Tokyo Chapel

2019年12月17日

第351日

聖書を読み理解する方法

聖書を読み理解しようとする時、あなたには三つの助けがあります。第一にあなたの内におられる聖霊です(1コリント2:2-16)。第二にあなたは教会の助けを持っています。聖霊だけが私に語ってくださるという考えは傲慢です。神は歴史の中で語っておられ、続けてご自身の民に語っておられます。パウロは「すべての聖徒とともに、…理解する力を持つようになり(エペソ3:18)」と言いました。第三に、あなたは理性という恩寵を持っています。つまりあなたの思考です。パウロは「それぞれ自分の[思考,NIV訳]の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:5)」と励ましています。

聖書を解釈するにあたって、あなたが問うべき3つの主な質問があります。

  1. 実際にそれは何を言っているのか?
    旧約聖書はヘブル語(一部アラム語)で、そして新約聖書はギリシャ語で書かれています。しかし、あなたは最新の翻訳を信憑性があるものと信頼することができるのです。
  2. それは何を意味するのか?
    この質問に答えるために、あなたは「それはどのようなジャンルの書物なのか?」と問わねばなりません。 それは歴史書ですか?詩歌?預言書?黙示文学?律法?知恵?福音書?今日の箇所はそれぞれ種類の異なる文学様式です。(詩歌、黙示文学、歴史書)それゆえ、私たちはそれぞれ異なる読み方をするのです。

    次に、それが最初に書いた人にとって、そして最初にそれを読んだ人にとって何を意味したかを問います。そしてこう尋ねます。「私たちの理解を変更しなければならないことがないだろうか?」例えば、イエスの到来は私たちの旧約聖書の箇所の理解に変化を与えただろうか?究極的には聖書はイエスがすべてです(ヨハネ5:39-40)。
  3. どのようにこれを私の人生に適用できるのか?
    単なる頭の体操で終わってしまうことを避けるために、あなたの日々の生活にどのように適用すれば良いのかを考えるべきです。

神と共に現実を生きる(詩歌)

詩篇144:9-15

神は私たちにご自身との現実を生きて欲しいと願っておられます。詩篇は礼儀正しい言葉を用いた素敵な人々の祈りなのではありません。それらはしばしば生々しく、粗野で、荒々しいものです。それらは正直で真実な人格的な神への応答です。

詩篇は詩歌の言語を用いて書かれています。ロバート・バーンズが書いた詩には「私の愛は赤い、赤いバラのようだ。」とありますが、彼はそれを字義的に書いたのではありません。

神学の言語には、なぞらえた言い回しがたくさんあります。二つの事が比較される時、それはあらゆる点が言葉通りというわけではありません。

たとえば:

「私たちの息子らが、最盛期に、
たくましいナラの木のようになりますように。
私たちの娘らが、野の花々のように
格好よく、鮮やかになりますように。」(12,MSG訳)

詩篇の作者はまさに人間的な情操を盛り込んで表現します。たとえば、今日の私たちの箇所で、詩篇の作者は「私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。(11)」と書きます。

すべての外国人が嘘つきで偽りを言う者であるというのは明らかに正しくありません。しかし、詩篇は時々、神への怒りや他者への執念深さを表現します。それはそのような感情が正しいと言っているわけではありません。しかし、それらは率直な応答であり、私たちの生活の中で私たちにもその多くは実感するものです。

ダビデは戦争の真っただ中で、外国の都市から定期的攻撃を受けていました。武力衝突は彼にとって日常的な事実でした。そして、彼は神に、自分の手を闘いの為に訓練してくれたことを感謝しているということがその背景にあります。しかし、これは、私たちがそれらの情操を見習うべきだということを暗示しているのではありません。新約聖書の中にも旧約聖書の中にも、私たちは外国人や寄留者への特別な愛を持つものであると考えられています。

しかしながら、従うことに励まされる他の情操といったものがあります。例えば、9節のダビデのことばの中に、礼拝することが鼓舞されています。ダビデは自分の家族、自分の仕事、そして自分の国の安全のための神の祝福を切望していると続けて言っています。彼は「幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)」と締めくくっています。

祈り:主よ。あなたの教会、すなわち自分たちの神が主である民への祝福を感謝します。今日、私はあなたを礼拝します。そして私の家族、仕事、奉仕、町、国の祝福のためにあなたに祈ります。


あなたの祈りは変化をもたらす(黙示)

黙示録8:1-9:12

黙示文学とは、歴史の終末と神の奥義についての夢と幻です。それは解読を必要とする象徴がふんだんに用いられています。私たちはそれを読み、しばしば人間の理解ではとても限界がある事柄を垣間見るのです。複雑で風変わりな描きには理解に苦しむことがあるのです。

黙示文学は解釈が難しいことで有名です。聖書の中ではダニエル書とヨハネの黙示録がこのジャンルに相当する部分が見出されます。

典型的に、現代の読者にとって、黙示文学は簡単には理解することができない書物なのです。それは、この世に対して悔い改めを呼びかけ、裁きが来ることを警告しているように思えます。

裁きの前に「天に静けさが下った。― およそ一時間半にわたって完全な静寂があった(8:1,MSG訳)」おののくような宙ぶらりんの状態の中で、天のすべては静まりました。多分、神の民の祈りのための機会が与えられ、神に聴くことが象徴的に表されているのでしょう。

七つのラッパ(2)は私たちを悔い改めに導く神の力をもってご自身がなさるすべてのことを示唆しています。神の願いは、私たちが選択する方法によって避けることの出来ない結果を招くことについて警告することです。最初の四つのラッパは自然破壊の前触れです(6-13)。環境破壊(7)、被造物の混沌(8-9)、人間の悲劇(10-11)、宇宙に及ぶ損害(12)があります。それから第五と第六の御使いは人類の損傷の前触れを告げます(9:1-21)。

このような真っただ中で、あなたは自分の祈りの重要性を見ることが出来ます。「また、もうひとりの御使いが出て来て、…彼にたくさんの香が与えられた。…香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(8:3-4)」祈りが「効いた」かどうかは正確にはわからないことですが、明確なことは神があなたの祈りを「聞いた」ということです。あなたの祈りは大事です。それが変化をもたらすのです。

私たちはイエスの最初の到来と二度目の到来の間に生きています。私たちは、自分たちの世界にこれらの章で記されていることを起こっている証拠をたくさん見ます。私たちの応答は、悔い改めと祈りであるべきなのです。

祈り:主よ。私は自分の人生をチェックして、知りえるあらゆる罪を悔い改めたいと願います。あなたが私の祈りを聴いてくださることを、そして祈りを通して変化をもたらしてくださることを感謝します。


あなたの人生のための神の目的を成し遂げる(歴史書)

エズラ1:1-2:67

神はあなたの人生に目的を持っておられます。あなたは神のために何かをするように召されているのです。エズラ記は、多くの反対や抵抗があっても、それでもそれは神の計画であることを私たちに示しています。しかし、神はあなたと共におられます。(1:3)そして神の計画は究極的に成功裏に成し遂げられるのです。

エズラ記の中に、私たちは良く似た歴史の範疇を見出します。聖書の中の歴史書というジャンルの書物は単純に何が起こったのかを記録したのではありません。それらはまた、彼らが描写した出来事の解釈を提供してくれるのです。歴史書を書くという作業は預言的な活動と、事実を記録し、記述した出来事を通して神がどのように働かれたかを説明し啓示しているように思えます。

エズラ記の冒頭の節は事実と解釈の両方をもたらしてくれている卓越した例です。「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。(1)」(当時の碑文はペルシャの王クロスが他の捕囚された国々の民を帰還することを認めることを記しています。)

それと同時に、作者はこれらの歴史の出来事の意味について説明します。彼は、捕囚が約七十年で終わるだろうと先に記されていたエレミヤの預言(エレミヤ25:12、29:10)がどのように成就したかに光を当てます。これはただの古代の歴史からの学びではありません。それは神の啓示です。それは、ご自身の民に対する神の誠実さを私たちに示します。それは私たちに神は救いの神であることを思い起こさせます。そして、それはいかに神が歴史に命じ、支配しておられるかを明らかにします。

これらの章でエズラが記述した出来事はBC 536年に起こりました。神の民が衰え、敗退し、捕囚されてから七十年後に、彼らは帰還しても良いとの許可を得て、新しいスタートを切ったのです。

クロスはユダヤ人たちが帰還し、エルサレムの神殿を再建しても良いと許可することを布告しました。エズラは神殿の再建に、そして、ネヘミヤはエルサレムの城壁の再建に焦点を当てます。しかしながら、その底流を流れる動機は全く同じです。彼らの関心は神の栄光と神の民でした。どちらも、彼らの異なる方法で神の彼らの人生の目的を成就しました。

今日、それはあなたも同じです。あなたはあなたの人生に特別な目的を持っています。私たちは皆、仕事、情熱、賜物など異なっていて、それぞれ異なるプロジェクトを持っています。しかし、底流に流れている動機は同じであるべきです。その動機とは神の栄光と神の民への関心です。神はあなたのためのご自身の目的を成し遂げられるのです。

祈り:主よ。私のためのあなたの目的を、あなたが私に成し遂げて頂けるものになりたいと願います。私の人生があなたの御名に栄光をもたらすものとなりますように。アーメン。

H.K