2019年4月30日
第120日
すでにあなたのもの
私の母方の祖父母はスコットランドのエジンバラに近いピッテンウィームという小さな漁村に住んでいました。彼らは1939年にそこに家を持ち、第二次世界大戦が始まると、彼らはその家を賃貸しました。戦後、彼らは自分の家に戻りたいと願いましたが、そうできませんでした。当時の法律では、物価上昇を計算することなく、賃貸料は据え置かれたまま賃貸物件を貸し続けなければならなかったのです。
50年の間、祖父母は彼らが手に入れた家を占有することができませんでした。やがてニッキーの叔父がその家を相続しました。その時に、彼は占有権を取り戻しました。家の状態はひどく劣化しており、とても安い値段で売りました。
今はニッキーの家族がピッテンウィームのこの家を所有し、他人が占有することもありません。所有権があることと占有していることには大きな違いがあります。
イスラエルの民は約束の地、カナンの所有権を与えられていました。さて、ヨシュアはイエスラエル人に言いました。「主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。(ヨシュア18:3)」新約聖書は「地」をクリスチャン生活の描きとしてとらえています(ヘブル4)。キリストイエスにあってすでにあなたのものとなったもの、そしてあなたが占有するものを確かめましょう。
義の賜物
箴言10:31-11:8
あなたは神が義の賜物を与えておられ、あなたはそれを所有していることを知っていますか?あなたはこの賜物を占有していますか?
箴言は「正しい者」と「悪者」を対照的に描き出しています。悪者は自滅の道を歩みます。「裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。(3b)」、「悪者は、その悪事によって倒れる。(5b)」その最たる結果として、死によって全て失うのです。「悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。(7)」
一方、「正義は人を死から救い出す。(4b)」これはペンテコステの日にペテロがイエスについて語っている議論の一部です。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒2:24)」
イエス以外に完全に正しい者はいません。義とは神との関係、人との関係において正しい関係にあることです。あなたは信仰の賜物として、神からこの義を受け取ることが出来るのです。(ローマ3:22、ピリピ3:9)しかし、あなたはそれを占有しなければなりません。実際にそう生きなければなりません。
この箇所はこれがどういう意味かという例を見せてくれます。
- 知恵
「正しい者の口は知恵を実らせる。しかしねじれた舌は抜かれる。正しい者のくちびるは好意を、悪者の口はねじれごとを知っている。(10:31-32)」 - 謙遜
「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。(11:2)」 - 誠実
「直ぐな人の誠実は、その人を導き、…正義は人を死から救い出す。(3a,4b)」 - 人格
「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、…直ぐな人は、その正しさによって救い出され、(5a,6a)」
祈り:主よ。私は信仰によってあなたの義の賜物を占有します。知恵、謙遜、誠実、そして忠実に生きることを助けてください。
聖霊の賜物
ヨハネ1:29-51
あなたはイエスがあなたに出来るようにしてくださったすべてを楽しんでいますか?それともまだ罪責感や無力感に悩まされていますか?イエスはこの地に来られ、罪の赦し、新しい命、聖霊の力をあなたに与えて下さいました。今日、すでにあなたのものとなってあなたが占有していることをはっきりしましょう。
この箇所で、私たちはイエスに与えられた注目すべき肩書が並んでいるのを見ます。私たちは先にそれらを数多く見ました。イエスは「神の子(34、49)」「ラビ(先生)(38)」「メシア(すなわちキリスト)(41)」「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方(45)」「イスラエルの王(49)」「人の子(51)」です。
イエスの働きについて記されたこの箇所での肩書について特に二つに的を絞って見てみましょう。
- 罪を取り除く方
子羊の血はイスラエル人を奴隷状態から救い、約束の地に自由に向かって歩む道を開きました(出エジプト11-15章)。ヨハネはイエスについて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1:29)」と言っています。あなたがイエスに来るなら、イエスはあなたの罪を取り除きます。あなたのためにもたらした赦しを断言し、信頼し、信じなさい。意識して罪責感や恥、無価値であるという感覚を拒絶しなさい。イエスがあなたのために可能にしてくださった赦しを占有することを日々つかみ取り、実践的に選び取りましょう。 - 聖霊によるバプテスマを授けるお方
バプテスマのヨハネはイエスを「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。(33)」イエスはあなたを聖霊によって満たしてくださるお方です。イエスはそれをあなたに可能にしてくださいました。しかしながら、あなたは、神があなたに受け取られるようにしてくださった素晴らしいこの賜物を占有しなければなりません。
イエスはピリポに「わたしに従って来なさい(43)」と招きました。「従う」というギリシャ語には「足跡の上を歩く」という意味から、同行する、一緒になるという意味を持ちます。イエスはあなたを深い、人格的な友情関係へと招いておられるのです。
イエスはまた、あなたにバプテスマのヨハネがしたこと、つまりイエスを他の人に指し示すことをする機会を与えています。もちろん、神は人間の助けに頼る必要はありません。イエスは私たちの助けなしにご自身の働きを続けることが出来ました。しかしながら、私たちはこの箇所で、神がどのようにして人々を用いるかを見ます。ここで、イエスは人を直接ご自身で招くだけでなく、弟子たちを通して招いています。
彼らは自分たちの友人をイエスのもとに連れて来たのです。バプテスマのヨハネはアンデレを導きました(35-36)。アンデレはペテロを導き(41)、ピリポはナタナエルを導きました(45)。ナタナエルは最初懐疑的でしたが、瞬間的にイエスが本当に神の子であることを見出しました(49)。
カンタベリーの大主教であったウィリアム・テンプルはヨハネの福音書の講解書の中で、「彼(アンデレ)はシモンをイエスのもとに連れて来た。(42)」の箇所について次のように記しています。「人が誰かに対して為し得る最高の奉仕」短いですが実に重要な言葉です。
シモン・ペテロはキリスト教の歴史の中でも最も影響力のある傑出した人物の一人です。あなたはペテロが為したことと同じようには出来ないかも知れません。しかし、彼の兄弟であるアンデレにはなることができます。つまり、誰かをイエスのもとに連れて来ることが出来るのです。
あるいはピリポのように、「来て見なさい(46)」とあなたの友人、家族、同僚に言うことができます。あなたは人々がイエスのことを聞き、応答するための神の計画の一部に加わることができるのです。それはあなたが誰かに「来て、見なさい」と招くことによってです。
イエスの働きに加わること以上にエキサイティングな人生はありません。不完全な人間が、完全な神の計画に、組み合わされるということはどれほど恵みに満ちたことでしょうか!
祈り:主よ。今日、赦しの賜物と聖霊によって人生が満たされることを楽しむことが出来るように助けてください。また、人々にあなたを紹介することができますように。「来て見なさい(46)」と人々を招くことができますように。
神が与える遺産
ヨシュア17:1-18:28
あなたの生活の領域において、あなたへのキリストの遺産をまだ味わっていないところがありますか?
その地は民が神から相続したものでした(17:4、7、18:7、20、27)。「そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。『あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。』(18:3)」
ここで、再び、私たちは、所有権を持っているのと、実際に所有している(占有している)のは違いがあります。イスラエルは彼らがその地を占有して楽しむ以前にその地の所有権が与えられていたのです。
あなたがイエスに従うとき、あなたはイエスの友となります。あなたは、赦し、義認、神の義、そして聖霊を受け取ります。あなたは神の子どもとなるのです。あなたは罪に打ち勝ち、神と行き来する力が与えられます。あなたは悪魔の力に勝利しました。あなたは神の平和を手にしました。あなたは神の平和を持ちました。あなたはあなたの生活や、他者の生活の中に働く悪しき者に対する権威を持ちました。神の約束のすべてはあなたに属します。これはキリストにあるあなたへの遺産です。
しかし、もしかすると、これらを占有し、これらすべての祝福をあなたの生活の中で十分に楽しんではいないかもしれません。ここで神がご自身の民に言うのは、実際のところ、「あなたはこれをすべて私があなたに与えたということが分かっていないのではないのか?どうして待っているのか?」ということです。
あなたは自分の人生をイエスに委ねたかもしれません。しかし、あなたの生活のあらゆる領域において、主が占有されることを許可していますか?その領域とは、あなたの経済、仕事、祈りの生活、友人や家族です。これは一生にわたる私たちの務めです。
聖パウロはキリストに従うためにすべての思考が捕らえられる必要があると記しています(2コリント10:5)。ある領域は勝利は瞬間的です。他方、それは段階的です。あなたはどんな小さな小競り合いでさえ抜け出さなければなりません。
イエスラエルは主から賜物としてその地を受け取りました(ヨシュア18:3)。そしてあなたや私は、イエスにあって、すべての霊的祝福を受け取りました(エペソ1:3)。問題は「あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。(ヨシュア18:3)」です。
祈り:主よ。キリストにあるすべての霊的祝福をもって私を祝福して下さったことを感謝します。今日、すでにイエスを通して信仰によって私のものとされたものを占有することができるように助けてください。アーメン。
H.K
References
William Temple, Readings in St. John’s Gospel, (MacMillan, 1952).