心配と平安
心配によってあなたは人生の楽しみを奪われることがあります。心配の種はいろいろあります。健康問題、仕事上の問題(あるいは失業問題)、経済問題(借金、未払金など)その他にもいろいろあるでしょう。最も大きな心配の原因として、今日の新約聖書の箇所で取り上げられている問題があるでしょう。それは、人間関係、結婚(あるいは、できないこと)、セックス(あるいは、できないこと)、独身、離婚です。
旧約聖書の箇所である伝道者の書が示唆しているのは、私たちが経験する心配の多くが、もっと深い何かに原因があるということです。それは「無意味さの心配」ということができます。これらすべての只中にあっても、あなたは平和のうちに生きるように召されているのです。
あなたの心配を神に話す
詩篇94:12-23
あなたは最も大きな心煩う体験とはどのようなものか知っていますか(19a)?
詩篇の作者は確かに知っていました。こう記されています。「わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜るからです。…『私の足はよろけています』と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばせてくださいますように。(13a,18-19)」
詩篇の作者は続けます。「しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(22)」
大きな心配に取り囲まれる時、主に立ち返って助けを求めましょう。「私がうろたえて、我を失う時、あなたはわたしを落ち着かせ、元気にしてくださる(19,MSG訳)」神の愛の内に、私たちは解放、慰め、喜びを見出します。「悪がうごめくその中で、静寂の循環(13,MSG訳)」を神は供給してくださるのです。
祈り:主よ。感謝します。あなたはわたしを問題の日に救い出してくださいます。今日、私はあなたのもとに参ります。私の心配をあなたのところに持って行くために…。
あなたの状況で平和に生きる
1コリント7:1-16
あなたは平和な人生を生きていると感じますか?「神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(15c)」あなたはこの「平和」をどのように見つけるでしょうか?この章で、パウロは人間関係、結婚、独身、別離において、どのように平和を見出すのかを提示しています。パウロは質問することから始めます。「性的な関係を持つことは良いことですか?(1,MSG訳)」パウロは答えます。「もちろん。でも、ある限定された状況の中でだけです。(2a,MSG訳)」
パウロは二つの反対の危険性を取り扱っています。それは不道徳に導く「すべてのことは適法だ」という人々(6章参照)と、肉体を全く否定する、超霊的な禁欲主義者です。それに応えて、パウロは数々の疑問に答えます。
- 結婚はご自身の民のための神の一般的な御心なのか?
結婚はすべての男女の標準です。「一人の男性が一人の妻を持つこと、そして一人の女性が一人の夫を持つことは良いことです。(2,MSG訳)」神の人々に対する一般意思は結婚して伴侶を持つこと(創世記2:18)、生殖(創世記1:28)、そして互いを悦ぶこと(1コリント7:1-5)です。独身であることは例外であり、それは特別な召しです。パウロがここで語っているのは、「あまりにも多くの性的不道徳(2,NLT訳)」があったからです。「性的な衝動は強いのです。しかし、結婚は十分に強いのです。性的な無秩序な世界の中にあっても、結婚は性的衝動を内包しながら、バランスと満足を与えるものなのです。(2,MSG訳)」
パウロは自分の思うままに、彼の敵対者を論じています。彼らは不道徳に反対して、セックスも結婚も禁ずることを議論していました。パウロは、積極的な理由と同様に、不道徳に向かう誘惑は結婚するための良い理由だと答えたのです。
- 結婚生活におけるセックスに対するクリスチャンの態度とは何か?
結婚における霊的満たしへの道は禁欲主義を通してではありません。結婚生活の中で性的な自由と性的な平等があります。「結婚におけるベッドは共有の場であらねばなりません。夫は妻の満足を探し求め。妻は夫の満足を探し求めるのです。(3,MSG訳)」もし互いに合意するなら、禁欲主義の理由としては短期間の祈りに専念する場合だけです。そして、それは譲歩であって命令ではありません(5-6)。 - より良いのは独身か結婚か?
パウロはどちらも神からの賜物だと記しています。それらはどちらも良いのです(7-9)。ある意味で、独身であることは最高です(その理由はのちほど述べます)。「時々、私は皆が私のように独身であればよいのにと思います。いろいろな面でよりシンプルな生活が送ることができます。しかし[宗教的な意味での]独身主義がすべての人のためのものでないのは、結婚がすべての人のためでないのと同じです。(7,MSG訳)」しかし、結婚することもまた良いことなのです(9)。 - クリスチャンは、他のクリスチャンから離婚することを求めるべきか?
この箇所の、そして新約聖書の一般原則として、この質問の答えは「いいえ」です。「もし、あなたが結婚しているなら、結婚に留まりなさい…夫は自分の妻を捨てる権利はありません。(10-11,MSG訳)」もちろん、これは非常に複雑な問題です。(私はこの質問に対してさらに詳しく、The Jesus Lifestyle の第6章で取り上げています。) - クリスチャンではない人々との関係についてはどうか?
パウロは、クリスチャンではない相手とのクリスチャンの結婚を励ましてはいません(2コリント6:14-7:1、1コリント7:39)しかしながら、彼らがもうすでに結婚しているなら、それは全く異なります。すでに存在している結婚関係を解消することは求めるべきではありません。パウロの敵対者は、クリスチャンでない誰かと結婚していることが結婚を汚しはしないかと心配していました。パウロの反応は、それとは反対です。「信者でない夫は、ある程度妻のきよさを分かち合うのです。そして、信者でない妻は同じように、夫のきよさに触れるのです。そうでなければ、あなたの子どもたちは疎外されることになります。ところが実際は、彼らもまた神の霊的な目的の内に含まれています。(14,MSG訳)」
もし、クリスチャンでない人が別れると言い張るなら、そして、結婚に固執することが不満と緊張以外の何物ももたらさないのなら、クリスチャンは純潔のゆえではなく、「平和」のために彼らを去らせるべきです(15)。
祈り:主よ。結婚しているかどうかという自分の状態にかかわらず、どのような状態でも私たちは自分自身を見出すことを助けてください。あなたの基準に従って行き、あなたの平和を知ることが出来ますように。
無意味さに代えて目的を見出す
伝道者の書1:1-3:22
「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。(2:22)」この「日の下で」という表現は、この書の中で28回出現します。それは、この人生やこの世界をこえて動かされることのない意味を探究する描写としてよく用いられます。
伝道者の書は一人の人の、意味を探究する思い煩いの物語です。3000年前の作者であるソロモン王の視点から様々な領域を探査します。
ジョイス・マイヤーは記します。「ソロモンは忙しい男でした。彼は自分が挑戦できることはなんでもやれることをしました。しかし、彼の経験の最後は、達成することが出来ず、苦々しい、疲れ切った、失望と欲求不満でした。」伝道者の書は人生についてのこれらの欲求不満を表現しているのです。
ユージン・ピーターソンは「伝道者の書は神についてはあまり語りません。伝道者の書の作者は聖書の他の65巻にそれを委ねました。彼の使命は、私たちが自分たち自身の人生の意味と到達点を見出すには余りにも無力であることをあらわにすることなのです。…それは、私たちが思うままに自分の人生を生きることが出来るというすべての傲慢と期待ををあらわにして拒むことなのです。」
ソロモンは「すべての事は退屈だ。実に退屈だ。誰もそこに何の意味も見出すことができない(1:8,MSG訳)。」ということを見つけました。「一生懸命働く人生からあなたは何を得るのか?朝から晩まで痛みと悲しみだ。夜の休みもきちんととれない。それは消え去る煙のよう。(2:23,MSG訳)」
- 知性至上主義
彼は「知恵」や「知識」を追い求めることから始めました(1:18a)。しかしそれは、「骨折ったいっさいの労苦(18b)」しか導きませんでした。「あなたはもっと知ったら、あなたはもっと傷つく(18b,MSG訳)」知恵と知識を蓄えることは、究極の無意味の不安の原因を論ずることは出来ません。 - 快楽主義
快楽主義とは、快楽こそが善であり、適切な目的なのだとする教えです。「私は自分自身に言おう、『さあやってみよ。快楽を試してみよ。いい時間を過ごそう!』(2:1,MSG訳)」彼は「笑い(2)」で現実逃避をはかろうとしました。彼は飲酒に挑戦しました。「ぶどう酒で元気づけよう(3)」彼は「男女の歌うたい(8)」を集めて音楽に興じました。彼は「多くのそばめを手に入れ(8)」性的な快楽にも挑戦しました。ソロモンは実際に700人の妻と300人のそばめがいました。これらすべてをもってしても満足は得られません。彼は結論付けます。「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(11)」彼は快楽のパラドックス(逆説)を経験します。収穫逓減の法則です。より多くの人々は快楽を追い求めますが、彼らは思ったほど見出せないのです。
- 物質至上主義
物質至上主義は「霊的な価値よりも物質的な所有物を選り好みする傾向」です。彼は様々な「プロジェクト(4)」に挑戦します。彼は財産を獲得します(4-6)。彼は自分のために働く多くの男女を得ます(7)。彼は多くの所有物を得ます(7b)。彼は金銭を求めます。「私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。(8)。彼は大成功をおさめ有名になります(9)。彼は実績とキャリヤを積みます(10b)。しかし、死はこの求めて来たものを「価値なき」ものにしてしまいます(16-18)。
伝道者の書は、新約聖書が答えているところの質問を投げかけます。意味は「日(sun)の下」には見出せないのです。しかし「御子(Son)」の中にあるのです。
祈り:主よ。イエスにあって、無意味さの不安に対する答えを見出すことができますことを感謝します。イエスにあって、私が本当の平和と私の人生の目的を見出すことができたことを感謝します。アーメン。
H.K
References
Eugene Peterson, The Message, ‘Introduction to Ecclesiastes’, (NavPress, 1993), p.882
Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2014) p.1017.