Tokyo Chapel

2018年4月9日

第99日

主の良きお方であることを知る

私が子どもの頃、両親と一緒に私と姉はピクニックに出かけました。子ども二人で全く廃線になったと思えた線路で遊んでいました。突然、私の母が叫びました。「ジャンプしなさい!線路から離れて!」彼女は特急列車がやって来るのを見たのです。感謝のことに、私たちは「またからかって、脅かしてもだめだよ。」と言い返したりしませんでした。もし、そうしていたら、私は今こうして記事を書くことはできなかったでしょう。私たちは二人とも線路から飛びのけました。

その命令は自分の子どもたちへの母の愛から湧き上がったものです。神の命令は神が良いお方であって、あなたのためのご自身の愛から湧き出たものです。それは「あなたのしあわせのために(申命記10:13)」与えられたものです。神の良いお方であることを知りましょう。裁きの到来とそれにどのように備えるべきかについてイエスの警告は、あなたへのご自身の愛から発せられたものなのです。今日の箇所のすべてに、私たちは従順は神の良いお方であることを体験するための道であり、ご自身の祝福に引き寄せる磁石であるのを見るのです。


神の臨在

詩篇43:1-5

時代を通じて、男であれ女であれ多くの偉大な神の人がそうであるように、詩篇の作者は霊的な落ち込みと闘っていました。作者は「絶望(5)」しています。彼のたましいは「御前で思い乱れて(5)」いました。イエスご自身も「今わたしの心は騒いでいる。」そして「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と叫びました。(ヨハネ12:27、マルコ14:34)

詩篇の作者は「神を恐れない民(詩篇43:1a)」、「欺きと不正の人(1b)」に取り囲まれています。彼は「敵のしいたげ(2b)」のもとにあります。詩篇にはとても現実的で真実なものがあります。人生は容易ではありません。私たちは闘い、反対、そして絶望にさえ面することがあるかもしれません。

正しい対処は神に向かうことです。神の導き、そして神の臨在、神の「喜び(3-4)」を祈り求めるのです。その当時の神とご自身の民との臨在の接点はエルサレムの神殿でした。「聖なる山」に建てられた、神の「お住まい」になる所でした(3)。新約聖書において、イエスは神が神がお住まいになる完全な神殿として描かれています(ヨハネ2:19-21、コロサイ1:19参照)。

ペンテコステの日に、イエスは、神が今お住まいになる道として、個人としても、共同体としても、「聖なる宮」として聖霊を送りました。「教会」は退屈ではありえません。喜び、楽しみ、そして賛美のある場所なのです。

その中心には、たとえどんな状況であっても、従順とは神に向かうことに尽きること、神の良いお方であることを信頼することがあります。私たちが闇の中にあって必要とするのは、神の臨在です。― そして、それこそが究極的にあなたが見出す信頼できるものなのです。

祈り:主よ。あなたの光とまことを送ってください。それらが、あなたの臨在へと私を導いてくれるのです。(詩篇43:3a)


イエスの報酬

ルカ12:35-59

人生はすばらしい賜物です。あなたは才能と責任を「任された者(48)」です。それを現実にどのように使うかが大切です。この箇所を通して警告されているのは、あなたの人生の使い道が愛から発せられているかどうかということについてです。イエスは裁きの到来とその備えの方法を警告します。

イエスはあなたを「仕えるための備え(35,NIV訳)」に召しています。今日イエスが戻って来られることを期待しなさい。備えをしていた者たちに与えられる報酬はなんと素晴らしいものでしょうか。「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。(37a)」あなたはイエスとともに座し食事をともにするでしょう。そしてイエスがあなたに給仕してくださるのです(37b)。イエスの良いお方であることと恵みは信じられないほどのものです。イエスはほとんどの人間の常識を覆すように、その役割を反転させるのです。

イエスが戻られる時のために備えなさい(40)。「忠実な思慮深い管理人(42)」のようでありなさい。あなたは豊かな報酬を受けることになるでしょう。それはあなたにとって「幸い」なことです(43)。神はあなたを「自分の全財産を任せる(44)」立場に置かれるでしょう。

イエスはまだ来ることはないだろうと考え(45)、自分がやりたいようにし続け、事態を収拾するにはたっぷり時間があると考えることは危険です。

「主人の帰りはまだだ。」という考えは、不忠実なしもべに、自分の務めを無視させ、主人が願っていた行動をとらせない偽りであるというのが事実です(45)。今日、多くの人々にとって、神は自分たちにとって縁遠く、無関係な存在のように思えます。この物語は、やがて、私たちがしたすべてのことに従って精算されるということど、今そのことを踏まえて賢く行動すべきであるという警告を思い起こさせます。

もしあなたが何か間違っていると知りながらとりあえずそうしているなら、それはあなたが認識せずに何か間違ったことをしているよりも悪いとイエスは言うのです。しかし、後者も依然として悪いのです(47-48)。

イエスはあなたに忠実さと知恵をもってご自身に従い、仕えるように召しておられます。もしあなたが、神があなたにあたえたものを賢く用いるなら、神はあなたにさらに責任を委ねて祝福してくださいます。イエスは言います。「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(48b)」

もしあなたが幸せな家庭、良い教育、健康、友人、仕事、食事、衣類、休日をもっているなら、もし、あなたが聖書を読むことが許され、一緒に集まったり祈ったりする自由があるなら、あなたは「多く与えられた者」の一人であると言えるのです。そして多く与えられた者は多くを期待されるのです。

イエスご自身は容易な人生を送りませんでした。イエスは「わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)」と言います。イエスは十字架の影のもとに生きました。イエスはやがて苦難を受けるであろうことを知っていたのです。私たちが人生の中で困難や試練に遭うことを知る時、私たちはしばしば「それが完遂するまでとらわれた」感覚を持つのです(50,RSV訳)。もし私たちが比較的小さなことでこれを感じるとするなら、イエスにとって、全世界の罪を背負って十字架につけられる恐怖に向かっているのをご自身が見られたのはなんと恐ろしいことなのでしょうか。

これは、イエスが神の平安を私たちにもたらしたことを意味します。あるレベルで見れば、私たちは必ずしもいつも外面的な平安を経験しているわけではないとイエスは言うのです。むしろ、分裂が起こるでしょう。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(51)」この分裂は、私たちに最も近しい関係にある者同士にさえ起こり得ます。イエスの為に生きる者とイエスに逆らって生きる者との間に分裂があるでしょう。

それでも、あなたは平和を作る者と呼ばれます。いつも「熱心に…和解するよう努めなさい。(58)」

祈り:主よ。いつもあなたに仕え、あなたが私に委ねてくださったすべてを活用することができるように備えることを助けてください。


神の力

申命記11:1-12:32

イエスが愛と従順を結び付けた最初の人ではありません。モーセの律法は愛から出て神によって与えられたものでした。これは愛の応答を呼びかけます。「ですから神を愛しなさい。あなたの神を。神の戒めと規則をよく守りなさい。どんな時でも神の命令に従いなさい(11:1,MSG訳)。」

神の言葉があなたの全存在に染み渡ることを確かにしなさい。「これらの言葉をあなたの心に置きなさい。あなたの内の深い所で受け止めなさい。…それらをあなたの子どもたちに教えなさい。どこででもそれらのことについて語りなさい。家で座っている時も、街で歩いている時も。朝目覚めてから夜床に就くまでどんな時もそれらのことについて話しなさい(18-19,MSG訳)。」

神の言葉を知り、学び、教えなさい。そしてあなたの生活の中でそれを実践しなさい。大いなる祝福はオープンで正直に生き、神が自身の言葉の内に示しておられるその真理の光のうちに歩むことからもたらされます。

神は、ご自身が与えた命令に忠実に従う者たちに、神の祝福を約束しています。―「あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら(13,また22,27)。」

不従順はとても消耗させ、破壊をもたらします。私は意図的なの罪が罪責感をもたらし、エネルギーを搾り取ることを、私自身の人生の歩みを通して知っています。最終的には、私たちは惨めであることが分かります。モーセは要するに「神の良いお方であることを見よ」と言っているのです。「これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり…(7,8)」従順は力なる祝福をもたらします。

良い選択をしましょう。神は言われます。「わたしは今日あなたを祝福とのろいの帰路に立たせる(26,MSG訳)。」もしあなたが従順を選ぶなら、あなたは神によって祝福を受けるでしょう。あなたは神の祝福を引き寄せる磁石となるのです。知恵とは今することを選ぶことであり、それはのちになってあなたを満足させるものです。

神に従わないことは誘惑です。なぜなら私たちの周りにいる人々がそうしているからです。モーセは言います。「よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、『これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。と言わないようにしなさい。(12:30)」モーセは続けて言います。「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない(32)

祈り:主よ。あなたのすべての良きもののゆえに感謝します。どうか、今日、私をあなたの愛と力、喜びと楽しみ、忠実さと知恵に満たしてください。アーメン。

H.K