Tokyo Chapel

2018年11月25日

第329

膝をかがめる時を知る

ラニエロ・カンタラメッサ神父はフランシスコ会の修道士です。1977年、彼はバチカンから、アメリカのカンザスシティで行われるカンファレンスに参加するために遣わされました。そこには二万人のカトリック信者と二万人の他のクリスチャンがいました。カンファレンス当日、ある人がキリストのからだ、すなわち教会にある分裂によって引き起こされるすべての悲劇について語りました。四万人が膝をかがめて悔い改めました。ラニエロ・カンタラメッサ神父が目を上げて見ると「イエスは主です」と大きなネオンサインがカンファレンス会場に輝いているのを見ました。その瞬間、彼はクリスチャンが一致することの本質を、イエスが主であることのもとに四万人が膝をかがめて悔い改めて祈っている姿に垣間見たと述べています。

彼は「一人のプロテスタントの信徒」に聖霊のさらなる体験のために祈ってもいいですかと尋ねました。聖霊が彼を満たしていたのです。彼は新しい方法で自分への神の愛を経験しました。彼は自分が「異言を話すような方法で」話すことを見出しました。聖書が新しく活き活きしてきました。彼は新しいミニストリーを受け取ったのです。1980年、彼は教皇ヨハネ・パウロ二世に招かれ、教皇公邸付説教者となりました。それ以来、彼は37年間その職に就いています。彼の際立った働きは3つのテーマが主題です。一致、愛、聖霊です。それらは別のものですが、近しく結び合っています。


一致の内にともに生きる

詩篇133:1-3

神は「一つ」になることを祝福します(1)。私はそれを何度も何度も見てきました。神は結婚を、家族を、チームを、国を、そして教会を祝福なさいます。異なる教会、伝統、教団・教派のクリスチャンが共に集い一致する時、「その場を神は祝福すると命じられる(3,MSG訳)」のです。

詩篇の作者は聞きます。「なんと素晴らしいことでしょう。なんと美しいことでしょう。兄弟・姉妹が一緒になることは(1,MSG訳)」こんなことわざがあります。「脆弱なものも集めれば強くなる。」それは人々にとって真実です。弱い人々も一致すれば強くなります。

詩篇の作者はこの一致を「尊い油(2)」のようだと描きました。(これはレビ8:12で用いられている描きです。)それは「シオンの山々におりるヘルモンの露(詩篇133:3)」のようでもあります。ヘルモン山は広大な地域です。そこには普通、雪が積もっています。標高は2,800メートルほどです。そのしずくは全地を潤し続けます。

油としずくは祝福をイメージしています。そこには一致があるのです。「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3)」

祈り:主よ。あなたが一致を祝福してくださることを感謝します。私たちの教会に一致を与えてください。そして世界中にある教会と教会の間に一致を与えてください。


互いに熱心に愛し合う

1ペテロ4:1-19

「互いに深く愛しなさい(8a,NIV訳)」と使徒ペテロは書きます。ここで用いられている「深く」というギリシャ語は馬が全力疾走する様子を描くときに用いられる語です。それは手足を思い切り伸ばすことを意味し、「熱心に(新改訳)」とも訳されます。

このような愛は「多くの罪をおおう(他者の攻撃を赦し、無視する)」ものです(8b,AMP訳)。愛は他者の失敗を赦します。なぜなら、あなたは自分自身の人生で神の愛と赦しの恵みを知っているからです。

これは、良い人間関係を保ち、安易に他者と仲たがいするのを回避する鍵です。あなたは自分自身の人生において、神がどれほどあなたを愛し、あなた自身の罪を赦してくださったかを知っています。他者からの攻撃や罪を大目に見ることを意志しなさい。

これは罪のことはどうでもいいと言っているのではありません。対照的にペテロは私たちに「罪とのかかわりを断つ(1)」ことを勧めています。悪い人間的な欲求である古い生活を断ち切りなさい。そして神の御心に沿って生きなさい(2)。

私がイエスと初めて出会った時、私の友人の幾人かの反応を私はよく覚えています。彼らは変化に驚き、それを変だと思いました。ペテロは記します。「あなたはすでに神を無視した時間を過ごしてきました。毎晩毎晩パーティーに明け暮れ、飲みつぶれ、放蕩生活を続けてきました。今こそ、良いことのために時間を用いるときです。もちろん、あなたの古い友人たちはなぜあなたが古い一味にもう加わらないのか理解できないことでしょう。(3-4,MSG訳)」

あなたは今までとは違った生き方へと召されているのです。「祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(7)」とりわけ「愛するため(8)」「賜物を用いて(10)」「親切にもてなし合いなさい。(9)」「何よりも、あなたの命がかかっているように他者と互いに愛しなさい。愛は実践的にあらゆるものを補います。早速、空腹の者に食事を、家のない者に寝床を供しなさい。快活に。(8-9,MSG訳)」

パウロのように、ペテロは愛という文脈において聖霊の賜物を用いることを想定しています(10-11、1コリント12-14章参照)。賜物の目的は愛です。

たとえあなたが熱心に愛しても、その愛に必ずしも見返りがあるとは限りません。反発も覚悟しなさい。あっても驚いてはいけません。「人生が実際に困難な時、神は役立たずだと一足飛びに結論付けてはいけません。その代わりに、キリストが経験したことの真そばにいることを喜びなさい。これは霊的に精錬される過程であり、栄光と目と鼻のさきにあるのです。(1ペテロ4:12-13,MSG訳)」

これはすべてのクリスチャンが召されている苦難の一つの形です。苦難は純化する過程の一部です。神はあなたを製錬するために苦難を用い、あなたの生活から罪を追い払うのです(1-2)。侮辱は実際に祝福です。「もしあなたがキリストのゆえに侮辱されたなら、自分は幸せ者だと思いなさい。それは、あなたを他者に知らしめるあなたの内におられる神の御霊と神の栄光です。(14,MSG訳)」

侮辱されることには痛みがありますが、全ての批判は祝福です。それが真実であれば、あなたはそのことから学ぶことが出来るので、それは祝福です。もし、それが真実でなければ、あなたは「キリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。(14)」それはイエスと結び付けられるというなんとも栄誉なことです。イエスの苦難にあずかることさえ、祝福なのです。どちらにしても、ひとたびあなたがこれを握って、たとえ痛みがあっても、あなたはすべての批判を祝福ととらえるべきです。

時々、私たちは自分自身の罪のゆえに苦難を味わうことがあります(15)。しかし、クリスチャンであるための苦難は恥を引き起こしません。それは神を喜び賛美することを起こします(13,16)。それによって気をくじかれてはなりません。むしろ良いことをし続けなさい。「ですから、もしあなたが神が言われたことをしたがゆえに生活に困難が生じるなら、冷静に受け止めなさい。神を信頼しなさい。神はご自身がなさることを知っておられます。そしてそれをし続けられるのです。(19,MSG訳)」マーチン・ルーサー・キングは言いました。「私は愛にピッタリついて離れないことを決断した。憎しみはあまたにも私が担うには大きすぎる」

祈り:主よ。私たちがたの人々を互いに熱心に愛するコミュニティーでありますように。そしてそこでには多くの罪を覆う愛がありますように。


聖霊の注ぎを切望する

エゼキエル47:1-48:35

聖霊による神の愛の注ぎがあなたの心に与えられる時(ローマ5:5)、神の御霊は豊かな人生、霊的成長をもたらし、あなたの生活を癒しを増し加え実り豊かなものになさいます。

エゼキエルは、神殿の舌から水が注がれるのを見る時、この描きを見ています。それは湧き出し、川となり、最初はくるぶしまでの深さ、そして膝までの深さ、さらに腰までの深さとなり、ついには「それは私の頭をこえて川となり、泳げるほどの水、誰も歩いては通り過ぎることのできない水(エゼキエル47:5,MSG訳)」となります。その両岸には多くの木々が茂り(7)、その川の流れゆくところはどこも、その水は新鮮になります(8)。

「その川の流れるところはどこでも、多くの魚の群れがおり、命に溢れます。なぜなら、その川は塩水の海を新鮮な水に変えるからです。その川の流れるところはどこでも、命が豊かです。漁師は…網を打ちます。その海にはあらゆる種類の魚で満ち溢れます…。」

「しかしその川そのものは、その両岸に、あらゆる種類の木々の果実がなります。その葉は枯れることなく、その実がならないことがありません。毎月、それらは新鮮な果物を実らせます。なぜなら、その川は聖所から流れ出ているからです。その果実は食べるために供され、その葉には癒しがあります。(8-12,MSG訳)」

イエスはエゼキエルのこれらの約束はどこかの場所に成就するのではなく、イエスご自身というの内に成就すると言われました(ヨハネ7:37-39)。聖霊を通して、いのちの水の流れはあなたにも流れて来るのです。イエスは言いました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(38)」

このいのちの水の川はそれゆえに御霊の働きを描いています。御霊はいのちと豊かさと祝福をあなたにもたらします。そしてあなたからあふれ出て、まわりの人々に前向きな衝撃を与えるのです。これらすべてのイメージは、いのち、成長、結実、癒しを指し示しています。それはイエス・キリストの教会が成長し、その川の流れゆくところどこでもいのちがもたらされていくことの描きです。

究極的には、その川は新しいエルサレム、すなわち神が住まわれる都の予表であり、予期させるものです。その都の名は「主はここにおられる(エゼキエル48:35)」です。この予表は新天新地(黙示録22:1-2)であり、イエスが再臨される時にもたらされるものです。

祈り:主よ。聖霊と私の内面にあふれ出すいのちの水の川の約束をありがとうございます。どうか、今日、聖霊で満たしてください。そして、私がいのち、愛、一致、癒しを私が行く所どこででも与えてくださいますように。アーメン。

H.K