Tokyo Chapel

2019年1月22日

第22日

主よ。いつまでですか?

あなたは今まで、「主よ。いつまでですか?」と問うて過ごされた時をお持ちでしょうか?この葛藤と失望はいつまで続くのですか?この経済的困難はいつまでですか?この健康状態はいつまでですか?この人間関係のこじれはいつまでですか?この依存症との格闘はいつまでですか?この誘惑はいつまでですか?この損失を乗り切っていくのはいつまでですか?

ピッパと私は時々ブライトンの聖ペテロ教会を訪ねます。その教会は私たちの教会増殖の働きの一つの実です。ある日、礼拝が終わると、一人の女性が私たちに近寄って来て言いました。「私は37年間、主人がキリストを信じるように祈ってきたの…。その37年の間、私は叫び続けたの。『いつまでですか?あぁ主よ。いつまで!』って。」

聖ペテロ教会は2009年に再興しました。その時、彼女の夫は彼女と共に教会に行き始めたいと決心しました。彼が教会に歩いて入った瞬間、彼は家に帰って来た気持ちになり、生まれ変わったと感じたそうです。今、彼は教会を愛し、毎週集っています。神は彼の奥さんの嘆願を聴いて下さったのです。彼女はニッキーとの会話の中で何度も喜びの笑みを浮かべながら「いつまでですか?あぁ主よ。いつまで!」という言葉を繰り返しました。ついに、彼女の祈りは答えられたのです。

「主よ。いつまでですか。」は今日の詩篇の最初の言葉です。「いつまで」と4回にわたって続けざまにダビデは叫んでいます(詩篇13:1-2)。

神が私たちをお忘れになったのではないかと思える時期があります(1a)。まるで顔を隠されたかのように思うのです(1b)。不可解な理由で私たちは神が私たちから去ったような感覚に陥るのです。毎日は葛藤しているように思えます。それは思考の中での格闘です(2a)。毎日は悲しみを取り運んでくるように思えます(2b)。私たちが戦いに負け、敵が私たちを圧倒したように思えるのです(2c)。

そんな時、私たちはどう応答すべきなのでしょうか?


進み続ける

詩篇13:1-6

今日の詩篇には、困難な時に続けるべき4つのことを見出すことができます。

  1. 祈り続けよ
    ダビデは神に叫び続けました。「私に目を注ぎ、私に答えてください(3)」と。心を注ぎだし、神がいなくなったように思えた時でさえ、あきらめずに祈り続けたのです。
  2. 信頼し続けよ
    「私はあなたの恵みに拠り頼みました。(5)」MSG訳では「私は頭からあなたの腕の中に飛び込みます。」と訳されています。物事がうまくいっているときは比較的信仰を持ちやすいのですが、信仰が試されるのはあまりうまくいかないような時なのです。
  3. 喜び続けよ
    ダビデは試練を喜んだわけではありません。しかし、主の救いを喜んだのです。「私の心はあなたの救いを喜びます。(5)」
  4. 礼拝し続けよ
    ダビデはそれまで通ってきたすべてのことにかかわらず、神の良いお方であることを見ることが出来ました。「私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(6)」ダビデは神がそれまで成してくださったすべてのことを覚えました。

神を賛美し礼拝し始めるなら、問題の解決に向けての展望が開けてきます。時々、今まで主が成してくださったことを思い返すこと、そして、主が今まで葛藤し、失望し、別れを経験しなければならなかった事柄を乗り越えさせてくださったことを感謝することは有益です。そして、どれほど主がずっと良いお方であったか(6)を思いにとどめるのです。

祈り:主よ。今日あなたを礼拝します。あなたは良いお方です。立ち向かうすべての戦いの中で、私はあなたの尽きることのない愛を信頼します。


イエスに従い続ける

マタイ15:10-39

遅れることは神の約束を否定するものではありません。神は常にすぐに状況を変えるというわけではありません。病気や患難はイエスが再臨されるまで、最終的に根絶されるものではありません。今日の箇所の出来事や私たちの奇跡や癒しの体験はやがて起こる事柄の前味なのです。

神の良いお方であることは、究極的にイエスに啓示されています。再び、今日の箇所で、私たちは本当にイエスが素晴らしく良いお方であり、どのように罪、病、患難を取り扱われるのかを見るのです。

  1. 心を新たにし続ける
    イエスは私たちの問題は何を食べるか(11)というような外面的なことについてではないと言いました。食べ物はあなたの体に入り、また出て行くのです(17)。あなたを汚すものはあなたの内側から出てくるのです。「口から出てくるものは、心の中で始まったものです(17,MSG訳)」心の中の罪が現実の問題です。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。(19-20a)」

    イエスが挙げた言葉の最初の挑戦は、たとえ殺人や姦淫を犯していなくても、すべての人が失敗するハードルです。それは「悪い考え」です。私たちの罪の解決は、パリサイ人が示唆するような外面的な儀式ではありません。ただ神だけが心を新たのすることがお出来になるのです。聖霊の助けによって始めて変革されきよめられるのです。
  2. 癒しのために祈り続ける
    自分の子どもが苦難に遭うのを見ることほど辛いことはないでしょう。カナンの女は悪霊に憑かれた娘のことで心痛めていました(22)。この母は心の中で「いつまでですか?主よ。」と叫んだに違いありません。しかし、彼女は癒しを求め続けました。そして、イエスが彼女の願いにお答えにならないように見えた事実に打ちひしがれることがありませんでした。女は「来て」「ひれ伏して」「お助けくださいと言い」ました(25)。

    イエスは彼女に「偉大な信仰(28)」があるのを見て、娘を癒されました。それだけでなく、イエスは様々な病人を癒し続けられたのです(30)。
  3. 空腹の者を満ち足らせ続ける
    イエスは病人だけに働きをなしたのではありません(22節以降)。イエスは空腹のために困っている人々を深くあわれんだのです。イエスは「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。(32)」と言いました。

    イエスはとても小さなものをもって大きなことがお出来になります。わずかな食物をイエスに渡したことで、イエスは群衆に食べ物を与えたのです。もし、あなたが生活にまつわる小さな事柄すべてをイエスに委ねるなら、イエスはそれを大いに増やし、偉大なことにそれらを用いるのです。

    もし、イエスがその時空腹の人々をかわいそうに思われたのなら、今日、世界中の飢餓に瀕している何億という人々をイエスはかわいそうと思っておられることでしょうか。イエスに従う者として、私たちは今日、空腹の者を満ちたらせる必要があるのです。

間違いなくすべての人々がイエスを承認したように思えます。しかし違いました。パリサイ人達はイエスに聞いた時に、反対したのです(12)。もしイエスでさえ、その言葉によって人々に反対されたのであれば、今日、クリスチャンや教会がいうことに反対する人々があったとしても驚くには値しないのです。

祈り:主よ。あなたのあわれみの心を私に与えてください。苦難の中にある人、病人、飢えている人に心を向けることができますように。聖霊なるお方よ、来てください。


希望を持ち続ける

創世記43:1-44:34

ヤコブはダビデのように「主よ。いつまでですか?(詩篇13:1a)」と叫んだに違いありません。ヤコブの苦難は次から次へと起こりました。ヤコブは20年以上にわたって、亡くした子どものために悲しみ続けました。さらに飢饉に苦しみました(43:1)。そして、ベニヤミンさえも手元から取られてしまいました。ヤコブは尋ねました「なぜ、…私をひどいめに会わせるのか。(6)」彼はため息をつくように「私も、失うときには、失うのだ。(14)」と言いました。

結局は、ヤコブは単純に神に信頼しなければなりませんでした。そして息子ベニヤミンを行かせたのです。彼がそうしたとき、物事が動き始めました。しばしば、最悪を恐れて手放せなかった状況を神の手にゆだねて初めて、神が物事を動かし始めるということがあります。

創世記のこの箇所を書いた人物は素晴らしい語り部です。彼は苦悶を引き延ばします。ユダは、もし父がヨセフと同じようにベニヤミンを失ったら、父はたぶん死んでしまうだろうということを知っていました。ユダは「…私の父に起こるわざわい(悲惨さ,NIV訳)を見たくありません。(44:34)」と言いました。この間、私たち読者は、ヨセフは実は生きていることを知っています。そしてやがてヨセフの夢が実現することも知っているのです(43:26-28)。ヨセフは「弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた(30)。」

ヨセフは兄たちをテストしました。ユダは以前のユダではありませんでした。最初のころは弟を簡単に奴隷として売り飛ばしてしまう男でした(37:26-27)。今は弟の命を救うために命を投げ出そうと意志しています。「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。(44:33)」

思いもよらない物語の展開を通して、神は働き、ご自身の目的を果たされます。神は常にあなたの性格に働いています。そして、ある日あなたが歩みを振り返って「主よ。…それは私にとって良い事でした(詩篇13:6)」と言えるようにしてくださるのです。

これを新約のレンズごしに読めば、ヤコブがただひとりの息子ベニヤミン(「彼だけが残っているのだから(創世記42:38)」)を送り、全家族を飢饉から救いに導いたように、神はひとり子イエスをこの地に送り、私たちを救ったのです。

祈り:主よ。あなたが私たちの人生や歴史の中に驚くべき方法であなたの目的を為してくださることを感謝します。困難な時、「主よ。いつまでですか?」と叫ぶときに、イエスに従い、祈り、信頼し、喜び、礼拝し続けることができますように。あなたに私の希望を置くことができますように。アーメン。

H.K