Tokyo Chapel

2018年2月19日

第50日

神は私を愛している

ウェールズの高地にある原野で、二人の聖職者が聴力が弱く、文字を書くことができない若い羊飼いの少年に出会いました。彼らは、イエスが彼の羊飼いになることを願っているのだということを説明しました。イエスはいつもこの羊飼いの少年が羊の世話をするように、彼をいつもお世話してくださるのだということを説明したのです。彼らは繰り返して少年に「主は私の羊飼い(The Lord is my shepherd 詩篇23:1)」という言葉を、少年の右手の親指と他の指を使って覚える助けをしました。まず、親指から始めて、順番に指を折りながら、一つ一つの単語に対応させたのです。彼らが4番目の単語である「私の(my)」の前には少し間を空けて、「この詩篇は私のため」であることを覚えさせたのです。

何年か経って、聖職者の一人が同じ村を通りがかった時に、あの羊飼いの少年について尋ねました。ある年の冬に猛烈な吹雪が襲い、少年は丘の上で雪の吹きだまりに埋まって死んでしまったのでした。そのことを話した村人はこのように告げました。「私らには分からないことが一つあるんですよ。少年の遺体が見つかったとき、あの子は右手の4つ目の指をしっかりと握っていたんですよ。」

このお話は、神の私たち一人ひとりへの人格的な愛の性質を言い表しています。

現代の多くの人々が神を(もし神の存在のすべてを信じておれば)何か偉大な人格を持たない力のように考えます。しかしながら、聖書の神はとても異なります。神の私たちとの関わりはとても人格的です。聖パウロは「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(ガラテヤ2:20)」と書きました。イエスは「の神(ピリピ4:19)」です。神は私を愛しています。


1.わが羊飼い

詩篇23:1-6

羊飼いが羊を世話するように、神は私たちを世話してくださいます。私は霊的に本当に疲れ切ってしまう時があります。私は「魂を生き返らせ(3a)」られる体験を本当にありがたく思います。私は人生の岐路で導きを求める必要があった状況についてたくさん紹介してきました。そして、その度に「御名のために、私を義の道に(3b)」導かれた幸いを覚えます。神はあなたの人生に目的を与えておられます。あなたのために備えられた正しい道に導いていただきましょう。主がともにおられるので、あなたは恐れる必要がないのです。(4)


2.わが主人

場面は変わって、羊と羊飼いから客をもてなす主人のモチーフです。これは素晴らしい光景です。たとえ四面楚歌の状況でも、神はあなたとともにおられ、ひとりぼっちではないのです。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、(5a)」あなたの心の空腹感を宴をもって満たしてくださるのです。主の招きに応えましょう。そして、神の臨在のうちにあなたの魂を養うことに時間を費やしましょう。

私たちは皆、いろいろな段階にあります。「死の陰の谷を歩くこと(4)」、自分自身が死に面したり、私たちが愛する人の死に面したりすることがあります。そうであっても心配する必要はありません。なぜなら主がともにおられるからです
(4)

私はしばしばこの詩篇を重病の方や、死に瀕している方にお読みします。どんな時でも主が近くにおられることを知るのはどんなに偉大な安心をもたらすことでしょう。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。私の杯は、あふれています。(6)」

祈り:主よ。あなたが導いてくださる道があります。そして私を守ってくださいます。今日、私は霊的な渇きをもったままであなたのもとに行くことができます。そして、渇きはなあなたの臨在とあなたの愛で満たされます。


3.わが主

マルコ4:30-5:20

あなたは今までに、突然何の前触れもなく、あなたの人生が台風のような嵐に打たれたような状況に陥ったことがありましたか(4:37)?

ガリラヤ湖は突風が吹くことで知られていました。弟子たちは、どのような高さの波が舟をひっくり返し命を脅かすものであるかを知っていました。

しかし、イエスは眠っていました(38)。時々、嵐が来るとき、まるで神が何もしてくれないように思えることがあります。神があなたの祈りに何もお答えにならないどころか、聞いてくださりさえしていないように思えることがあります。このような時は、あなたの信仰が試されているときです。

最後には、イエスは嵐を静めました。イエスは嵐の背後にある力に対して、まるで誰かが子犬に向かっていうように「黙れ、静まれ(39)」と命じました。そしてご自身が自然を上回る主であることをお見せになったのです。弟子たちには、この箇所は恐れで始まり、信仰で終わっています。危機はあなたの信仰をテストします。イエスはあなたにたとえ人生の嵐の中であったとしても恐れを克服し、主を信頼することを願っておられます。

次に、イエスは、私たちの人生を破壊しようとする力以上の主であることを示しました。ともかく、悪霊に憑かれた男(レギオンと呼ばれていた,5:9)は最後にはひどい場所に住んで、自分を傷つけていました(5)。そして解決は縛ることしかないということで人々によって鎖につながれていました(4)。それが彼らにできるすべてでした。政治家や国家の力も、警察の力も限界があります。イエスはこの男を裁いたり、非難したりしませんでした。むしろ、彼が全人的に生きることができる潜在的な力を見ていました。イエスは権威ある命令をなし、ご自身の主であることを明らかに示しました。その力は私たちにも向けられ、自由と癒しを私たちも受けるのです。

イエスの主であることに対して、人々には二つの相違する反応がありました。第一番目は敵意です(17)。商業的関心からすればこれは損害でした。私たちが本当の力が用いられるのを見るとき、それはむしろ居心地の悪いものになり得ます。もう一方で、関心をもつ人々もいました(20)。

このお話の面白い側面の一つは、イエスが悪霊に憑かれた男を解放した後、この男は一緒にイエスについて行きたいと願ったのですが(18)、イエスはそうさせませんでした(19)。

この男はイエスにつき従って恩恵にあずかりたいと願ったのかもしれません。しかし、イエスはすぐに伝道の業に彼を就かせました。イエスは言いました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。(19)」そして、彼はその通りにしました(20)。

最近信仰をもった人々を過度に守りすぎてはなりません。時に、彼らが大胆に彼らが持った新しい信仰を公に語ることは良い事です。その後、イエスが再びデカポリスを訪れた際に4000人もの群衆が集まりました。この男の与えたインパクトの大きさを思わせます。

マルコがからし種のたとえの後に短い物語を配置したのはこれが理由でしょう。悪霊に憑かれた男はあまり大きな影響力をもっていないと思いましたが、彼の人生には莫大なインパクトがあったのです。イエスは、神は小さな種からでも大きなことをすることができると言ったのです。「からし種(4:31)」は「蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きく(32)」なるのです。

問題はあなたがどれくらい持っているかではありません。あなたが持っているものが何かということです。からし種は地面にそのまま埋められる必要があります。もし植えられたなら、成長はとても力強く、コンクリートさえ打ち砕きます。レッスンは単純です。それを使うか、失うかです。あなたの持っているものを使い、神がそれを何倍にもしてくださるのです。

祈り:あなたがすべてのものの主であることを感謝します。私はあなたを危機の時に信頼します。もう心配は必要ありません。


4.わが導き手

出エジプト25:1-26:37

寛大に生きるということは、その人の意思にかかっています。もし、神に対して熱く生きようとするなら、主の御名の栄光のために気前よく生きることを意思します。神の民は、神の働きのための必要を「心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない(25:2b)」と教えました。彼らは「心から進んで(2b)」ささげました。神の愛はあなたを強制しません。神はあなたの心からの自由な応答として生きることを願っておられます。

「幕屋(会見の天幕)」とは、神と神の民が仮に会うための集会所です。神学的には「この地に神が住む場所としての幕屋」は重要な意味合いがあります。それは一連の神がすむ場所の系列の一番最初です。つまり、幕屋、神殿、イエスご自身、信じる一人ひとり、教会です。

神は幕屋の詳細な設計図を与え、そのよう作るように教えてくださいました「わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない(25:9)。」主は小さな詳細な部分でさえ私たちを導く羊飼いなのです。


5.わが救い主

ヘブル書の著者は、今日の箇所の幕屋(出エジプト25:10-26:37)のことを「天にあるものの写しと影(ヘブル8:5)」と呼びました。これがモーセが幕屋を作るときに注意した理由です。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。(ヘブル8:5-6)」

聖所と至聖所のためのすべての説明はキリストの救いの御業のための準備でした。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(9:11-12)」

イエスの贖いのいけにえを通して、あなたも私も至聖所に入ることができます。イエスは私の救い主です。

祈り:主よ。あなたが私の羊飼いであることを感謝します。私の主人、私の主、私の導き手、そして私の救い主です。あなたが私を愛して下さったことを感謝します。アーメン。

H.K