Tokyo Chapel

2019年9月7日

第250日

惜しみなく与える10の理由

ミック・ホーキンスは私が今まで会った中で最も気前の良い人です。彼はいつも与え、いつもすべての支払いを引き受けました。私たちは彼がたいそう裕福に違いないと思っていました。実際はそうではありませんでした。彼はただとても気前が良かったのです。彼の人生は神の恵みへの感謝に溢れていました。この開かれた心と財布は彼を知っているすべての人々に感銘を与えました。

私はミックのようになりたいと願います。私はイエス・キリストの教会に彼のような人々が満ちるようになることを切に願います。なぜなら、今日の箇所で私達がみるように、恵み、感謝、気前良さは非常に密接に結び合わさっているからです。


あなたの礼拝によって恵みを神に感謝する

詩篇106:1-15

私達が神の恵みを経験し始める時、感謝の心を持つことは自然で適切な応答です。詩篇の作者は感謝と神を礼拝することによって圧倒され、言いました。「 ハレルヤ(主をほめよ。,NIV訳)。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)」

作者は続けて言います。「私たちは多くの罪を犯した…私たちは不十分であって、多くの民を傷つけた…あなたの大いなる素晴らしい愛を忘れていた(6-7,MSG訳)。彼らは神に対して「逆らった。(7d)」

何年か前に、この詩篇を読んだ際に、私は私の聖書の余白にこう記しました。「私は時々、私は他のクリスチャンよりも罪を犯しているかどうかを考える…神は赦し続けてくださるのか?」もし、あなたが時々そんな風に感じるなら、あなたは独りぼっちではありません。

しかし、次の節は「しかし」という言葉で始まります。これが恵みです。すべてのことにかかわらず

  • 主は、御名のために彼らを救われた。(8a)
  • 主は、彼らを行かせた(導かれた,NIV訳)。(9b)
  • 主は、彼らを贖われた。(10b)

神の驚くばかりの恵みの結果、「彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。(12)」しかし「彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。(13)」

再び、私は余白にこう書き記しました。「これは私のクリスチャン生活の歩みだ。1日か2日、あるいは1週間か2週間、私は約束を信じ主を称えて賛美の歌を歌うけれど、…しかし、すぐにそこから外れてしまい、主がしてくださったことを忘れ、主の助言を待つことにしくじり、あるいはあらゆることを主に尋ねることにしくじってしまう。」

彼らのようにしないようにしましょう。それは行く道のすべての歩みに不平を言い、いつも自分たちが持たなかったものを欲しがることです(14)。彼らは「甚だしく強い欲望をもった(14,AMP訳)」のです。そして神は「彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送って(「彼らの魂を」,NIV訳)やせ衰えさせた。(15)」時々神は言われます。「あなたの思うようにしなさい。」そして人々が求める通りに与えます。それが彼らにとって最善でないにもかかわらず。後から飢え渇くよりも、あなたへの主の恵みと優しさを通して得たもののゆえに神を楽しみ感謝しましょう。

祈り:主よ。あなたの驚くべき恵みと赦しを感謝します。それはあなたが私を贖い、導いてくださったものです。あなたの約束を信じ、あなたをほめたたえ、私に為してくださったことを忘れることがないようにしてください。


あなたのささげ物によって恵みを神に感謝する

2コリント9:6-15

この箇所で、パウロは惜しみなく与えることの少なくとも10の理由を私たちに示します。

  1. 与えることは、あなたにできる最高の投資であるから
    収穫のように、与えることは種を蒔くことです。農夫は蒔いたものよりたくさんの収穫を得るのです(6)。「けちんぼな農場主はしみったれた収穫しか得ることができません。気前良い農場主はたっぷりとした収穫を得るのです(6,MSG訳)」

    これは生活のすべてに応用できます。あなたが主にささげるものを主は大いに増やしてくださいます。―あなたの時間、贈り物、大志、お金。
  2. 与えることは、楽しむべきです
    与えることは無理強いされたり、しぶしぶすべきではありません。むしろ自ら喜んですべきです。「神は喜んで与える人を愛してくださいます。(7)」この「喜んで」というギリシャ語は「ヒラロス(hilaros)」という語です。私たちはいつも教会で私たちのささげ物は陽気(hilarious)にすべきですとモジって言うのです。与えることを楽しむべきです。気前良いことは幸せを導きます。
  3. 与えることは、経済的不安という重荷を取り去る
    パウロは記します。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(8)」与えることは経済的責任を神に引き渡すことを意味しません。しかし、それは思い煩いと重荷を引き渡すことを意味します。
  4. 与えることは、あなたを「富ませる」のです
    神があなたを与えることに招くとき、神はあなたの感情にだけ訴えかけるのではなく、あなたの理性に訴えます。「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、(11)」実質的に、あなたは気前よく与えるのに十分なものを持つようになります(11)。あなたの人格は豊かになります(10)。そして神が賛美されるのです(11)。
  5. 与えることは、あなたの性格を変革します
    パウロは「義の実(10b)」を収穫することについて語ります。与えることは、人生を破壊する物質主義の束縛からあなたの性格をきよめます。
  6. 与えることは、他者を鼓舞します。
    「…それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。…(11b-13a)」
  7. 与えることは、人々の必要に届きます
    気前よく与えることは他の人々を祝福します。そして神の民の必要に供されます。「助けは貧しいクリスチャンのありのままの必要に出会います。(12,MSG訳)」
  8. 与えることは、本物の信仰の証拠です
    気前よく与えることは、従順の行為です。それは「キリストの福音の告白(13)」と伴うべきです。与えることは信頼の行為です。そうすることで、あなたはそれは、あなたの必要を究極的に供給してくださるのは神であって、あなた自身や他の何者でもないと言うようになります。
  9. 与えることは、あなたを教会の出資者にします
    パウロは「彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていること」について語ります。同じようにして、あなたが住居をルーム・シェアしているような時、あなたは家賃を分かち合います。あなたがコミュニティーの必要を分かち合う時、あなたはそのコミュニティーの恩恵をうけます。たとえば、いつも誰かがそのコミュニティーを通じてキリストを知るようになる時はいつでも、あなたは祝福を分かち合うのです。
  10. 与えることは、あなたへの神の賜物への応答です
    神はあなたが永遠のいのちを持つために、神の一人のそして唯一の子をあなたに与えるほどにあなたを愛しました(ヨハネ3:16)。私たちが与えるのは神の驚くべき恵みへの応答です。神の「ことばに表せないほどの賜物(2コリント9:15)」は賜物としての御子なのです。「この贈り物、神の贈り物のゆえに神に感謝します。それを賛美するのに十分なほどの言葉は見当たらない!(15,MSG訳)」

祈り:主よ。イエス・キリストという、あなたのひとり子という言葉に尽くせない贈り物のゆえに感謝します。あなたの驚くべき恵みに、気前良さと恵みをもって応えることが出来ますように。


あなたの人生の中にある神の恵みのゆえに神に感謝する

イザヤ14:1-16:14

私たちはISISの悪をどのように説明するでしょうか。斬首、クリスチャンやヤズディ教の処刑、女性や子どもの人身売買や奴隷制なのでしょうか?たとえば、ホロコースト、スターリンの粛清、ルワンダの民族浄化など、私たちはどう説明するでしょうか?

これは、サタンや悪霊の力の起源についてヒントを与える聖書の中で数少ない箇所の一つです。

ダイヤモンドの美しさは黒いベルベットの布の上で最高に見えます。神の恵みの美しさもまた、悪の暗闇に対してその栄光の輝きを完全に表します。預言者イザヤは神の驚くべきあわれみについて語ります(14:1)。暗闇の背景とは、特に、バビロンの残酷さ、拷問、迫害、奴隷売買など、その国にまつわる悪です。

イザヤはバビロンの堕落を記述します。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。(12-15)」

イエスは同様にサタンの堕落を描きました(ルカ10:18)。アダムとエバの堕落より以前に、天使が堕落を導いたのは、多分、それは高ぶりと傲慢だったのでしょう。

しかし、この暗闇の背景に対して、美しいダイヤモンドのヒントもあるのです。

「その暴君は倒れた。
殺戮は終わった。
これら残忍行為のすべてのしるしは、とっくに無くなった。
尊敬できるダビデの伝統の内に
愛の新しい統治は建て上げられるだろう。
あなたが寄り頼める支配者は
この統治の首長となる。
正義に熱意のある支配者、
すぐさま支配者は物事を正す。」(イザヤ16:4b-5,MSG訳)

歴史の中でどんなにそれを成就したとしても、この記述に完全に適合するお方はただ一人、メシアなるイエス、ダビデの家系に生まれ、神の愛と神の正義をともいもたらすお方です。悪魔的な「私は…なろう」(14:13,14)とは違って、イエスはご自身を否定して「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」と言いました。

イエス・キリストに啓示された神の驚くべき恵みへの適切な応答は、あなたが礼拝すること、与えること、あなたのすべての生き方をもって神に感謝することです。あなたの人生を神にささげ、そして言うのです。「あなたが願うことはなんでも、私はすることを意志します。」

あなたが直面することは何でも、神の目的は究極的に成し遂げられたということをあなたは信頼することが出来るのです。「万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを戻しえよう。(イザヤ14:27)」

祈り:主よ。私たちがイエスにあって、あなたの驚くばかりの恵み、愛、誠実さを経験することができることを感謝します。イエスが正義を追い求め、義を速やかに為させてくださったことを感謝します。イエスように、最も貧しい者、最も困窮した者に関心を寄せ(30)、惜しみなく与えることが出来ますように。アーメン。

H.K