2019年11月11日
第315日
コツコツやる
マリヤムとマルツィヤは2009年、イランで逮捕されました。彼女たちの罪状は「クリスチャンである」でした。彼女たちは目隠しをされ、尋問され、獄中で病気になりました。彼女たちは法廷に出されました。検察官であるハダド氏は、この二人の女性にクリスチャンなのかどうかを尋ねました。「私たちはイエスを愛しています。」彼女たちは答えました。彼は再び同じ質問をしました。そして彼女たちは「ええ、私たちはクリスチャンです。」と答えました。
ハダド氏は彼女たちがクリスチャンになったことを後悔していないかどうかを問うと、彼女たちは「後悔したことなど一度もない」と答えました。それで、彼は断固とした態度で「あなたがたは自分の信仰を捨ていることを言葉と書面で表さなければならない。」と宣言しました。 彼女たちはしっかりと立って答えました。「私たちは自分たちの信仰を否定することはありません。」
ハダド氏がこの女性たちに獄に戻るように言った時、もう一度思い直して、彼のもとに戻って来るチャンスもあることを告げましたが、マリヤムとマルツィヤは「私たちはもう自分たちの考えを決めています。」と応じました。
ヘブル人への手紙の作者は迫害の対象となっているクリスチャンに書き送りました。「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。(ヘブル10:32)」マリヤムとマルツィヤが検察官の前でしたように…。(感謝なことに彼女たちは釈放され、アルファ・フィルム・シリーズの一部でインタビューに答えています。)
忍耐を意志することはしばしば、成功と失敗の分かれ目です。これは新しい技を習うときやスポーツ、仕事上の成功を成し遂げることなどで真実です。「切手を考えて御覧なさい。それが宛先に届くまで、封筒にひっついていることが役に立つのです。」という言葉の通りです。「粘り強さ」はまたクリスチャン生活の鍵です。もしあなたが聖書を読むこと、祈ること、悪に対抗すること、その他どんなことでも、学びたいとするなら、我慢を学ぶのです。ヘブル人への手紙の作者は読者に「やめたりせず」「ひっついていなさい」(34-39,MSG訳)」と読者を励ましているのです。
助けを求めて神を見る
詩篇123:1-4
「私はあなたを見つめます…神よ。助けを求めてあなたを見上げます。(1,MSG訳)」詩篇の作者のように、助けを求めて神を忍耐強く待ち望みましょう。直面している反対に忍耐をもって我慢しましょう。「私たちはさげすみで、もういっぱいです。私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3b-4)」
この反対への彼の応答は、神に焦点を当てて立ち返ることでした。彼は書きます。「あなたに向かって、私は目を上げます。…私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(1-2)」この焦点は神がどのようなお方であるかという認識、すなわち、「天の御座に着いておられる方(1)」という認識に基づくものです。
神は「私たちの神、主」です。あなたを助けてくださる主のほうを見つめましょう。「自分たちの主人の命令に、いつでも必要な行動がとれるようにしているしもべたちのように、淑女に付き添う乙女のように、私たちは息をこらして、あなたのあわれみのことばを、しっかり見つめて待ちます。(2-3,MSG訳)」
祈り:主よ。何が起ころうとも、忍耐し、耐え忍ぶことができるように助けてください。私の目をあなたに留めます。
あなたの地に立つ
ヘブル10:19-39
全世界の何百万ものクリスチャンが今日も彼らの信仰のゆえに迫害されています。ヘブル人への手紙の作者は迫害の対象となっていたクリスチャンに宛てて書かれました。(ローマ皇帝ネロの手によるものである可能性があります。)この書の中心的な目的の一つは、読者に忍耐することを励ますことです。作者は最期を彼の教理的な解説で締めくくっています。彼は今、長期の忍耐への呼びかけを始めます。ここで、彼はコツコツやることの理由と動機と励ましを与えます。
- あなたは確信を持つことができる
キリストがあなたのために為されたこと、そして為してくださることのゆえに忍耐しなさい。あなたは新しい自由、大胆さ、確信を得たのです。あなたはイエスのいけにえを通して神の臨在に入るように招かれています。あなたは「今、ためらうことなく、神に真っすぐ近づいてゆき、『聖なる場所』に入って行くことができるのです。イエスはご自身のいけにえの血によってその道を開いてくださったのです。(19-20,MSG訳)」 - あなたは、あなた自身のものではない
私たちがお互いに助け合うことのゆえに、私たちは忍耐します。作者が「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(23)」と私たちに勧めるように、彼はコミュニティーの中でそうしました。しばしば共に集い、「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(24-25)」 - この現実の事柄
彼はことさらに罪を犯し続けることを警告します(26)。これは「反抗的に」罪を犯し続けることを意味します。彼は「もし、あなたが神の子に食って掛かり、あなたにとってなくてはならない、いけにえに唾をかけるなら、…強大で激しい判決が下ることを警告します。…神は私たちに、ご自身が私たちに責任を問うことになり、私たちが支払わなければならないことを警告します。何を以てしても誰もやっては行けません。(26-31,MSG訳)」これはしばしば教会の外側の人々に適用されますが、実際は主がご自身の民を裁かれる文脈に沿って書かれたものです。これはヘブル人への手紙の読者が罠にかかっていた何かではありません。彼は「(足を踏ん張って,NIV訳)耐えた(32)」ことを彼らに思い出させようとしているのです。 - 報いは大きい
ヘブル人への手紙の作者は彼らに「あなたがたが初めて光を見たあの最初の頃を覚えていますか?あの頃は本当に大変だった!公衆の面前で蹴り飛ばされ、ありとあらゆる虐待の対象だった。ある時はあなたが、ある時はあなたの友人が標的となった。もし誰かあなたの友人が獄に行けば、あなたはじっと我慢した。もし誰か敵があなたの所に押し入り、物品を押収したなら、あなたは笑みとともに彼らを思い通りに行かせ、彼らがあなたの本当の宝に触ることもできないことを思い知らせた(32-34,MSG訳)」 - 我慢強くあれ
人生は長く、人生は短い。一方で人生は長いものです。人生の旅路において、じっと我慢しなければならない試みの時、試練、困難があります。我慢、忍耐、粘り強さ「粘り強い忍耐が今あなたに必要です。それであなたは神の意思を行うことを続けていくのです。そして、あなたは神が約束されたものすべてを受け取るのです。(36,NLT訳)」
他方で人生は短いものです。あっという間に、私たちは死を迎えるか、イエスの再臨を体験するでしょう。
「ほんのしばらくの間に、お越しになるお方が来るのです。そしてそれは遅れることはありません(37,NLT訳)」
作者は、読者たちが忍耐すると完璧に確信していました。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(39)
祈り:主よ。私たちが共に会う時、愛と良き振る舞いをもって互いに困難に屈することなく励まし合うことができますように。
悪に立ち向かう
エゼキエル20:45-22:22
個人的に、私は直面することは決して容易ではないことを見出します。しかしそれは時々必要です。エゼキエルは悪に立ち向かうように告げられました。(22:2)
彼は説教し預言するように呼び出されました(20:46)。彼の働きは決して容易ではありませんでした。彼のメッセージは難しいものでした。それは文化の対決でした。しかし、彼は忍耐しました。彼は決してあきらめなかったのです。彼はじっと我慢しました。彼は説教し続けました。次々と主の言葉が彼にもたらされ、彼は忠実にそれを告げ知らせました。
神はそれが簡単ではないことを知っていました。神はエゼキエルを励ましました。「顔を…に向け(20:46,21:2)」「顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。イスラエルの地に言え。『主はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。』(2-3)」それは本当に辛いことであったに違いありません。
エゼキエルが反対して語った罪は、彼らがイスラエルの民であることと同じように私たちにも当てはまります。親を侮辱して取り扱うこと、貧しい者や社会の隅に追いやられている人々(その中には移民、寡婦、孤児が含まれます。)の虐待、性的虐待、近親相姦、レイプ、賄賂、貪欲、ゆすりなどです(22:7-12)。
彼らは神を忘れました。「おまえはわたしを忘れた。―神である主の御告げ―(12)」西洋社会に住んでいる私たちは神を忘れてしまう危険の中にある社会に生きています。私たちが自分の周りを見回すと、本当に間違った世界がそこにあり、神が私たちを忘れたに違いないと容易に思えるのです。しかし逆説的に、このような裁きの箇所は、神がどれほど私たちの面倒を見てくださっているかを表しています。神は情熱的に不正と苦難を取り扱います。神が人に傷を負わせる者どもを怒っておられるか、そして苦痛を受ける者たちを無視することを拒まれるのかの理由です。
このすべての事柄には霊的な側面もあります。私たちの関心はただ不正に反対することだけではなく、人々を神に立ち返らせることです。エゼキエル書の二分の一(そして実に聖書全体の)の素晴らしいメッセージは、この裁きが最後のことばではないということです。神はまた、ご自身の民を贖い、救うために、恵みのうちに働かれます。
エゼキエルを鼓舞させたのは、貧しい者たちや、抑圧された人々、そして失われた人々への神のこの情熱的な関心なのです。そして、何世紀にもわたってクリスチャンを鼓舞したのです。救世軍の創始者であるウイリアム・ブース大将は粘り強いことで有名です。彼は言いました。「今日そうであるように、女性たちが泣く限り、私は戦う。今日そうであるように、幼い子どもたちが飢える限り、私は戦う。今日そうであるように、男たちが刑務所に出入りする限り、私は戦う。酔漢が残っている限り、街頭に哀れな失われた娘がいる限り、神の光を受けない一人の暗黒な魂でも残っている限り、私は戦う。私はまさに最期に至るまで戦う!」
祈り:主よ。反対や、侮りや、嘲りによって、私の顔をゴールをしっかり見ることから逸らされることがないようにお守りください。粘り強くありますように。悪に対決し、最期に至るまでイエスの良い知らせを宣べ伝えることができますように。アーメン。
H.K
References
Josh Billings, cited in The Salt Lake Herald, 17 May 1895, Untitled filler item, Quote Page 4, Column 1, Salt Lake City, Utah, via Quote Investigator: https://quoteinvestigator.com/2017/12/22/postage/
William Booth, Cyril Barnes (Ed), The Founder Speaks Again, (Salvation Army, 1960)
Maryam Rostampour & Marziyeh Amirizadeh with John Perry (Ed), Captive in Iran, (Tydale, 2014)