Tokyo Chapel

2019年8月28日

第240日

ただ愛だけ

その刑務所長は大いに印象的で、躍動的で、魅力的な若いアフリカ系アメリカ人で、「チーフ・ジェニファー」という名で知られていました。

私たちの一団が訪問した時、私たちは刑務所を運営している人達と一緒に集められました。チーフ・ジェニファーは「私たちの救い主イエス・キリストの名によってご挨拶申し上げます!」と言って私たちを歓待してくれました。

彼女の話によると、アメリカ合衆国では2500万人が刑務所に収監されており、年間24,000米ドルの税金が投入されています。収監されているたった3%だけが、終生を刑務所で過ごし、現在収監されている97%はある時点で、社会に復帰していくのです。そのような理由で、彼女はこう続けました。彼らが贖いを体験するというクリスチャンとしての彼女自身の願いだけではなく、彼らの人生が変えられるのを見たいという良い世俗の動機があるのです。

刑務所は正義だけでなく、をもって運営されていました。すべての間違った態度や行動は愛をもって向き合うのです。悪い言葉や落書きはなく、尊敬に満ちた振る舞いを学ばせます。私たちは最近アルファをそこで終えた男性のグループから彼らの証しや生活の変化を聞くことに時間を割きました。

神は愛です。そして同時に正義です。ニコラス・ウォルターストーフの「愛の中の正義(Justice in Love)」には正義は愛の観念を形成する適切な要素を必要とすることが指摘されています。


正義と貧しさ

箴言21:5-16

正義と法律の役割のない社会は恐ろしい悪の巣窟となります。悪は飽くことがありません。貧しい人は特に苦しみます。私たちは世界中の多くの社会で正義の欠如の恐ろしい結果を見ています。

法律の規則が機能するところでは二つの恩恵があります。正義が行われると、そこには「正しい者には喜び(15a)」がもたらされます。そしてまた悪人を阻止します。それは「不法を行う者には滅び(15b)」をもたらします。「良い人々は正義が大勝利する時祝宴を設けます。しかし、悪の働き手にとってそれは最悪の日です(15,MSG訳)。」

正義は人々が、特に貧しい者が、保護と安全を感じる社会へと導きます。私たちの祈りが答えられない一つの理由は貧しい者の叫び声が聞こうとしないことなのかもしれません。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。(13)」

祈り:主よ。私たちの世界の正義のために祈ります。私は不正が支配している世界の地域に正義をもたらそうと追い求める人々のために祈ります。


正義と赦し

2コリント1:23-2:11

私たちの多くは面と向かうことを避ける傾向があります。私も難しいことだと思います。それは拒絶されたり、人気がなくなることへの恐れだけではありません。それはまた、怒りや恨みの火に油を注ぐことで事態が悪化するかもしれないという恐れでもあります。

ある人々は面と向かうことを積極的に楽しんでいるように見えます。もし私たちが直面することを楽しみに待つなら、もし私たちがそれが他の人々の、修正し批判するという権利を認めることに容易になれたら、私たちは必ずしも愛するふりを演じなくてもよいのです。

パウロはコリントの人々を深く愛していました。しかし、パウロは直面することが逃げようとはしませんでした。たとえ、「大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに(2:4)」手紙を書く結果になろうとも、パウロの愛が面と向かうことへと導いたのです。「私は、私の痛みのゆえに書き送っているのではありません。私が書き送ることで、あなたがどれほど私が心配しているかを知ることになるでしょう。…いいえ、心配どころではありません。…あなたがたを愛しているのです(4,MSG訳)」

真理をもって人々に直面することはとても辛いことかもしれません。外科手術のように真理は傷をつけますが、治療もします。このような手術は愛をもって行われるべきです。私たちは正確にはここでパウロが誰の何のことを言っているのかを知ることはできません。しかしながら、それはたぶん、パウロがコリント第一の手紙5:1-5で公然と責めた(父親の妻と同棲している)男かもしれません。

パウロは彼を教会から追放してしまえと主張していました。しかしながら、今、パウロはこの男に罰を受けさせるだけで充分であると言っています。パウロは、彼らに赦し、彼を慰めることを、そして彼への彼らの愛を再確認することを勧めています(2コリント2:7-8)。

パウロは非常に速やかに赦しました。「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。(10)」パウロは赦した時、何か赦したことがあったかどうかを思い出すのが難しいほどに、パウロは「忘れた」のです。

クララ・バートンはアメリカ赤十字社の創設者です。彼女はかつて、何年も前のこと、辛い傷つけられる出来事があったことを友人から思い出させられました。クララはその出来事を思い出すことができないようでした。

「あなたは、あんなにひどいことが起こったのに忘れたというの?」と友人は思い出させようと尋ねました。

「いいえ」クララはもの静かに答えました。「私はそれをはっきりと忘れることにしたことを思い出したわ。」

赦しとはキリスト教会に絶対的な命を与えます。赦しの欠如は悪魔が入り込む隙を作ることになります。それは悪魔が忍び込む扉です。赦しは悪魔を追い出します。「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。(11)」

祈り:主よ。悪魔の策略を見抜くことができますように。直ぐに赦すことができますように。そしてお互いに愛し合い、教会から悪魔を追い出すことができますように。


正義と直面

2歴代誌31:2-33:20

神ご自身は直面することを恐れたりしません!この箇所で私たちはいかに神がご自身の愛のうちに二つのことに直面なさるかを見ます。二つのこととは、基本的に良いリーダーが高慢になってしまうことと悪いリーダーが悔い改めることができることです。

良い王についてのことを読むことは気が楽です。ヒゼキヤは神殿を修復しました。彼はたとえば、自分自身の持ち物から寄付することによって導きました(31:3)。人々は気前よく応答しました(5)。主は彼らを祝福し、余りあるほどの大量の食事を食べました(10)。

「(ヒゼキヤが)取り組んだすべてのこと…彼は祈りに満ちた礼拝の精神をもってうまくやった。彼は大いなる成功を収めた(20-21,MSG訳)。彼は「模範的な競技記録(32;1,MSG訳)」を残しました。

これはすべて、攻撃のもとに置かれることからヒゼキヤが救われたというわけではありません。しかし、セナケリブの攻撃を受けた時、ヒゼキヤは人々を鼓舞しました。「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。(32:7-8)」

私たち自身の生活で、時々、私たちは圧倒されるように思える問題に直面することがあります。例えば、イギリスのクリスチャンは、神の敵対勢力である世俗主義の大軍と対面している弱小軍のように見えます。しかし、良き知らせは私たちにはもっと大きな力が与えられているということです。そして彼らにあるのは「肉の力」でしかないということです。私たちに伴っているのは、主なる私たちの神が「私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる(8)」ことなのです。

成功は往々にして高ぶりに導く危険性があります。人々はリーダーたちを見上げます。実際、私たちはリーダーたちを称えるものです。しかし、すべてのリーダーはこの称賛が危険であることを認識する必要があります。もし、高ぶりが侵入してきたら、即座に悔い改めて謙遜になりましょう。

ヒゼキヤはすぐに成功し、傲慢が侵入してきました。神が彼に面してくださったとき、感謝なことに「その心の高ぶりを捨ててへりくだり(26)」神は再び彼を祝福し大いなる繁栄と栄誉を与えました(27)。こうして、ヒゼキヤはそのすべての仕事をみごとに成し遂げた(30)のです。

それで、不可思議なことに、「神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。(31)」のです。それは魂の真っ暗な夜です。

神の臨在が感じられない時があったとしてもがっかりしてはなりません。時々、神は沈黙し、僅かにしか感じられません。神があなたの心を試された時、忠実であり続けなさい。ヒゼキヤは良い心を持っていました。彼の人生は献身的な行為に溢れていました(32)。そして彼が死んだ時、彼は名誉を受けました(33)。

彼の息子の生涯は、彼自身の生涯の完全な裏返しのように見えます。マナセは主の目の前に悪を行ったのです(33:2)。実際、マナセほど悪の限りを尽くした者は見つけることが難しいでしょう。「また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。(6)」

しかし、贖われない人はいません。私たちがどれほど堕落してもそれは問題ではありません。もし、マナセのように、私たちが悔い改め、神に立ち返るなら、私たちは赦しを手に入れることが出来るのです。

神はマナセに直面しました。「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。(12-13)」

これは、私が刑務所を訪問ことを愛するかという理由の一つです。贖われない人はだれもいません。イエスはご自身の十字架の死を通して、これを可能にしてくださったのです。ジョン・エディソンの言葉にあります。「愛と正義は手を繋ぐ。真理とあわれみは出会う。」

祈り:主よ。十字架の上に、私たちがあなたの愛と義の両方を見ることができますことを感謝します。あなたは私の上にあわれみをかけてくださいました。私があなたの愛を見せ、あなたの義をもたらすことができますように。イエスの聖名によってアーメン。

H.K

References

John Eddison (1916–2011), ‘At the Cross of Jesus’.

The Clara Barton illustration is taken from John C Maxwell, Developing the Leader Within You, (Thomas Nelson Publishing, 2012) p.105.