Tokyo Chapel

2019年5月15日

第135日

求めるのはただあなただけ

サンディー・ミラー主教は、数年前、カリフォルニアでのカンファレンスに参加して、力強く働く神の霊の働きを見ました。そして「求めるのはただあなただけ(All I Want Is You)」という本を著しました。カンファレンスが終わって、彼は海岸を散歩していました。「歩いていると、これから起ころうとしていることへの期待感の高まりと神の霊によってワクワクするのを感じました。『主よ。あなたが願っているものは何でもあなたにおささげします。…あなたが私にしてほしいと願っておられることは何でもします。』と彼は言いました。」

サンディーはこう続けます。「正直に言いますが、こんな風に主から聞くのは3度しかありませんでしたが、その時、はっきりと主が私に語られた声を聴きました。主は言われました。『わたしが欲しいのはただあなただけだよ。』…それはもっとも謙遜にされることでした。神はご自身のされたいことは何でもできるお方です。ただ、主はあなただけを求めておられるのです。」


神によって導かれる

詩篇61:1-8

あなたは生活で直面するたくさんの事柄に手いっぱいになったことがありますか?「私の心が衰え果てるとき、 私は地の果てから、あなたに呼ばわります。 (62:2a)」とダビデは言います。

ダビデはリーダー(「王」,6)でした。そして人を導くリーダーは自分自身が神に導かれる者でなければなりません。この祈りは、私たちにも当てはまります。ダビデは、自分の祈りを聞いてくださるように、そして自分を導いてくださるように神に叫び求めました(1-2)。

とりわけ、この祈りは守りのための祈りです。私たちには逃げて隠れてしまいたい時があるものです。神は「すべてのことから逃げる場所(3,MSG訳)」を用意してくださるのです。神は「安全な家(4,MSG訳)」です。神は私たちに岩のような強さをもった目に見える守り(2)、私たちを抱きとめる腕のような感情面での守り(4)そして「恵みとまこと」をもって霊的にあなたを守ってくださいます(7)。

祈り:主よ。私をご自身の臨在のうちに今日私を導いてください。今日、私が下す決断、私が持つ会話、私が話す言葉すべてを導いてください。


イエスによって自由にされる

ヨハネ8:31-59

ネルソン・マンデラは投獄された時に看守から「お前は俺がお前を殺す力があることを知っているか?」と言われた時に、こう答えました。「あなたは私には死から自由にされる力があることを知らないのか?」と。

あなたは本当に自由な人生を生きたいですか?イエスは偉大な解放者です。もしイエスが「あなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(36)」

ヨハネの福音書のこの章は「イエスとは何者なのか?」という問いをめぐる答えです(12-59)。実に、イエスは彼らにこう問われました。「あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。(53)」イエスの答えは、ご自身の父なる神とのユニークな関係を指し示します。それは尋常ではない主張の極みです。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)」これは、燃える柴の所でモーセに神がご自身を啓示されたのとまったく同じように言われたのです(出エジプト3:14)。イエスは神だけが用いることが出来る言い回しを用いたのです。イエスの反対者たちは、イエスが冒涜したと石を手に取りイエスに投げつけようとしました(ヨハネ8:59)。

イエスの父なる神との関係はユニークですが、イエスを通して、あなたもまた神を知ることができます。その関係はあなたの人生に自由をもたらすのです。しかし、この自由とは何を意味するのでしょうか?

イエスは、ご自身を知ることは真理を知ることだと言いました。そして、「真理はあなたがたを自由にします。(32)」と言いました。ユダヤ教において、真理は律法です。そして律法を学ぶことと、律法を遵守することは人々を自由にすることです。イエスは言いました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。(31)」

クリスチャンは時々、「偏狭である」とか「反知性的である」とか言われて攻撃されます。それとは対照的に、攻撃する人たちは自分たちのことを「自由思想家」と呼ぶのですが・・・。イエスは、実は、それとは全く反対のことを言っているのです。イエスに従うことは、知性的な自由とバランスのとれた誠実さへの道なのです。

真理は神によって啓示されます。イエスは「真理(14:6)」です。イエスは究極の神の啓示です。真理を知ることは、命題に同意することについてなのではなく、人格を知ることについてです。真理に生きることは、真理であるお方イエスとの愛の関係に生きることなのです。イエスを知るとあなたの考えが広がります。あなたの洞察力が深まります。そして、あなたの理解の範囲が広がります。

これは、私たちがすべての答えを持つことを意味するのではありません。しかし、真の考え方の枠組みを持つことを意味するのです。科学的な法則は、物理的な領域において研究するための自由を与える枠組みを給するのです。神の啓示は霊的な領域において、探求するための自由を与える枠組みを給するのです。信じることは理解を導きます。

イエスの言葉への応答は「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。(8:33)」というものでした。しかし、イエスはそれに対して「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(34)」と言いました。罪を行うことは私たちが欲望の奴隷となり、力の奴隷となり、依存の奴隷、プライドの奴隷、人が私たちのことをどう考えているかということの奴隷、人を恐れる奴隷となることです。イエス・キリストがいなければ、私たちは皆、罪の奴隷です。しかし、「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(36)」

  1. 罪の責めからの自由
    イエスはあなたを罪責感と恥から自由にしてくださいます。あなたが赦され、あなたの罪責感と恥が取り除かれるためにイエスは死なれたのです。
  2. 習慣からの自由
    イエスはあなたを悪習慣、つまり「罪の奴隷(34)」である状態から自由にしてくださいます。十字架の上で、悪習慣の力は砕かれました。時々、まだ失敗してしまうかもしれませんが、イエスがあなたを自由にした時に、罪への依存の力は砕かれたのです。ある人はイエスのもとに来た時に完全に特定の習慣からの解放を受け取りますが、ある人は長いプロセスを必要とします。
  3. 恐れからの自由
    イエスはあなたを恐れから自由にします。「主もまた同じように、…その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため(ヘブル2:14-15)」に来られたのです。イエスはここで言われました。「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。(ヨハネ8:51)」

    イエスが自由を与えた者にとって死は終わりではありません。むしろ、それは天への入口です。イエスがあなたに死の恐れからの自由を与えた時、主はまた、あなたを他のすべての恐れから潜在的に自由にされたのです。
  4. 神を知る自由
    イエスは神との関係を持つことができる自由を、ご自身同様に私たちに与えてくださいました。イエスは神によって導かれた者の卓越した例であるといえます。イエスはご自身を指して「神から聞いた(40)」と言いました。しかし、また続けてこうも言っています。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)」私たちは皆、神から聴くことができるのです。

    イエスは言われました。「わたしは(この方を)知っています。(55)」イエスはあなたを神を知る者にすることがお出来になるのです。
  5. 自分自身からの自由
    イエスはあなたを、神があなたになって欲しいと意図しておられるような、本当の自分自身になる自由を与えてくださいました。イエスはあなたを知性的に、道徳的に、感情的に自由にしてくださったのです。
  6. 愛することへの自由
    イエスはあなたを愛することへの自由を与えてくださいました。それは罪の自己中心性の反対です。これこそ本当の自由です。「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(36)」

祈り:主よ。あなたが私の人生にもたらしてくださった自由のゆえに感謝します。私はあなたを知ることが出来、あなたの声を聞くことが出来ることを感謝します。


神に対して忠誠を尽くす

士師記20:1-21:25

イスラエルの歴史の中で、この混沌とした時代の説明が士師記において終わりを告げるとき、作者はこう結論します。「イスラエルに王がいなかった時、人々は自分がしたいと思ったことを何でもしたのである。(21:25,MSG訳)」神は彼らに唯一の神への忠誠に基づいた政治の仕組みを与えました。しかし、その忠誠は短期間であり、仕組み全体がバラバラになり始めました。

サムエル記第一を読んでみると、イスラエルに王政がもたらされことには、あまり積極的ではないことが読み解けます。それでも「自分がしたいと思ったことを何でもする」ような混沌とした状態よりはましでした。

混沌の真っただ中でさえ、神の民が、「神に尋ね求める」という瞬間がありました(20:18)。彼らは神に導いてほしいと願いました。神との絶えざるコミュニケーションと相談することに留まるというレッスンは旧約聖書全体に広く見られます。もし、イスラエルがここで間違いを犯したなら、彼らは神に闘いに出て行くべきかどうかを神に尋ねなかったでしょう。彼らはただ、どのように闘いを仕掛ければ良いかだけは神に尋ねました。

私たちはまた、神の民がここでそうであったように、神が計画の背後にいたとしても、あなたは大きな挫折に遭うかもしれないということを学びます。神が勝利を約束していたとしても、計画が進行する途中で犠牲者が出たのです。これが目に見える戦闘において真実であるなら、あなたが面する霊的な戦いにおいても確かに真実でしょう。犠牲が生じたとしても驚いてはなりません。犠牲が出たからと言って、あなたが神に導かれていないというわけではありません。士師記の例がそのことを教えています。何が起こったとしても神に忠誠を尽すことにとどまるべきなのです。

祈り:主よ。あなたにいつも忠誠を尽すことができますように。犠牲にひるむことがありませんように。いつも私の人生の中にあなたのみこころを探し求めることができますように。アーメン。

H.K

References

John Vanier, Finding Peace, (Continuum IPG, 2003) p.24

Sandy Millar, All I Want is You, (London: Alpha International, 2005) p.21