「問題」は最後に言う言葉ではない
ジョージ・マシソンは8人兄弟の長男としてグラスゴーに生まれました。子どもの頃は弱視で、二十歳になると両目とも完全に見えなくなりました。彼の婚約者は彼の目が徐々に見えなくなっていくこと、また医者が為すすべがないということを知り、一生を盲目の人と暮らすことはできないと彼に告げました。彼は生涯結婚しませんでした。
彼はとても献身的な妹によってその働きが助けられました。彼の学びを助けるために、彼女はギリシャ語、ラテン語、ヘブル語を学びました。彼は盲目でしたが、グラスゴーアカデミー、グラスゴー大学、スコットランド教会神学校で優秀な成績を修めました。
彼が40歳の時に、心が痛くなる祝い事がありました。彼の妹が結婚したのです。それは、彼が同志を失ったことを意味するだけでなく、自分自身の傷心の体験を思い起こさせることとなりました。耐え難い悲しみの中で、妹の結婚式の前夜、彼はキリスト教会で長く愛され歌い継がれることになる讃美歌を書きました。「私を萎えさせることのない愛(O Love That Wilt Not Let Me)※」です。彼はたった5分でこの作品を書き上げ、推敲も書き直しもなく出来上がったのです。彼は「高きところから訪れる夜明けのようにやってきたものです。」と記しています。
痛みの中で私を捜し求めてくださった喜びよ
あなたに向かってこの心を閉ざすことはできません
雨の中で虹の光をたどり
あなたのお約束が虚しくないことを感じます。
嘆きから涙は拭い去られるのですから
人生に問題はつきものです。イエスも問題に遭いました。弟子たちも、ダビデもすべての神の民もそうです。しかしながら、美しい文体で書き上げられたマシソンの讃美歌のように、「問題」は最後に言う言葉ではないのです。
※邦訳は聖歌282「われをはなたざる」
多くの問題の後で立て直される
詩篇71:19-24
神は人生が楽々歩めるものだとは約束していません。詩篇の作者は「多くの苦しみと悩み(20)」に遭いました。作者が遭った問題、抑圧、心配は一時的ではなく、小さなことでもありませんでした。それは何度も深刻に起こったものでした。詩篇の作者はあなたに、このような困難にどう対処すればいいのかというモデルを示してくれます。
- 神に信頼し続ける
物事がうまくいっているときに神を信頼することはたやすいことです。挑戦すべきは問題の最中に信頼を維持することです。神が良いお方であることを信じるのをやめてはなりません。「神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。(19)」 - 希望を持ち続ける
試練は永続するわけではありません。問題の最中に、希望があります。「私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。(20b-21)」神はあなたの問題を良いことのために用いてくださいます。神は問題を用いてあなたの品性を練ってくださいます。その結果、神はあなたの栄誉を高く上げてくださいます。神は問題を通る中であなたを慰め、そしてあなたは人を慰める者になることができるのです。(2コリント1:4) - 主を礼拝し続ける
問題にめげずに神を賛美し続けましょう。「私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。(詩篇71:22-23)」特に困難な時にささげる礼拝は、神の臨在にある平和と慰めに導きます。
祈り:主よ。私が問題に遭い、困難な時を通っても、あなたは私の生活を再び立て直してくださると約束してくださっていることを感謝します。私はあなたの真実を賛美します。
問題から救い出される
使徒6:1-7:19
時々、初代教会の生活を理想化して考えたくなる誘惑というものがあります。あたかも彼らは完全な教会で問題など全くなかったと考えるのです。私たちは使徒2章の牧歌的な美しい描きと並んで、6章の出来事を読むことが必要です。もちろん、パウロが彼が書き送った手紙の中にしたためた数々の問題も忘れてはなりません。初代教会は山のような問題があったのです。現代もまた、教会にそれらがあることを見て驚くことはないのです。
- 不満
良いリーダーは争いを注意深く扱い、巻き込まれるのではなく、責任を果たします。使徒たちは「やもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていた(6:1)」という苦情を受けとめました。しかし彼らは中心的な務めである「祈りとみことばの奉仕(4)」に励む必要がありました。解決の方法として、しばしば用いられることですが、効果的な権限移譲をしたのです。使徒たちは、この件について「食卓のことに仕える(2)」ための人々のグループを置くことで対応を図りました。彼らは「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち(3)」を選び、その結果、自分たちの奉仕に専念することができたので、「神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った(7)」のでした。良いリーダーたちは権限を委譲し、他の人々を神の与えた賜物に従って、奉仕の業へと解き放つのです。 - 騒動
教会の反対者たちのグループは「彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行きました(12)。」さらに「偽りの証人たちを立て(13)」彼らはステパノのことばを捻じ曲げて「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。(13)」と言いました。 - 変わることへの恐れ
多くの反対は「変わることへの恐れ」から始まります。偽証者たちは「『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」と言いました。
彼らの目はステパノにくぎ付けになりました。「彼の顔は御使いの顔のように見えた(15)」からです。ステパノの弁論が始まりました。ステパノは神の民の歴史を引用しました。そして、彼自身がおかれている状況に特に適切に則している歴史の部分を引用したのです。彼は旧約聖書のヨセフの話を引用し「神は彼とともにおられ、あらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになった(9-10)」と証ししました。それは神が彼に与えた知恵でした(6:10)。
ステパノは殉教の死を遂げることなりました。 彼は「神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て(7:55)」永遠に主のもとへと救い取られて行きました。
祈り:主よ。私が問題に怖気づくことがないようにお守りください。それよりも、ステパノのように、信仰と聖霊に満たしてください。どうか私たちが神のことばが広がり、あなたの従う者たちの数が毎日、もっともっと増えていきますように。
問題の中でリフレッシュされる
2サムエル15:13-16:14
ダビデの実の息子であるアブシャロムはダビデに反逆しました。「イスラエル人の心はアブシャロムになびいています(13)」という知らせが届きました。これはがっかりする知らせであったに違いありません。神の偉大な人、ダビデは、神の民にとっての王であり、キリストの「型」(実際にキリストの先祖です)ですが、彼はその生涯に多くの問題に直面しました。もしあなたがこのような類の問題にぶるかるなら、そのことに驚く必要はありませんし、自分が何か間違っていたからだろうかと不安になる必要はありません。時々、問題はあなたが正しいことをしていても単純にやってくるものなのです。
- 涙
私たちはダビデの感情が揺すぶられた様子を見ます。「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。(30)。」実に、国中は大きな声をあげて泣きました(23)。 - 失望
息子アブシャロムだけでなく、あわれみをかけたサウルの息子メフィボシェテもエルサレムに残留し「イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる」(16:3)と言ってダビデを見限りました。愛したものからの裏切りは特に大きな失望を与えます。 - 非難
サウルのしもべであったシムイはずっとダビデにのろいの言葉を投げかけました。ダビデはなすがままに任せました。すべての裁きを神に委ねたからです(11-12)。 - 疲労
「王も、王とともに行った民もみな、疲れた(14)」のです。私たちがダビデが被った事柄を読むならば心底「疲れた」様子を見ても驚かないでしょう。
クリスチャンとして歩む時に問題、涙、悲しみ、失望、疲れを避けることはできません。しかしながら、神の民が違うところは、彼らには神との関係があるということです。
ダビデは問題の渦中で「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。(15:31)」と祈りました。彼の祈りは答えられました。実際にはアフィトフェルは素晴らしい助言をするのですが、退けられるという結果になるのです。神は祈りの言葉ではなく祈りのスピリットを受けとめてくださいました。
疲れの中でも「ひと息ついた(16:14)」のです。「彼らは休息し、回復した(MSG訳,16:14)」のです。時々あなたには休息をとることが必要です。人は肉体的、精神的、霊的に休息が必要なのです。実際にダビデが具体的にどのようにリフレッシュしたのかは分かりません。しかしながら、いつも詩篇を読んで分かるように、ダビデは神との親しい関係を通してリフレッシュされたことを知ることができます。
また、ダビデは彼の友人であるツァドク(15:24以下)、フシャイ(37)、ツィバ(16:1-4)そして「主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。(15:21)」と言ったイタイの忠誠によって感情的にも癒されたことでしょう。
祈り:主よ。あなたが私を救ってくださらないという問題が私の人生にはないことを感謝します。究極的には永遠のいのりを頂いてあなたの臨在の中に入ることができるのです。問題の真っただ中にあっても、私はあなたに祈ることが出来、神の臨在によって癒されることを感謝します(使徒3:19)。アーメン。
H.K