Tokyo Chapel

2019年7月6日

第187日

人生の試練に対処する方法

ジョン・F・ケネディー大統領は言いました。「我々はニュー・フロンティアの先端に立っています。…私が言うニュー・フロンティアはあれやこれやを約束することではありません。それはあれこれをチャレンジすることです。要約すれば、アメリカ国民に何を供するかではなく、アメリカ国民が何をすることができるかについてです。」

人生はあれこれの試練、問題、イライラです。私たちは、もし、私たちが今直面している差し迫った試練だけに対処することが出来るなら、すべての私たちの問題は終わるだろうにと時々想像します。しかし、人生はそのようなものではありません。もし、私たちが一つを解決すれば、他の問題が次にやって来るのです。

これらの試練を神が私たちに与えた働きをやり遂げることを妨げるものとして見ることが誘惑です。実は、問題に対処することが働きなのです。かつて、ケンジントンの主教であった人が言いました。「主の働きに関連した問題などはありません。それらが主の働きなのです。」

聖書は人生に対する真実です。詩篇の作者は痛みと苦難に直面しました。パウロは偽りの訴えと言いがかりで獄につながれ続けなければならないいらだちに直面しました。旧約聖書の王たちは闘いに面し、巨大建造物のプロジェクトに挑戦することに面しました

今日の箇所を読むとき、自分が直面している試練、問題、イライラは神の民が過去に面したものや今日の世界が今もなお直面しているものとは比べ物にならないくらい小さいと私は思いに留めています。


問題を神に打ち明ける

詩篇81:1-7

あなたは試練の最中にありますか?神は時々私たちが試練に置かれることを許されます。メリバの水のほとりでためしたように。(7、民数20参照)。しかし、神はあなたが試練に一人ぼっちで立ち向かうことを望んではおられません。神に打ち明けることを待っておられるのです。

神は「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、…あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。(6-7a)」と言われるのです。

「私はあなたの肩から世界を取り除き、
重労働の生活からあなたは自由にした。
あなたは痛みの中で私を呼んだ
私はあなたを悪い場所から抜け出させた(6-7a,MSG訳)」

あなたが直面している問題がどんなに大きくても祈りによって神のところに持ち出す事ができるのです。

神は重荷を取り除け、苦難から救ってくださいます。それゆえに詩篇の作者は賛美、祝いと喜びから始めているのです。「われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。(1)」

祈り:主よ。感謝します。わたしが人生の試練や問題に直面しても、あなたは私の力であり喜びです。主よ。どうか私を、救い出してください…。


神が掌握していることを信頼する

使徒25:1-22

「信仰」とは神への信頼です。C.S.ルイスは「信仰とは、たとえあなたの気分が変わったとしても、一度あなたが理由をもって受け入れた事柄を握り続ける技術である」と言いました。すべての事柄が間違って進んでいるように思える時、神を信頼することは難しいことです。

ルカはパウロの試練を感情をまじえず客観的に描写しています。しかしパウロにとっては非常に欲求不満が溜まる時期であったに違いありません。教会の偉大な指導者であり、教師であり、伝道者であった彼が、留置され行きたいところに行きたい時に行く事ができなかったのです。彼は拘留され、物理的制約条件とつらい拘禁に耐えなければなりませんでした。

パウロはまたもやユダヤ人たちに激しく訴えられたので(1-7)法に触れることはしていないと弁明しました(8,10)。しかし、フェストは真実が何かよりも人々が何を考えているかに関心がありました(9)。私たちの最初の質問はいつも「何がすべき正しいことなのだろうか?」であるべきです。しかし、フェストは正義よりも人気に関心を持ちました。最後には、パウロはカイザルに上訴する事になりました(11)。

アグリッパ王が到着した時、フェストはパウロの一件を彼と論じました。フェストは言いました。「訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。(18-19)」

イエスの復活はいつも私たちが告げるメッセージの中心にあるべきです。訴えの思い当たることは、パウロがイエスは生きていると説教したことぐらいです。その他の幾多の訴えは彼に反対するためのぬれぎぬだったのです。

パウロはこのような状況に欲求不満と困難を覚えたことでしょう。不正直で、遅延し、散漫な審理から良いものが出てくるという見通しを持つことはとても難しかったに違いありません。それでも、いつものように、神は良い業をなされました。パウロ自身が次のように記しています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

第一に、短期的に、パウロはアグリッパに話す機会が与えられました。パウロについてすべて聞いた後で、アグリッパはフェストに「私も、その男の話を聞きたいものです(使徒25:22)」と言いました。欲求不満といらだちの中にある時、あなたはいつ機会が訪れるかを知りません。しかし、ある時、その機会は訪れるのです。

第二に、中期的に、パウロはローマに送られるという結果になりました。パウロはローマで福音を語りたいと表現しています。(19:21,ローマ1:15、15:23)そして、主はパウロにローマで証しするように告げています(使徒23:11)。彼がついにローマに送られることになったのは、パウロの自分自身の弁論によってでした。

第三に、長期的に、2000年の時を経て、莫大な数の人々がパウロの物語を読み、パウロもまた偽りの訴えで獄につながれ、迫害され、批判されたことを知って励ましを受けることになったのです。パウロがこれらすべての困難の最中に、どれほど良いことが起こるのかを果たして知っていただろうかと思います。この地上で生きている間、試練に面する中であなたの忠実さを神がどれほど用いるかをあなたは知ることはないのかもしれません。

祈り:主よ。私たちが迫害や批判に遭うときはいつでも、あなたが共にいてくださることを感謝します。欲求不満を覚えるような中にある時あなたは、あなたを愛し、あなたの目的に従って召された人々に良いことを為してくだsることを感謝します。


神があなたに与える機会を生かす

2列王12:1-14:22

ユダとイスラエルの嘆かわしい王達の様子の中に生きたエリシャの姿に、どのような状況に置かれてもあきらめない忍耐を持つことを励まされます。

リーダーは玉石混淆です。ある者は「主の目の前に悪を行う(13:2、11)」王であり、ある者は「主の目にかなう(14:3)」王でした。

神は人並み外れて恵み深く、主の目にかなわなかったエホアハズでさえ「主に願った」ときに「主はこれを聞き入れられました(13:4)。」あなたが主の恩寵を求めるときはいつでも主は耳を傾けてくださるのです。

イスラエルの王たちのリストの中でヨアシュは最も良い王の例と言えるでしょう。彼の統治の一部分でしたが、「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行った。(12:2)」

ヨアシュは宮の修理を志しました。多くのプロジェクトのように、それは彼が期待した以上に時間がかかるものでした。「しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは宮の破損を修理しなかった。(6)」再度、ヨアシュは祭司を呼び修理を命じます「なぜ、宮の破損を修理しないのか。(7)」

ついに彼らはその事業に着手しました。彼らは必要のためにお金を集めました(11)。そして修理は忠実になされ、進展していきました(15)。

もちろん、今日、主の宮はクリスチャンを指し、建物のことではありません。私たちのお金や努力は神の民を築き上げるために用いられるべきです。数において(伝道)、熟練において(弟子化)、そして、共同体をケアすることにおいて(社会の変革)。しかしながら、時には、私たちはこのために建物を必要とします。ですから、必要に応じて教会のインフラを整備するために出費することは間違ってはいないのです。

建物のチャレンジと同様に、神の民は闘いのチャレンジにも面していました。特に、この箇所で、私たちはアラムとどのように面したかを見ます。エリシャはイスラエルの王に言いました。 「弓と矢を取りなさい…弓に手をかけなさい。…それで地面を打ちなさい。」(13:15–18)すると彼は三回打ったが、それでやめた(18c)のです。エリシャは言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」(19)

私は1998年の最初のアルファ・イニシアティブ(全英の教会で同時にアルファを開催するキャンペーン)でイエスについての良き知らせを聴くようにと全国で人々を招いた時にこの節を読んだことをよく覚えています。そのころ、次のアルファ・イニシアティブは何年後にすればよいかを思案していました。この箇所を読んだ時、何度も何度も地に矢を打つべきだと感じたのです。

主の働きを呼びかけても、ヨアシュの宮の修理のように遅々として進まないこともあることでしょう。しかしあきらめないことが重要です。エリシャの晩年、ヨアシュが訪ねた時、エリシャは、「矢を取りなさい」と言い、「それで地面を打ちなさい」と言いました。

今日、あなたがどんな試練に立ち向かっていたとしても、祈り続けなさい。信頼し続けなさい。神に仕える機会を探し続けなさい。そして、決して、決してあきらめてはいけません。

祈り:主よ。私たちの行く手に試練があっても、行くべき目的地を与えてくださり、あきらめることがないように助けてください。むしろ、忍耐し、最後までやり通すことができますように。アーメン。

H.K

References

C. S. Lewis, Mere Christianity, (William Collins, 2012), pp.140–141

John F. Kennedy,
Address of Senator John F. Kennedy Accepting the Democratic Party Nomination for the Presidency of the United States – Memorial Coliseum, Los Angeles,
July 15, 1960