Tokyo Chapel

2018年11月3日

第307日

あなたはどのように神に近づくのですか?

私はそれを学べば学ぶほど、それを愛するようになります。ヘブル人への手紙はユダヤ人クリスチャンに対してそのように告げているようです。旧約聖書に深くなじんでいる言語が用いられているので、私たち現代人の耳には馴染みのない方法でそれは書かれています。しかし、これは「あなたはどのようにして神に近づくのですか?」という肝心な質問を取り扱っているのです。

作者の答えは、私たちの偉大な大祭司、イエスを通してです。大祭司なるイエスはこの手紙の真骨頂です。新約聖書の文書の中でイエスを祭司と呼んで表現しているのはここだけです。イエスの祭司的な働きは他の箇所にもうかがうことができます。たとえば、ヨハネの福音書の中にはイエスの「大祭司」としての祈りが記されていますし(ヨハネ17章)、「愛された弟子」のイエスに関する記述の中に「御父の前で弁護する方(1ヨハネ2:1)」として描かれています。しかし、このヘブル人への手紙はそのテーマを取り上げて詳しく説明しています。


神が愛し情け深いお方だと知って近づく

詩篇119:153-160

人間に対する神の愛はいつも大いなるものです。「あなたのあわれみは大きい。主よ。(156)」詩篇の作者は神の愛を知っていました。「主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)」彼は神が解放者であることを知っていました(153)。彼は贖いについて(154)、そして救いについて(155)語ります。

詩篇の作者は神が解放者であり、贖い主であり、救い主であることを知っていました。そしてそれは彼が神に確信をもって近づくことができたことが理由です。彼が知らなかったのは、どのようにして神が彼を救おうとしておられるのかでした。

私たちが、この詩篇を含め、旧約聖書全体を読むとき、新約聖書のレンズごしに、私たちは大祭司なるイエスを通して、詩篇の作者が記述したことが可能になることを理解することができます。

祈り:主よ。あなたの大いなる愛とあわれみを感謝します。イエスを通して、あなたが解放と、贖い、救いを私に可能にしてくださることを感謝します。


偉大な大祭司であるイエスを通して神に近づく

ヘブル4:14-5:10

あなたや私がこの宇宙の創造者に確信をもって大胆に近づくことが出来ると言うことは全く驚くべきことです。もちろん、私たちは畏れをもたなければなりませんが、それは怖気たり恐がることではありません。どのようにしてそうできるのでしょうか?

作者がこの手紙の中心的なテーマ、大祭司なるイエスについて書き始める時、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。(4:14)」という読者への励ますことがこの手紙の目的の中心であることを彼は指し示すのです。イエスがどのようなお方であるのかを学べば学ぶほどに、人生の嵐や誘惑の中にあってもあなたは信仰をもって堅く立つことが出来るのです。

イエスは唯一無二のお方です。偉大な大祭司は「神の子(14)」であり、同時に完全に人間です。彼は私たちの弱さに同情できるお方であり、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(15)」

イエスはあなたが持つのと同じ感覚をすべて持っておられました。彼は間違ったことをするかもしれないと感じる時がありましたが、いつも良いことをすることを選んだのです。あなたが祈りの中でイエスに話すとき、イエスはあなたがどのように感じているかを知っておられるということをあなたは知ることが出来るのです。

祭司職のためには3つの資質が必要でした。

  • 人間性(「大祭司はみな、人々の中から選ばれ」,ヘブル5:1)
  • あわれみ(「人々を思いやることができる」,2)
  • 神の任命(「神に召されて受けるのです。」,4)

これらすべての点で、イエスはまさにその役割に適しておられます。

しかし、イエスはヨダ族に属しておられ、レビ族ではありません。そして、それゆえ、通常の祭司職の条件を欠いていることになります。祭司職はモーセの兄弟であるアロンの家系(レビ族)に属する者であったからです。ですから、作者は旧約聖書の登場人物であるメルキゼデクを説明し、祭司職の新しい基準を示しています。メルキゼデクは「神の偉大な祭司」でありアブラハムを祝福しました(創世記14:18-20)。

ヘブル人への手紙はメルキゼデクの祭司職があらゆる点においてアロンのそれよりも優るものであるかを示します(ヘブル7章)。イエスの祭司であることはメルキゼデクのようであるので、それは永遠です(5:6)。それゆえ、それはあらゆる時に有効です。それはイエスより以前にいた人々にも、同様に、イエスのあとに生きた人々にも有効なのです。

イエスはあなたの代表者です(1)。彼は祭司の手本であり、他の祭司にはるかに優るお方です。

イエスは彼が味わった苦難を通して経験を得ました(9)。神はあなたが通るすべてのことを用います。それは痛みを伴うかもしれませんが、あなたは経験を得ることができるのです。あなたは自分の痛みを他者の益のために用いることを学ぶことが出来るのです。

リック・ウォレンは、次のように書きました。「神は十字架から復活への逆転を好まれます。あなたが自分の人生から最も取り除けて欲しいと願う事柄こそ、神があなたを形造り、ご自身の望まれる信仰者となるために用いる事柄であることがしばしばあります。神はその問題をあなたの人生を良いものにするために用いたいと願っているのです。あなたの痛み以上にもっと大切なことがあるのです。それはその痛みからあなたが学び取るものです。」

私たちと同じように、イエスはご自身が被った苦難を通して経験を得られたのです。しかし、私たちと違って、彼には罪がありませんでした。それゆえ、彼は自分自身のための犠牲を必要としなかったのです。イエスは「彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者(9)」となられたのです。

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)」あなたが過去の赦しを願い求める時、あなたは「あわれみを受ける」ことを知ることが出来ます。そして未来のための助けを願い求める時、あなたは「おりにかなった助けを受ける」ことを知ることが出来ます。あなたがどのような必要の中にあっても、あなたがどのような困難に直面しているとしてもです。

御座のイメージは、そこに座しておられる主権と栄光あるお方、神を強調します。あなたがどう感じてもあるいはあなたが過去に何をしたかに関係なく、イエスを通してあなたは祈りと礼拝をもって神に近づくことが出来るのです。

祈り:主イエス・キリスト、私の偉大な大祭司なるお方。あなたが犠牲となってくださり、私は恵みの御座に確信をもって近づくことができることを感謝します。私が必要とする助けてくださるあわれみを受け、恵みを見出すことができますことを感謝します。


確信をもって恵みの御座に近づく

エゼキエル1:1-3:27

私たちが、ただ「確信すること(ヘブル4:16)」だけによって、天の御座に近づくことができると言われているということはなんと驚くべきことでしょうか。預言者エゼキエル(その名前の意味は「神は強い」)はこの御座を垣間見たのです。「何か御座のようなものがあった。サファイヤのようなスカイブルーと、御座の上に人のような形がそそり立っていた…腰から下は燃え立つ火のように見え、腰から上は磨かれた青銅のように見えた。あたり一面が光り輝き…それは神の栄光から出たものであった!私がこれをすべて見た時、私は膝をかがめて、顔を地面にひれ伏した。それから私は声を聞いた。(エゼキエル1:26-28,MSG訳)」

エゼキエルは神によって召された時(593 BC)、年齢は30歳でした(1)。彼は祭司でした(3)。エレミヤはエルサレムに居ましたが、彼はバビロンに捕囚されていたユダヤ人でした。彼が捕虜となったのは597BCにエホヤキンが若くして王となった時(2列王24:8-17)でした。エレミヤと同じように、彼は民を悔い改めに招き、やがて起ころうとしているエルサレムの再建を予告しました。

エゼキエルは神の幻をもって呼びかけを始めました。幻の中で、彼は奇妙な生き物を見ました(エゼキエル1:10)。それぞれは神の特徴の一部を証ししていました。

最初のものは人間の顔を持っていました。二番目はライオンで力と勇気を表します。三番目はで多産を表します。四番目はで速さを表します。それらの特徴は神の主権と偉大さをともに指し示しています(10)。

この幻の内に、エゼキエルは人の姿を垣間見ます。それは今、私たちはイエスであると分かります(黙示4:1-10)。

恵みの御座の幻に対するエゼキエルの応答は、顔を地につけてひれ伏すことでした(エゼキエル1:28)。これは神の臨在に対してもっともな反応です。(たとえば、黙示4:10参照)

神は彼に語ります(エゼキエル2:1)。聖霊がエゼキエルに訪れます(2)。彼は食するための神の言葉を与えられます(3:1)。「私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。(3b)」彼は言って神が与えたメッセージを告げるように言われました。

彼は大きな反対に遭いますが、こう告げられました。「彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。(9)」それは彼の責任ではないのです。「彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても…(11b)。」あなたの責任は、エゼキエルと同様に、神があなたに与えたメッセージを単純に告げることです。

あなたは人の反応について責任を持たなくてよいのです(18-21)。しかし、あなたはあなたが神に従ったかどうか、そしてあなたに神が与えた言葉を告げたかどうかについては申し開きをすることになります(18,20)。時々、あなたはある状況の中で結果がどのようになるのかを知りませんが、あなたは結果の如何に関わらず神に信頼して従うことができます。

その後、主の栄光が再びエゼキエルに現れ、彼は顔を地につけてひれ伏しました(23)。再び、主の霊が彼に臨みます(24)。神は約束します。「わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる』と言え。(27)」

祈り:主よ。この莫大な特権のゆえに感謝します。私は確信をもって恵みの御座に近づくことができ、あなたと語り、あなたのメッセージを聞くことができます。今日、あなたのみことばを語ることができるようにお助け下さい。アーメン。

H.K

References