを知っています。これは神の世界です。神はあなたを愛し、あなたはあなたの将来だけでなく他のすべての人々に起ころうとすることにも信頼することができます。

「天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。(11)」

神は世界を創造しただけではなく、今も歴史の中に働きかけ続けておられます。「あなたは海の高まりを治めておられます。…あなたは力ある腕を持っておられます。あなたの御手は強く、あなたの右の手は高く上げられています。(9a,13)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

祈り:あなたは統治される主です。あなたは世界の創造者であり歴史の創始者です。あなたが私の生活の環境を究極的に支配しておられることを信頼できますことを感謝します。


神のあわれみと慈しみに信頼する

ローマ9:1-21

「そんなの不公平だ!」と叫ぶのは子どもばかりではありません。大人であってもキリスト教信仰に対してそのように思うのです。

この書簡の「頂上」である8章に達した後、パウロはイスラエルの民族について9-11章で立ち返って考えます。パウロはユダヤ主義から回心してクリスチャンになるとは思っていませんでした。むしろ、彼は真のイスラエル、そしてアブラハムの本当の子孫の成就の一部になるというように考えていました。パウロにとって、それは実に彼自身のことであったのです。彼はイスラエルを「私の同胞(9:3)」と呼んでいます。それはクリスチャンを意味するのではなく、ユダヤ人ということです。彼らはパウロの家族です。パウロは彼らに囲まれて成長してきました。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。(2)」とパウロは言うのです。

ある人はクリスチャンになったら、そのあとの人生にはもはや悲しみがないように思っているようです。しかし、パウロにとって、大きな喜びとともに、大きな悲しみと痛みがありました。これは奇妙なパラドックス(逆説)です。イエスを拒絶して、神の国の外側にいると思えるあなたの家族、友人を想うと、あなたもまた、この大きな悲しみを感じているかもしれません。

パウロは彼らの救いに大いに関心を持っています。彼は彼らのために死ぬこともいとわないどころか、「キリストから引き離されて(3)」(それはパウロにとっては最も恐ろしいことであったはずです。)さえも構わないとさえ言うのです。

モーセも、神に反して罪を犯した人々のために祈ったときに同じような祈りをしました。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト32:32)」神はモーセの願い(33-34a)もパウロも申し出と犠牲も聞き入れませんでした。なぜなら、彼らの命は彼らの民の罪の贖いにはならないからです。

ただ一人、罪のないイエスの命だけがそれを成し遂げます。イエスは「引き離されて、のろわれた者(ローマ9:3)」となることを意志されました。イエスは意思しただけではありません。彼の犠牲は受け入れられ、有効でした。あなたが付け加えるものは何一つありません。

しかし、パウロが大きな悲しみを持ったのは、ほとんどの彼の同胞がこの贖いと赦しという驚くべき贈り物を拒絶したことを認知していたからです。神は彼らに(そして私たちに)すべてのことを用意してくださったのです。そして、問題は彼らがそれを選び取るか拒絶するかなのです。

パウロがさらに悲しかったのは、彼らが神に選ばれた民であったことです。神はご自身の主権によってイエスラエルの民をお選びになりました。「彼らは自分たちのために備えられたすべてのものを持っていました。家族、栄光、契約、啓示、礼拝、約束、救い主(メシア)を輩出する民族として申し分ありませんでした。キリストは常にすべての事物を支配する神です。(4b-5,MSG訳)

この背景をもって、彼は燃える疑問に直面します。それは彼の働きを通してずっと彼を苦しめるものでした。「神の約束は損なわれたのか?」です。彼が出した答えは「いいえ。損なわれていない。」でした。それではどのように説明できるのでしょうか?

パウロの最初の答えは、要するに「すべてのアブラハムの子孫たちに神は約束していなかったことを、あなたがたは知らなかったのか?」ということです。パウロはそれで2つの絵を与えます。1つはイサクと彼の兄弟との比較(6-9)であり、もう一つはエサウに対するヤコブです(10-13)。どちらの場合も約束は一人に与えられており、他方には与えられていないということです。

それはフェアなことでしょうか?「それは神は不公平だという不満の原因でしょうか?(14a,MSG訳)」彼の答えは、もし神は不公平だという人がおれば、その人は神を知らないというものでした。

選びの教理は神のあわれみを基礎にしています。「『私はあわれみにあずかっている。私は慈しみにあずかっている。』慈しみは、私たちの、血を吐くような思いや、汗水流す道徳によって得られるのではなく、ただ神のあわれみによって得られるのだ。(15-16,MSG訳)」「あわれみ(mercy)」「いつくしみ(compassion)」という語は6回(7回,NIV訳)現れます(14-18)。あなたは、あなたの将来やあなたが愛する人々について神に信頼することが出来ます。神は究極の支配を持っておられます。それが、神の主権者としての責任です。

聖書は疑問に対する答えにとどまっています。それは神の大いなる慈しみとご自身の正義の両方について語ります。それは選びと自由意志の両方を教えます。自由意志とは私たちが自分自身の選択に責任を持つのだということを意味します。

しばしば聖書の真理は、一方他方というのでもなく、その間というのでもなく、二つの極を同時に満たすのです。聖書は私たちに解決を与える神秘というのではありません。詩篇の作者が「そのような知識は私にとってあまりにも不思議(詩篇139:6)」と言うように私たちが結論付けなければならないことについての何かがあるのです。私たちは選びと自由意志の真理を同時に持つ必要があるのです。

祈り:主よ。あなたは優しくあわれみに道、怒るに遅く、愛に満ちたお方であることを感謝します。あなたが私たちのために十字架で死んでくださったことを感謝します。それゆえに、あなたを信じるすべての者は自由になることが出来るのです。たとえ私の理解が間違ったとしてもあなたを信頼することができますように。


罪を捨て去り神に立ち返る

ホセア11:12-14:9

神の無条件の愛は私たちの罪を赦す力を持っており、私たちの傷をいやし、私たちの壊れた心を修復しました。私たちがそれを受ける価値があったからでも、努力で買い取ったからでもなく、神は私たちに無償で愛してくださったのです(14:4)。神は私たちの不忠実を癒したいのです。

神は私たちに罪から離れ、ご自身の愛に立ち返るように招いておられます。「それゆえ、あなたはあなたの神に立ち返れ!誠実と公義のために愛とあわれみを素早くつかめ。して、絶えずあなたの神を待ち望め。(12:6,AMP訳)」これはホセアのメッセージの要約です。

神はご自身の民を悔い改めと約束に招かれます(14:1-2)。「わたしは、彼らの強情さを癒す。わたしは惜しげなく彼らを愛する。…私は新鮮なスタートを切る。…あなたが必要とするものはすべて、私のうちに見出すのだ。(4-8,MSG訳)」

イスラエルの罪は21世紀の罪とさほど変わりはありませんでした。たとえば、町には欺瞞がありました。「ビジネスマンたちは卸売りの契約を偽る。彼らは法外な値段で偽ることを愛する。(12:7,MSG訳)」人々は経済力で安全が得られると思います。「エフライムは言った。『しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない。』」(8)

神が祝福する時、私たちは満ち足ります(13:6a)。私たちが満ち足りる時、私たちは傲慢になります(6b)。それで、私たちは神を忘れてしまします(6c)。私たちはこの循環を私たちの国に、そして私たち自身の個人生活に見るのです。

「私があなたの世話をする。あなたの必要のすべての世話をする。
あなたに必要なものをすべて与える。
あなたは台無しにする。あなたは、あなたにとってわたしは必要がないと考えた。
あなたはわたしを忘れた。(6,MSG訳)」

彼らの罪にもかかわらず、神は贖いを約束されました。「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。(14,また1コリント15:55参照)」イエスを通して、死は私たちの命を奪うその力を失いました。私たちが神に立ち返る時、神は私たちが実り豊かで花開くことを約束します。そして私たちの豊穣は神からもたらされるのです(ホセア14:7,8)」

祈り:主よ。どうぞ私の罪をお赦しください。私を優しく受け入れてください。私の強情さを癒してください。そして私を際限なく愛してください。どうかぶどうの花を咲かせ、実りが豊かでありますように

H.K