2019年7月4日
第184日
反対は機会に転じる
ステファン・ラングは私の家に訪れ、話を聞かせてくれました。彼はジンバブエの行政区から来た当時十代の母の長男として生まれました。母親は20歳以上も年上の男との難しい結婚生活に逃げ場を失っていました。彼女は酒に溺れる生活にはまってしまいました。
ある日、ステファンが3歳の時に、母親は彼と、彼の弟とまだ生まれたばかりの妹を連れて町にやって来ました。彼女はトイレに行ってくると言い残して、人通りの多い町の広場に、ステファンに妹を抱かせて行ってしまいました。その時弟は地面で遊んでいました。二時間経っても母は帰って来ませんでした。母親は行方不明となり、三人の子どもたちは嫌々世話をする叔母のもとに残されました。11歳の時、ステファンもまた逃げ出しました。それは路上生活をすることを意味しました。
成長したステファンには神に対する強い苦々しさが育っていました。十代の頃、彼はブラック・シャドーズと呼ばれるギャングの一味となりました。彼らはジンバブエの路上で暴力と盗みと破壊の限りをつくしていました。
巡回伝道者が巨大なテントでイエスについて何千人もの人々に話すために町にやって来た時、ステファンは爆弾を抱えて会場に向かいました。彼はカバンに爆弾を詰め込んで運んだのです。彼は神を攻撃したくてその集会を攻撃しようとしたのです。攻撃の機会を今かとステファンが待っていた時、南アフリカの伝道者シャデラク・マロカは講壇の上から、まもなく聴衆の多くがキリストを信じることなく死ぬことになると聖霊が警告していると告げました。驚いて、ブラック・シャドーズは誰かが計画を漏らしたのかと思いました。ステファン・ラングは説教者に釘づけになりました。
今日の箇所のそれぞれには、あらゆる種類の攻撃が描かれており、神がどのようにして反対を機会に転じたかを見ることができます。
神の臨在
詩篇80:1-7
人生においてあなたが反対や攻撃などの困難に遭遇するとき、神がともにおられ、あなたに向けられたご自身の顔が微笑んでいることを知ること、つまり神の臨在の感覚ほど心強いものはありません。
詩篇の作者は隣人や敵から嘲り、卑しめられていました。「あなたは、私たちを隣人らの争いの的とし、私たちの敵は敵で、私たちをあざけっています。(80:6)」これらの攻撃は多くの悲しみの原因となり「日々涙を飲む(5,MSG訳)」ことになりました。「あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました(5)。」
どんなに困難な状況に置かれたとしても、神はその状況も新たな機会をもたらすために用いて下さいます。この詩篇の祈りを用いて、神に叫び求めましょう。
祈り:「万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(3、7)」
神の守り
使徒23:12-35
グスタフ・フローベールはかつて「男の価値は敵の数の多さで計られる。そして、芸術作品の重要性はその攻撃の多さによって計られる。」と記しました。聖書の中の人々や今日の教会が戦いに面している理由は、その働きが重要だからです。攻撃に晒されるということは聖書の中では珍しくない出来事です。また、あらゆるクリスチャンの生活の出来事においても同じです。時々、あなたは比較的安楽な時期を過ごすこともあります。しかし、さらなる攻撃が起こることはほとんど避けることができません。
あなたがどんな攻撃に晒されても、神は掌握しておられます。昨日の箇所の終わりに私たちが見たように、主はパウロに現れて言いました。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない(11)」
パウロはローマ法のもとで告訴されたのではなかったにもかかわらず。拘留されていました。パウロの敵は暗殺の計画を立てました(12)。それは、暴力を伴ってしばしば起こることですが、嘘と欺きによって計画されました(15)。
実際、パウロへの攻撃の性質はすべて回りくどいものでした。隊長クラウディオ・ルシア自身が真実を明らかにしていません(26-30)。彼は総督ペリクスへの手紙に、自分自身が違法にパウロを拘束し何の有罪判決も下されていないローマ市民をむち打ったことについては一言もふれていません。
今、物語に入ろうとする時、「ところが」という小さな言葉は力強いものです。神は、ご自身の摂理によって、パウロを守りました。「ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営に入ってパウロにそれを知らせた。(16)」パウロの甥が策略をパウロに知らせ、パウロは甥を千人隊長に会わせる手筈を整え、千人隊長がパウロの旅程を保護するように手配したのです。それは神のパウロへの守りでした。
神はパウロの甥、パウロ自身の機転、ローマの千人隊長という組み合わせを用いたように思えます。神の摂理と守りは時々、クリスチャンではない人々を通してももたらされることがあるのです。
パウロは千人隊長からの説明の手紙によって安全に裁判に向かうことになりました。神はパウロを完全に救い出すというステップを取りませんでした。彼は未だに捕らわれの身であったのです。神は彼を守り、彼を自分自身で認識している状況の中で用いました。神の目的はパウロをエルサレムからローマへ行かせて証しさせることだったのです。それは確実に為されました。まさしく反対が機会と転じたのです。
祈り:主よ。あなたはご自身の目的のために、どのような状況の中にあっても人々を立ち上がらせることがお出来になりますことを感謝します。あなたの御国の進展のためにあなたがパウロを用いたように、主よ、私は今日あなたが私を用いてくださるように祈ります。御国を来たらせ給え。御心を為させ給え。
神の平和
2列王8:16-9:37
すべての人は心の深みにおいて平和を切望しています。私たちは神の民の目を覆うような歴史の中にもその願いを見ることが出来ます。ユダの王、ヨラムは、主の目の前に悪を行ないました(8:18)。ヨラムの死後、アハズヤが王になりますが、彼も、主の目の前に悪を行ないました(8:27)。
そのような時代にかすかな希望がありました。エリシャはヨシャパテの子エフーに油を注ぎました(9:1-3)。若い者は油をエフーの頭にそそいで言いました。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。(6)」興味深いことに、エフーの家来たちは預言者の若い者を「気の狂った者(11)」とみなしましたが、その後、エフー自身が「気が狂ったように」車を御して突進しました(20)。
エフーは指示されたことを実行に移した時、ヨラムは使いを遣わし「平和のうちに来たのか?(17,19,22,NIV訳)」と3度尋ねます。エフーは「何が元気か。(何が平和かだ:NIV訳)あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行われているかぎり。(22)」と答えました。イゼベルもまた同じように「あなたは平和に内に来たのか?」と尋ねます(31)。しかし、答えは「ノー」でした。イゼベルは凄惨な死に方をし、それはエリヤが預言した通りでした(1列王21:23)。
そこには悪しき、死と分裂の日々がありました。エフーはイゼベルの呪術がイスラエルに続く限りそこには平和がないと宣言しました。エフーの宣言は私たちに本当の平和はただ神の中にだけ見出すことができるということを思いに刻みます。これらの箇所の騒動は、救いと平和をもたらすためにはイエスを必要とすることを私たちに鮮やかに記憶させるのです。
イエスは言いました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。(ヨハネ14:27)」初代教会は「イエス・キリストによって、平和を宣べ伝え(使徒10:36)」ました。聖パウロは記します。「…私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)」「御霊による思いは、いのちと平安です。(8:6)」パウロは多くの手紙を「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」という挨拶で書き始めます。(1コリント1:3、2コリント1:2、ガラテヤ1:3など)
ステファン・ラングの話に戻ると、説教者の言葉は、彼の罪に思い至らせ、イエスとの出会いへと導きました。彼は神の臨在を体験しました。彼は神の恵みと平和について聞いたのです。
ステファン・ラングはよろめきながら講壇の方に進み出て、説教者の足をつかみました。そしてすすり泣き始めたのです。その夜。彼はイエスに従う者になりました。
翌朝、彼は地元の警察署に自首し、犯罪を告白しました。内勤の巡査部長は長い事件簿を眺めながら、彼の話を聞き、そして彼を釈放しました。朝の出勤者たちとバスに乗り、ステファンは乗客たちに良き知らせを伝えるほどに幸せな気持ちでした。それ以来、彼はイエスについて人々に告げ知らせています。
ステファンは、今はアフリカで多くの集会で語るフルタイムの伝道者となりました。数年前のある集会で、一人の年老いた女性がイエスに従いたいと前に進み出てきました。その女性は何十年も前に彼を捨てた実の母親であることが分かったのです!
神の臨在、守り、平和は力強い組み合わせです。ステファンは次のように言う通りです。「私は神の恵みの奇跡として自分自身を見たので、私は罪びとを救うイエスキリストの力が今も存在すると信じます。もし、主が私を変えることがお出来になるなら、主は誰でも変えることがお出来になるでしょう。」
攻撃のさなかに、それが、隣人からもののでも、敵や権威者からのものであっても、あなたは神が物事や歴史を掌握しておられ、反対を機会に転ずることを知り、平和を得ることができるのです。
祈り:主よ。今日、私は感謝とともにあなたに願い求めます。人のすべての考えにまさる神の平安が、私の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるように祈ります。(ピリピ4:6-7)
H.K
References
Gustave Flaubert, Letter to Louise Colet, 14 June 1853
Stephen Lungu, Out of the Black Shadows: The Amazing Transformation of Stephen Lungu, (Monarch Books, 2006).