2019年6月15日
第166日
あなたが神を理解できない時
昨日、ジョン・ニュートンの生涯を見ましたが、彼は、ウィリアム・クーパーという人(1731-1800)の助言者でした。クーパーは悲劇を経験していました。彼の母親は彼が6歳の時に亡くなりました。父親もまだ彼が若いうちに亡くなりました。彼は法曹界に進み、外面的には成功を収めますが、重い鬱を患いました。英国国会下院の記録係の仕事に応募しましたが、口答試験に恐れをなし、自殺未遂を起こしました。その後の人生は精神疾患からの苦難に見舞われました。
彼が三十代の時、ジョン・ニュートンはクーパーに讃美歌を作ることを勧めました。彼は日々の生活の喜びや悲しみを力強く書きました。1774年、彼は重い精神疾患を発症し、メアリー・アンウィンとの結婚をあきらめざるを得ませんでした。彼は落胆しました。その後すぐに、多分彼の最も有名な讃美歌を書きました。
神は、不思議な方法で動く God moves in a mysterious way
神は、不思議を行う His wonders to perform
神は良いお方です。神は愛です。神はあなたを愛しています。神はイエスにあって最もご自身を啓示されます。これが私たちが知っているすべてです。それで、あなたの神理解に適合しているように思えない聖書の中の箇所を、あなたは読むのです。あなたは同様に、適合していないように見える生活を経験しているかもしれません。
あなたは神を箱の中に閉じ込めることはできません。神はあなたが今まで想像できたものよりももっと大きなお方なのです。聖書のある箇所は不可思議です。イエスは、ある時、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。(ヨハネ13:7)」と言いました。ある時、私たちがこの地上に生きている間に分かる時が来るかもしれません。あることは主とお会いする時に分かるものもあるでしょう。
あなたが神を理解できない時、どのように応答すべきなのでしょうか?
神の前に正直になる
詩篇74:1-9
あなたに起こったある事柄がなぜなのか単純に理解できない時があなたの人生に起こったことがありますか?神があなたを拒絶しているように感じますか?もしそうなら、あなたの経験は神の民の歴史の中でよくあることです。この詩篇はこの質問で始まっています。「神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。(1)」
あたかも神が沈黙し、私たちの願いを聞いておられる手応えがない時があります。詩篇の作者が「目には神のしるしも兆しも見えないことがある。誰も主の御名で語らず、何が起ころうとしているのか誰も知らないことがある。(9,MSG訳)」と言うように。
あなたがこのような時を通る時、あなたは「いつまでそうなのか」を決して知ることがありません(9)。あなたはただ、自分の人生の中でなぜこのようなことが起こったのだろうと思うのみです。あるいは、神が遠くに行ってしまったように感じるかもしれません。十字架の聖ヨハネ(1542-1591)はそのような時を指して「魂の暗夜」と呼びました。
このような時、どうすべきなのでしょうか?
- 尋ね求める
詩篇の作者は、回りくどいことを言わず、神に心を注いで、率直に神に難しい質問を尋ね求めました。「あなたは立ち去り、私たちを置き去りにし、振り返ろうともしません。神よ。どうしてそのようなことができるのですか?私たちはまさにご自身の羊です。あなたはどうして怒りの内に足を踏み鳴らして歩き去ることができるのですか(1,MSG訳)。」 - 助けを求める
「どうか思い起こしてください。(2)」「永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。(3)」
このような経験や気分になった時、あなたは一人ぼっちではありません。詩篇の大きな祝福の一つは、理不尽な苦難を味わう時、同じような気持ちになるのはあなただけではないのだと慰めを与えてくれることです。そして、あなたの心の中で反芻しながら祈ることができることです。
祈り:主よ。私が理解できないことが起こった時でさえ、あなたに正直に祈り、私の心を注ぎだすことができますことを感謝します。
神に対してオープンになる
使徒9:32-10:23
イエスは弟子たちに病人を癒し、死人をよみがえらせ、福音を宣べ伝えるように命じられました。初代教会の人々はその言葉を忠実に受けとめ行いました。彼らは起こる出来事に驚嘆したに違いありません。そして彼らは主の導きを開いて行ったのです。
- 癒しの不可思議
彼らは神の人知を超えた力強い働きを見続けました。ペテロは8年も中風で立つことのできなかった男に言いました。「イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。(9:34)」すると彼はただちに立ち上がったのです。「皆は、…神が生きておられて、彼らの中に働かれるという事実に目覚めました(35,MSG訳)。」
しかし、すべての人が癒されるわけではないのも事実です。なぜそうなのか私たちには分かりません。時々、私たちがこんなにも祈った人が神に癒されなかった時にそれがなぜだかを理解することは実際とても難しい時があります。それは不思議です。 - 死人をよみがえらせた不可思議
次に、ペテロは死人をよみがえらせました。死んだ人がよみがえるという記事は聖書の中には稀です。旧約聖書では、一度はエリヤ、一度はエリシャによって、2度起こったことが記されています。イエスは三度、パウロは一度、そしてここでペテロはドルカスという女性を死からよみがえらせました。死人をよみがえらせるように命じられている箇所はたったの一度だけです(マタイ10:8)。
ほぼ全ての場合、死からよみがえったのは若者でした。誰一人として永遠に生きた人はいません。しかし、彼らの命が早々に切り上げられはしませんでした。非常に稀に、神はこのようにして介入なさいます。私たちはその理由はわかりません。それは奥義です。
ここで、神は介入されました。「多くの良いわざと施しをしていた(使徒9:36)」ドルカスが病気になり死んだのです。ペテロはひざまずいて祈りました。彼女は目を開け、起き上がり、ペテロは手を貸して彼女を立たせたのです。その結果、「多くの人々が主を信じた(42)」のです。 - 福音の不可思議
使徒パウロは後にこう説明しています。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。(エペソ3:6)」
使徒の働きのこの時点までは、イエスに従う者たちは皆ユダヤ人でした。実際、彼らはユダヤ人以外の人がクリスチャンになることが可能だとは思ってもいなかったのです。しかし、神は彼らを驚かせました。神はペテロに幻を見せました。夢見心地になって、彼は天が開かれ、「きよくない物や汚れた物」である獣や鳥をほふって食べなさいという声をきいたのです。ペテロの答えは「主よ。それはできません。(使徒10:14)」でした。
幻と神の御声は一緒に来ました。ペテロはきよい食べ物ときよくない食べ物を区別してはならないとチャレンジを受けました(13-15)。しかしながら、この幻はきよい民ときよくない民を、すなわち、ユダヤ人と非ユダヤ人を区別すべきではないという意味であるとペテロはまた認識しました。明日読む箇所に、私たちはペテロが「どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。(28)」と言っているのを読むことになります。
しかし、夢から覚めた時は、まだ意味が分かりませんでした。「ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう(17)」と思い惑っていました。ペテロは神が為そうとしておられることを認識できなかったのです。しばらくして彼は理解しました。神は彼らが考えていた以上に大きな計画を持っておられたのです。イエスの良き知らせはユダヤ人にだけ制限されるものではなく、世界中のすべての人々のためだったのです。感謝なことに、幻を通しても、また「聖霊が彼にささやいた(19,MSG訳)」時でさえ、ペテロは神の導きに心閉ざさずよく反応してくれたのです。
祈り:主よ。たとえ、私たちがこの人生の中で不可思議に思い、理解できなくても、私たちはあなたを、そして、あなたはいつも理由をお持ちであることを信頼することができますことを感謝します。
神に当惑する
2サムエル23:8-24:25
この箇所は聖書すべての中でも最も不可思議な箇所の一つです。すべてがうまくいっているように見えました。ダビデの周りには優れた人々が取り巻いていました。ダビデは30人の中でも特に三人の有能な家臣によって大きな助けと支えを得ていました。
しかし、悲惨なことが起こりました。誰がダビデに人口を数えさせようとしたのでしょうか?この箇所では、それは神のように見えます。しかし、歴代志では「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(1歴代21:1)」とサタンが駆り立てたように記述されています。これは旧約聖書の中でサタンについて言及されているたった三か所の内の一つです。
「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。(2サムエル24:10)」とありますから、どうやらダビデも数えることが間違っていると考えていたようです。ダビデは言いました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。(10)」
預言者ガドの言葉によって語られたいくつかの選択肢の内、にダビデは人の手ではなく「主の手に陥る(14)」ことを選びます。疫病により七万人が死に至るとダビデは「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。(17)」と言って、主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげたのです(25)。
これらの一連の出来事が意味することは不可解です。しかし、希望と関係の刷新が告げられてこの箇所は閉じられています。
祈り:主よ。混乱と不確実性のただなかにあるときでさえあなたを信頼することができるように助けてください。やがて、あなたの知恵がすべて啓示される日がくることを感謝します。あなたは良いお方であり、あなたの愛が尽きることがないことを感謝します。アーメン。
H.K
References
St John of the Cross (Mirabai Starr Tr.), The Dark Night of the Soul (Riverhead Books, 2003).