Tokyo Chapel

2019年11月1日

第305日

あなたの考えを定める

もしイギリス人に最も偉大なイギリス人は誰かと尋ねれば、普通、一番に挙がる名前はウィンストン・チャーチル卿でしょう。もしあなたがアメリカ人に最も偉大なアメリカ人は誰かと尋ねれば、彼らはジョージ・ワシントンやアブラハム・リンカーンと答えるかもしれません。もし、あなたがAD1世紀初頭のユダヤ人に最も偉大なユダヤ人は誰かと尋ねれば、疑いなく彼らは「モーセ」と言うでしょう。モーセは彼らの歴史において特筆すべき存在です。彼はユダヤ人を奴隷状態から救い出し、彼らに律法を与えました。

ヘブル人への手紙の作者は、ユダヤ人クリスチャンに宛ててイエスがどれほどモーセよりも偉大であるかを書き記しました。彼は、モーセが偉大ではあるけれども、それ以上にイエスは別格であると論じているのです。イエスは「私たちが信じるすべてのものの中心(ヘブル3:1,MSG訳)」なのです。「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。(3)」「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。(5)」「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。(6)」

今日の箇所のテーマは、問題と苦悩、試練の時、試みと艱難です。新約聖書に従えば、これらの事柄を取り扱う秘訣は「あなたの思いをイエスに定める(1,NIV訳)」ことです。


問題と苦悩

詩篇119:137-144

私たちの人生の中のある時点において、通常、ある領域が問題と苦悩の原因となっているものです。それは、あなた自身が通っている何かかもしれませんし、あなたの家族のだれか、または親しい友人、あるいはあなたの仕事や奉仕に関する何かかもしれません。

私はアメリカの牧師リック・ウォレンがこのように言うのを聴いたことを覚えています。彼は以前は人生は戦いの連続の末に、祝福の時がやって来ると思ってきたが、今は、人生は並行する二つの走路のようだと思っています。一つの走路は祝福、もう一方が闘いです。それらは同時に起こるのですと言いました。

詩篇の作者は確かに闘いの時を過ごしていました。「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。(143a)」

どのように私たちは応答するでしょうか?詩篇の作者の答えは主に信頼することを続けることでした。彼は、神の言葉が「なんと真実なこと(138)」かと信じ続けました。「あなたのしもべは、それを愛しています。…あなたの仰せは、私の喜びです。(140,143)」

彼は自分の考えを主に定めました。「主よ。あなたは正しくあられます。(137a)」新約聖書の偉大な啓示は「イエスは主(ローマ10:9)」であることです。イエスこそあなたが自分の考えを定めるべきお方です。

祈り:主よ。問題と苦悩の時、私が自分の考えをあなたに定め、あなたの約束に信頼することが出来ますことを感謝します。


試される時

ヘブル3:1-19

試されていない信仰は信頼に足りません。遅かれ早かれ、私たちは皆、試みの時を通ります。それらの時に、神に忠実にに留まることがチャレンジされるのです。私たちの心を固くせず、神に向かって優しさと柔らかさを保って、私たちの信仰に対するすべての困難や試練を超えて信頼し続けるのです。

これらの試みの時の中で、正しいことをすることを選んでいるのに、間違ったことをしているという感覚をあなたが持つ時はいつでも、あなたは霊的成熟、知恵、人格、忠実さにおいて成長していくのです。

「モーセが…忠実であった(2)」のですが、もちろんそれ以上にイエスは忠実さの手本の極みです。イエスは何年にもわたって訓練され、荒野での強烈な誘惑にも遭いました。しかし、イエスは「神が彼[イエス]にするように与えたすべてのことに忠実(2,MSG訳)」でした。

この手紙は、まさに試みと迫害の時を通っている人々の群れに対して書かれました。イエスによって息吹を与えられ、彼らを励まし、彼らが「勇気」と「希望」を握るために書かれたのです。「イエスのことを考えなさい。(1)」

この箇所で、作者は詩篇95:7-11を引用しています(ヘブル3:7-11)。興味深いことに、作者は「聖霊が言われたとおり」とは記さず「聖霊が言われるとおり(7)」と記しています。彼はあきらかに聖霊がみことばを通して読者が読んでいるその同じ時にも語り続けておられることを信じているのです。あなたが聖書を読むとき、今日、あなたに聖霊が語ることを期待しましょう。

エジプトからの解放という最も偉大な瞬間を得たのですが、神の民は荒野で「試みの時」に転落していきました(17)。これは私たちへの警告です。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。…日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。(12-13)」

不信仰に対する一つの対策として、作者はここでコミュニティーに光を当てます。彼は「日々互いに励まし合って(13)」と彼らに告げています。これは、他のクリスチャンと一緒に時間を過ごし、お互いに励まし合い、あなたの信仰を建て上げていくクリスチャンのコミュニティーの一部となることの大切さの理由です。

「罪に惑わされて」というのは面白い表現です。罪は人をだますのです。もしそうでないなら、私たちは罪を犯さなかったでしょう。罪は通常、「これは本当は罪ではないのです。そして何もあなたに害を与えたりはしません。」という偽りのラベルを伴っています。しかし、私たちがひとたび罪に関わり、悪いパターンが形成されると、私たちの良心は焦げ付き、私たちの心は固く無感覚になってしまうのです。

罪の中心にあるものは不信仰です。エデンの園の出来事以来、「神は、ほんとうに言われたのですか。(創世記3:1)」と罪の欺きは私たちに、神が良いお方であることや私たちへの愛、そしてご自身の言葉を疑わせてきました。「あなたがたは決して死にません。(3:4)」人はいつも神に対しての嘘を「うのみ」にして、禁じられていた果実を「飲み込んで」しまいます。今日、私たちにとって、それは今も同じです。もし私たちが、私たちへの神の愛、ご自身の良いお方であること、そしてご自身の言葉を本当に信じるなら、私たちは罪の惑わしに陥ることはありません。

神の民は不満を言い続けたので、彼らは、自分たちが願っていたものである神の安息に入ることが決してありませんでした。彼らは神が彼らに安息を与えることを信頼できなかったのです。彼らは「不信仰の心(ヘブル3:12)」になっていたのです。「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のため(19)」だったのです。私たちが神を信頼しない時、私たちは神の平安を失います。聖書のみことばを通して、今もあなたに語り続けておられるイエスを信頼し、イエスに聴き、イエスにあなたの思いを定めて平和を見出しましょう。

祈り:主よ。今日、私の思いをイエスに定めることが出来ますように。恐れと不信仰の中に生きるのではなく、信頼と平和の中に生かしてください。


災害に打たれる時

ヨエル1:1-2:17

「災害に打たれる時、神がその危機の中におられることを理解する」とユージン・ピーターソンは記します。私たちが思いもよらない病気になったり、私たちが愛する誰かが亡くなったり、国難や社会的混乱、個人的な損失、経済的な不安定や自然災害による荒廃などに、私たちが直面する時があります。ピーターソンは続けてこう言います。「そのような大惨事の時に立ち上がって神が何者であり、神がどのように為されるのかを明らかにすることが預言者の務めです。」

預言者ヨエルは、いなごによる飢饉による大荒廃が起こり、災害に打たれた時にこの書を記しました。これは現実に起こったこと、あるいは幻であったことでしょう。915BCにいなごの大発生がエルサレムを襲いました。彼らが被った被害は甚大でした。

いなごの大軍は(殺虫剤がなければ)無敵です。誰も止めることも、退治することも出来ません。それはぶどう畑を食い尽くし、果樹園を丸裸にし、その結果、すべての収穫物が損なわれます。そのため家畜のえさはなくなります。いなごは国を通り抜けていく竜巻のようです。

「なんという日だ!厄難の日だ!神の裁きの日がやってきた。(1:15,MSG訳)」このいなごのイメージは黙示録で取り上げられて、最後の審判の艱難の描写として用いられました(黙示9:7-11)。

イエスご自身は、裁きの到来の描写の中にヨエル2章の言葉を用いられました。「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。(ヨエル2:10,マタイ24:29)」

私たちはこのすべてのことにどう応答すべきなのでしょうか?誰も気乗りしない謝罪など望んでいません。神もまたそうです。神は純粋な悔い改めを願い求めておられます。

「それは遅すぎることはない。
― 神の個人的なメッセージ ―
『わたしに本気で立ち返れ。
断食し、泣き、あなたがたの罪を嘆きなさい!』
あなたの衣だけでなく、あなたの生活を変えなさい。
神に立ち返れ、あなたの神に。
ここに理由がある。神は優しくあわれみ深い。
神は深く息をつき、多くを我慢為さる。
この大いに忍耐される神、豪奢な愛。(ヨエル2:12-13,MSG訳)」

これらの裁きの預言の真っただ中に、希望があります。あなたが神に立ち返り、主の赦しを求める時、あなたはもはやこの最後の審判を恐れる必要はありません。ヨエルは、この審判の日を告げ知らせるためにラッパが吹き鳴らされるイメージを用いています(1)。

新約聖書では、パウロは、イエスがどのように死を打ち破り、赦しを与え、救いを可能にしたかを描写するのにこの同じイメージを用いています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15:52-57)」

祈り:父よ。あなたが恵み深く、情け深いお方であり、優しくあわれみ深いことを感謝します。あなたの再臨の日を確信をもって待ち望むように、私の思いをイエスに定めることが出来るようにお助けください。アーメン。

H.K

References

Eugene Peterson, The Message, ‘Introduction to Joel’, (NavPress, 1993), p.1225.