2019年4月10日
第100日
知恵において成長するための7つの方法
「アラビアのロレンス」は大いに知られた映画の一つです。T.E.ロレンスがアラビアで過した時期についての彼自身の説明に多くが費やされています。彼はイギリスの考古学者であり、陸軍情報将校(30歳で中佐になる)でした。第一次世界大戦時の中東での活躍が良く知られています。ロレンスは1926年に知恵の探究をテーマとして「知恵の7つの柱」という題名の回顧録を記しました。
おそらくロレンスは今日の箇所にある「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え(箴言9:1)」を想起していたのでしょう。聖書では数字の7は完全を表す数字としてよく用いられています。箴言、イエスの教え、そして一般的に聖書には、私たちは知恵において学び、成長するための多くの方法を見出します。
1.批判に対処する
箴言9:1-12
私たちが批判される時、私たちを罵る者たちに応えても仕方ありません(7)。もし、私たちがそうするなら、彼らはもっと私たちを憎むようになるだけです。しかし、「知恵」をもって応答することには価値があります。
批判に対する私たちの応答は、「仕返し」「罵り」「憎しみ」であるべきではないのです(7-8)。むしろ、私たちはそこから「もっと知恵深く」なり「ますます知恵を得よう(9)」実に、私たちへの非難の応答は「愛(8b)」を増し加えるべきです。
それは簡単ではありません。普通、批判に対する自然な反応は、頭にきて、激しい言葉や自分を正当化する言葉を返すことがしばしばです。しかし、難しいことではありますが、知恵ある道は非難や指導から学ぼうとすることです。
たとえば、私は何年も、自分の話を非難されるのを嫌がる説教者は稀にしか発展しないということを見てきました。建設的な批判を歓迎し、それに脅威を抱かない人は速やかに発展し、より効果敵になることを体験しました。神との正しい関係はあなたの知恵をさらに増し加えます(10)。そして、あなたを建設的な批判に耳を傾けることが出来るようになり、それを通して成長するのです。
祈り:主よ。私に建設的になるための知恵を、批判や親切を与えるときにも受けるときにも与えてください。
2.苦難に応える
ルカ13:1-30
この箇所でイエスが苦難に2つの異なる方法で応答したことを私たちは知ることができます。イエスは苦難を受けている人々に対して常にあわれみをもって接しました。腰の曲がった女に手を置き癒したことにも見ることが出来ます(10-16)。しかし、ここで、私たちはまた、「苦難」について起こった質問に対する主の応答も見ることができます。
「ピラトが何人かのガリラヤ人を彼らが礼拝している時に殺し、彼らの血を祭壇のいけにえの血に混ぜました。(1,MSG訳)」ある人々がイエスのところに来て尋ねました。要するに「なぜ神は苦難を許しておられるのか?」「それらの苦難は彼らの罪の結果なのか?」ということです。
イエスはもちろん、卓越した知恵をもって応答して見せます。この世のこんなにもある苦難は人類の罪に起因するものであり、私たちは皆、罪があります。しかし、イエスは罪と苦難との間の関連を自動的には結びつけていないことは明らかです。彼らは、その他のすべてのガリラヤ人よりも悪かったので、苦難を味わったというのではありません(1-2)。イエスはまた、自然災害は神からの罰の形式であるとことさらには指摘してません(1-5)。
私たちが苦難に遭うとき、私たち自身の心に説明するためにそれが多分最適であったとしても、私たちは、他の人が苦難に遭う理由について裁くことに関してとても注意深くある必要があります。イエスは罪に対して哲学的な説明に関心をもっておられませんでした。むしろ、イエスは私たちの応答に関心を持っておられました。イエスは「悔い改めない(3)」危険性について警告しているのです。
3.苅込みと植付け
いちじくの木のたとえ(6-9)とからし種とパン種のたとえ(18-20)は神の国において物事がどのように成長するかという知恵をもたらします。物事が養われるべき時、物事をやめるべき時、
神は人々が悔い改めるまで出来る限り忍耐強く待たれるお方です。プロジェクトが始められるべき時を私たちは理解します。いちじくの木を切り倒そうとしたとき、番人はもう一度チャンスをくださいと願い出ました。「もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。(9)」
鍵の言葉は「実を探しに(6,MSG訳)」です。たとえば、教会にはいろいろな働きを見ることができますが、ある働きはとても実を結び、あるものはそれほどでもありません。あまり実を結ばない働きは切ってしまいたいと思う誘惑があります。しかしながら、イエスは私たちに忍耐することを勧めています。「もしそれで来年、実を結べばよし(9a)」です!しかし、この忍耐は永遠に続くものではありません。実を結ばない働きには時には「切り倒す(9b)」瞬間がやって来ます。
からし種のたとえ(18-19)とパン種のたとえ(20)は、神の国は初めは小さいけれど、時間とともに莫大に成長する可能性を秘めていることを私たちに思い起こさせます。種が植えられると「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。(19)」これは、神の国の種を蒔くこと(教会を生み出すことを含みます。)の驚くべき価値を見せてくれます。それはまた、この可能性が開花するまで忍耐して待つ必要があることを私たちに示唆しています。
4.直面する時を知る
真っ向から直面するというのは難しい事です。イエスはいつ直面すればよいのかという知恵を持っておられました。イエスは18年間腰が曲がった女性を癒したのが、ただ安息日であったということを非難された時、非難した者たちの偽善とご都合主義をあらわにしたのです。イエスは律法主義を越えてあわれみの大切さを彼らに思い起こさせました。動物の世話をすることに従うというのが原則にかなっているというなら、人々のお世話をするということに従うことは、どれほどすべきことなのでしょうか(15-16)。
イエスの答えは実に知恵に満ちています。「群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。(17)」
5.イエスに立ち返る
時々、イエスに「主よ。救われる者は少ないのですか」と尋ねる人がいました(23)。するとイエスは、実に実践的な答えとして「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)」と答えました。言い換えれば、まず他人がどうであるかよりも、あなた自身が神の国に入ることを確実なものにしなさいということです。あなたはすべての人について知ることはできませんが、あなたは自分自身のことについて確かにすることができます。
このたとえの中で、多くの人々が家に入れないことに気づきます。この家とは神の国を表しています。このようなことになってしまう理由は、自分のこととしてイエスとの関係がなかったことです。家の主人は、これはイエスを表していますが、二度にわたって「あなたがたがどこの者か、私は知らない(25,27)」と言いました。神の国の一部となるということは、まさにイエスに立ち返り、イエスを知るということです。
これは内に入れられるだろうと思っていた人が外に出されるということを描いていますが、これはまた、思ったよりも多くの人々が内に入れられることをも描いています。「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。(29)」イエスに立ち返り従うことは、たとえ、私たちが少数者であると感じたとしても、為すべき知恵あることです。
祈り:主よ。今日、交わされる会話に、今日下すすべての決断に知恵を与えてください。どうか聖霊に満たし、イエスの知恵を私に与えてください。
6.預言を吟味する
申命記13:1-14:29
私たちは本物の預言と、偽物の預言を見分ける知恵が必要です。今日における「預言者」とは、「預言の賜物」を持っている人々のことだけではなく、「主の御名によって」かたる人々、すなわち、牧師、説教者、教師、伝道者などを含みます。これらの場合すべてにおいて、私たちは真理と偽りを見分けることが必要です。
この箇所には、旧約聖書の中の本物の預言者の一人が登場します。たとえ不思議やしるしを示して「他の神々に従え」という者があっても従ってはならない(13:1-3)と命じられています。言い換えるなら、預言は、その教えによって判別することが出来るということです。その教えがまことの神に向かわせるのか、引き離すのかを見ればいいのです。イエスは「実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:15-20)」と教えられました。
7.神をあがめる
「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。(14:1)」神はあなたを「主の聖なる民」として召しておられます(2a)、そして選んで「ご自分の宝の民」とされました(2b)。旧約において、厳格に食べても良い食べ物と食べてはならない食べ物が規定されることが含まれましたが、新約においてイエスは「すべての食べ物はきよい(マルコ7:19)」とされました。
旧約でも新約でも、あなたが主を「あがめる」こととして「与える」ということがあります(申命記14:22-23)。それは与える祝福です。神はあなたが他者を祝福するときあなたを祝福なさいます。そして、またあなたは他者を祝福することができるのです。特に、神はここで私たちの「手のわざ」における祝福を約束しています(29)。神のご自身の民のためのビジョンは共同体として、互いに与えあうことが維持されることです。今日の箴言の箇所にもありましたが、「主を恐れることは知恵の初め(箴言9:10)」です。そして、「もし、あなたが知恵を得たならば、あなたの知恵はあなたへの報償となる(12,NIV訳)」のです。
祈り:主よ。私があなたの宝の民とされたことを感謝です。どうぞ、日々、知恵において成長することができますように。
H.K