2019年5月17日
第137日
父なる神を知る
- 何にもまして、喜び、楽しみ、充実感を増し加え、あなたの人生を最高にすることは何でしょうか? それは、「神を知ること…」
- あなたが形造られたのは何のためでしょうか?「神を知るため…」
- あなたの人生の目標は何に据えればよいのでしょうか?「神を知ること…」
J.I.パッカーの有名な著書「神を知る」の書き出しには、これらの質問が掲げられています。イエスは言いました。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10:14-15a)
どんなときも主を信頼する
詩篇62:1-12
物事がうまくいっている時には神を信頼するということは容易いものです。ダビデは勧めています。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。 あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。 神は、われらの避け所である。(62:8)」どんなときにも、神に信頼せよということは、物事がうまくいっている時だけではなく、うまくいかない時にも信頼することです。あなたの人生の中で困難に直面している時に信頼することによって、あなたの人格は成長するのです。
主を知り信頼することによって次のようなものが得られます。
- 魂の平安
あなたが恐れと心配のただ中にあっても、あなたは平安を見出すことができます。「私のたましいは神のうちにだけ休息を見出す。…休息を見いだせ。私のたましいよ。ただ神のうちに(1:1,5,NIV訳)。」 - 救い
救いは神にある信仰によってもたらされます。「私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。…私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。(1bー2a,7b)」 - 守り
人生における他のすべてのものは不確かです。結局のところ安全ではありません。しかし、「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。 私はゆるがされることはない。(6)」
イエスのように、ダビデは神の愛と金銭を対照的に描いています。「圧制にたよるな。 略奪にむなしい望みをかけるな。 富がふえても、それに心を留めるな。(10)」私が法廷弁護士を始めた頃、聖書のこの箇所の余白にこう書き記しました。「今、このとき、これはとても私を活かすメッセージだ。学生の頃はあまりお金に気持ちが囚われることはなかったが、今はもっとお金に心奪われる。そしてお金についての話題も増えた。戦いは猛烈だ。この世に引っ張る力はとても強い。おまえの心はどこに据えるのか?神かそれともお金か?」
祈り:父よ。今日、あなただけに心の平安を見出すことができますように。私が決して揺すぶられることがないことを約束してくださって感謝します。今日、私はあなたに信頼します。
生活をまるごと楽しむ
ヨハネ9:35-20:21
私はクリスチャンになることは、あらゆる楽しみを棄てることだと考えていました。実は、それは全く逆だと分かりました。イエスは、ご自身が来られたのは私たちが「いのちを得、またそれを豊かに持つため(10:10)」なのだと言われました。それは「満ちて、溢れるのです。(10:10,AMP訳)」
眼が見えるように癒された男はイエスを信じることに何の問題もありませんでした。イエスは彼を見つけた時、こう言われました。「あなたは人の子を信じますか?(9:35)」男は答えて「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。(36)」イエスは答えました。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」そして男は言いました。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝しました(37-38)。イエスにあって、この男は神ご自身と出会ったことを知りました。あなたもイエスにあって神と出会うことができるのです。
イエスは、ご自身を通して、あなたは神を知ることができると説明しておられます。イエスは二つの類比を用いました。第一に、ご自身を「門」にたとえられました(10:1)。ギリシャ語の「スーラ(thura)」は多分、「扉」と訳す方が適切かもしれません。イエスは羊が救いを見出し入って来る扉です(9)。イエスは父なる神への扉です。神を知るための扉はイエスを知ることなのです。
イエスが用いた第二の類比は「良き牧者」です。ギリシャ語の「良い(kalos)」は「美しい」「高貴な」「素晴らしい」を意味します。羊は羊飼いを知っています。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。(14-15)」この背景には神が旧約聖書でご自身を「牧者」として表しておられるということがあります。(たとえば、詩篇23:1、イザヤ40:11)。イエスを知ることは神を知ることです。
- 人生を思い切り楽しむ
イエスとの関係において、あなたは意味、目的、達成、平和、赦し、人生そのものすべてを見出すのです。 - 悪魔にあなたを盗ませない。
イエスはご自身と「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする盗人(ヨハネ10:10a)」とを対照的に描いています。悪魔はあなたの平和と人生の楽しみをあなたから奪い取りたいのです。悪魔にそうさせないようにしましょう。 - あなたのための神の愛の保障
イエスは良い牧者と「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行く羊の所有者でない雇い人(12)」とを対照的に描いています。逃げて行くのは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです(13)。
一方で、良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(11,15)これはすべて自分の意志からのものです。「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(17-18)もし、あなたが神があなたを愛しているかどうかを疑ってしまうなら、ただ十字架を見上げましょう。
イエスはあなたのために命をすてたのです。あなたの父である神を知り、そのお方とのコミュニケーションを持つ者になることを妨げるすべての障害物をとりのけるために、イエスは十字架で、ご自身の命をささげられたのです。 - 主の声を聞くことを学ぶ
牧者の声を聞き分けるのは羊の本能です。「羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(3-4)」
あなたがイエスを知れば知るほど、狼の騙す声ではなく、イエスの声を聞き分ける洞察力が増すのです。 - あなたが永遠の命を得たことを知る
あなたが知るこのお方は、あなたのために死んだだけでなく、あなたのために死からよみがえってくださいました。イエスはご自身の命をもう一度持つ力があるのです。「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。(18b)」イエスはあなたに永遠のいのちを与えるのです。
イエスはその後、永遠のいのちをこのように定義しています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(17:3)」
祈り:主よ。あなたがご自身の命を捨てるほどに私を愛して下さったことを感謝します。あなたが私にいのちとそのすべてをあたえてくださったことを感謝します。
あらゆる環境で主に栄光を帰す
ルツ3:1-4:22
試練や人生の困難な局面で多くの犠牲を払ったとしても、神に栄光を帰し、正しいことをする者を神は高く引き上げてくださいます。私たちは、ルツ記の登場人物たちがこぞって神に栄光を帰すのを見ます。ナオミ(1:8-9)、ルツ(17以降)、ボアズ(2:4、12、3:10、13、4:11)、彼らのあり方から倣うべき多くを学べます。
ルツ記はナオミが神の恩寵に対して悲観している状態(1:20-21)から物語が始まりました。しかし彼女は、彼女の周りの多くの人々の好意を受けました。ナオミは彼女の二人の嫁、ルツとオフラ(8)からそれを体験しました。次にルツに対するボアズの扱いによって体験しました。最後に、彼女は主が「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」であると宣言しています(2:20)。
ルツはナオミに、あらゆる場面で忠誠を尽くします。そして、ナオミの関心はもっぱらルツが幸せになることでした。ボアズは自制心を持って、惜しみない善意をルツに示しました。ボアズの生涯は明らかに神中心です。彼が目覚めてルツが居ることに気づいたときの彼のとっさの反応は「主があなたを祝福されるように。(3:10)」であり「主は生きておられる。(13)」でした。
昨日、私たちはいかにルツが主に栄光を帰し、姑に忠誠をつくすことによって正しいことをしたかを見ました。今日、私たちはいかにボアズがルツをめとることが正しいことであると感じ、ルツと結婚したかったかということをはっきり見るのです。しかし、彼は単に前のめりに進んだのではなく、正しい手続きを経た上でそれらを為すことが出来ました。これらの案件をボアズは礼儀正しく、文化と伝統に則って完全に正しい方法で為したのです。
ボアズは結婚するのを先走りませんでした。彼は正確な過程を経たのです。人間的に言えば、ルツを手に入れることが出来ないかもしれないという大きなリスクを冒しました。しかし、彼は主がご支配くださることを信頼したのです。
主は驚くべき素晴らしい方法でこれを祝福されました。ボアズはルツと結婚し、子を授かり、ダビデ王の曾祖父となったのです(4:17)。実に、しもべの少女であったルツは主イエス・キリストの先祖に並べられることになったのです(マタイ1:5-6)。ある意味で、イエスは私たちにとっての「買い戻しの近親者」となられたのです(ルツ4:14)。イエスは私たちをご自身の兄弟姉妹と呼んでくださいます。私たちの葛藤を理解し、私たちを贖ってくださったのです(ヘブル2:11-12,17-18)。
私たちはルツ記を通して神の優しさを見ます。ルツ、ナオミ、ボアズの人間的な優しさの背景には、神の優しさがあるのです。
祈り:父よ。私に向けらたあなたの驚くべき優しさを感謝します。私を贖ってくださりありがとうございます。いつもあなたに栄光を帰することができるようにください。そしてどのように困難な状況であっても正しいことを行うことを追い求めることができますように。アーメン。
H.K
References
J. I. Packer, Knowing God, (Hodder & Stoughton, 1973) p.31.