Tokyo Chapel

2019年7月22日

第203日

主よ助けてください!

私たちが最も頻繁に祈る言葉の一つは「助けて!」です。それはまた、聖書の中で最も一般的な祈りの一つでもあります。それはどんな状況の中に置かれようとも、あなたが毎日祈ることのできる祈りです。あなたは主に助けを求めて叫ぶことが出来るのです。神のあなたに対する願いは、あなたが主との現実的で、心からの関係を持つことなのです。


壊れた関係に助けを与えてください

詩篇88:9b-18

拒絶はいつも傷つけるものです。あなたが愛している誰かやあなたにとても近しい誰かからの拒絶は特にそうです。関係が壊れるということは痛みがあります。「恋人」や「隣人」または近しい友達によって「振られた」ように感じたときは特にそうです。詩篇の作者は「恋人や隣人から私は振られ、残った唯一の友達は暗闇だけだ」というように感じています(18,MSG訳)。

彼は言います。「私が覚えている限り、私は傷ついた。(15,MSG訳)」状況は、徹底的に希望のないように思えます。やみの中(12)、神に拒絶されたように感じ(14)、悩み(15a)、恐ろしさと失望(15b)、「私は全身あざだらけで血を流しています。…私は死にかけています。(17,MSG訳)」

しかし、一筋の希望があります。希望は、このすべての真っただ中に、彼が神に叫ぶことによって日々を始めることを選ぶという事実から来ます。「主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。(9b)」

もしかすると、今日、あなたは人間関係で葛藤しているかもしれません。あなたの結婚、職場、教会、あるいは近しい友人との…。あなたの状況が悪く見えても、あなたが主に助けを求めて叫ぶなら、いつも希望があるのです。

祈り:しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます(13)。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。私はあなたに助けを求めます。


罪と葛藤する中にある助け

ローマ7:7-25

あなたは悪癖に捕らわれていると感じたことが今までありますか?あるいは、あなたがそこから打ち破って自由になりたいという罪があなたにそうさせないように感じたことがありますか?あなたがもうしないと決心したのに、またやってしまっていることが今までありますか?

パウロは記します。「私は罪の牢獄の中に長い時間を費やしました。私が自分自身について理解していないことは、私が一筋に決めたのに、そうでないこと、私が絶対に嫌なことをしてしまうのです。(15,MSG訳)」

パウロは続けます。「それは、予想通りにいつも起こるのです。私が良いことをすると決めた瞬間、罪は私の足をつまづかせるのです。私は神の命令を本当に喜んでいます。しかし、実に明らかに、私のすべてが喜びにもろ手を挙げているのではないのです。私の一部分が密かに反逆しているのです。ただふとした瞬間、それは暴走してしまうのです。(21-23,MSG訳)」

パウロは言います。「私には明らかに助けが必要です!(18,MSG訳)」彼は叫びます。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24)」

昨日の箇所で言われていたように、あなたは律法から自由です(6)。パウロは、自分が言ったことについてある種の疑問が起こるであろうことを予期します。彼は律法と罪を同一視しているのでしょうか(7)?

パウロは律法は罪ではないことを示します。全く逆です。「律法の条文そのものは神の良い、常識的な感覚です。一つひとつの命令は健全であり、聖なる助言です。(12,MSG訳)」罪深いのは私たちです。律法は罪が何であるかを啓示することでこれを見せるのです。そして、私たちは律法を守ることができません。実に、罪が私たちに一層重くのしかかるのです。

次の質問は先の質問から導かれます。もし律法が良いものなら、なぜ、それが私を死に導いたのでしょうか(13)?「いいえ」とパウロは言います。死に導くのは律法ではありません。私の罪です。もし誰かが犯罪で訴えられたなら、罰の原因は法律ではなく、犯罪です。律法のすべては基準を据えているだけです。

この箇所は多くの紙面を費やしています。中心的な議論はパウロがクリスチャンになってからとなる前の状態をどう見なしているかです。それは明らかに自叙伝風です。しかし、彼はまた一般的に律法のもとに生きる人間の状態について話しているのです。

たぶん、私たちはこの箇所を、自分の願っているように生きたいにもかかわらず、霊的力を全開で生きることができないクリスチャンを描写している箇所と理解すべきです。

私たちは神の律法が聖であり、義であり、善であることを知っています(12)。私たちはそれが霊的であることを知っています(14)。でも、私たちは自分がうまくいっていないように感じるのです。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。(14-15)」

クリスチャンになることの「以前」と「以後」の間の違いは、以前は私は罪を犯し、以後は罪がないというのとは違います。そうではなく、違いはクリスチャンになる以前、罪は人格の中にありました。それは現実にはあなたや私をがっかりさせなかったのです。その一方で、クリスチャンになった後は、それは全く人格の外にあります。私はそうすることを望んでいないのです。それは罪を犯すときに、私に痛みと後悔をもたらします。私はがっかりしている、しかしながらそれがあるという理由からではなく、むしろ、私はキリストを喜びたい、そして私は彼をがっかりさせたと理由によるのです。

もし、あなたが私のようなら、あなたはこの罪との闘いをあまりにもよく知っています。どうぞ、それは正真正銘のクリスチャンの鍵となるしるしであることを認識してください。

パウロが助けを叫び求める時、彼は常に疑問の答えを知っています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(24-25)

多分、この箇所を理解するための鍵となる語があります。「この私(25b)」です。私たち自身では、私たちは罪の律法の奴隷です。しかし、これでお話の終わりではありません。パウロは聖霊が私たちにもたらしてくださる命という大いなる自由について語り続けるのです。

私が、キリストに属するという観点で自分自身をクリスチャンとして見るとき、私は罪に対して自由ではないと、私は認識します。
私が、この世のあって自分自身をクリスチャンとして見るとき、わたしはやはり罪から自由にされていないと、私は認識します。
しかし、私が、聖霊によって力を与えられたクリスチャンとして自分自身を見るとき、私は罪に打ち勝って自由であると、私は認識します。ジョン・ニュートンの次のような言葉があります。

「私は、私がなりたい私ではない。
私は、私があるべき私ではない。
私は、私がなるであろう私ではない。
しかし、私はかつての私ではないことを神に感謝する。」

祈り:主よ。私はあなたに助けを叫び求めます。あなたの聖霊で今日私を満たしてください。私が知っているあなたが導きたいと願っている生活に導かれるために、私には実に聖霊の助けが必要なのです。


癒しのための助け

ホセア6:1-7:16

神は私たちの生活に癒しをもたらしたいと願っておられます。民は彼らが神に本当に立ち返るなら神は彼らを癒してくださるだろうと知っていました(6:1)。

もし、あなたが神の癒しを欲しているなら、あなたは心から神に叫び求める必要があります。神がご自身の民に対してこの箇所で不満を述べていることは「彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく。(7:14)」ということです。「心に響く祈りを私に叫び求める代わりに、彼らは娼婦とともにベッドの上で歓声を上げている(14,MSG訳)」

6章の最初の3節には、私たちがこっそりと去って行った時、主が私たちをご自身と回復しようとしたことによる痛みの過程が描かれています。しかしながら、罪を認めることもなく、深い悔い改めもありません。ホセアは民の浅い告白を次のような言葉で言い表しているようです。「あなたの愛の告白は朝もやと朝露ほどしか長続きしない(6:4,MSG訳)」

はっきりしていることは、神が関心を持っておられるのは心であって、表面的な行為ではないということです。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(6)」神は心から神に立ち返ったご自身との関係について関心を持たれました。

神の不満は「彼らのうちだれひとり、わたしを呼び求める者はいない。(7:7)」ということでした。傲慢があり、「主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。(10)」という人間的に拒否する独立的な精神がありました。神は言います。「わたしは彼らを贖おうとするが…わたしからは離れ去る。(13-14)」あなたは癒しを受け取ることが出来ます。そして神から赦しを受け取ることが出来ます。たとえあなたがあらゆる間違いを犯してきたとしてもです。しかし、あなたは心から神に向かって叫ぶ必要があります(14)。

ジョイス・マイヤーは記します。情緒的な「癒しは簡単には訪れません。そしてそれは極めて痛みを伴うものです。時々、私たちは感染した傷を持っています。私たちが癒しを通ることが出来る前に、それらの傷は一度開かれて消毒されなければならないのです。ただ、神だけがこれを適切にどう処置するかを知っておられるのです。あなたが傷を神に癒していただくことを追い求める時、神のみことばにとどまって神との時間を費やしなさい。そして、神の臨在を待ちなさい。そこであなたが癒されることを私は保証します。」

祈り:主よ。私はあなたを知るだけではなく、もっとよく知ることを推し進めたいのです(6:3)。私は私の心が癒され、回復し、リバイブされることを叫び求めます。主よ助けてください!アーメン。

H.K

References

Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2014), p.1370.