Tokyo Chapel

2019年1月10日

第10日

人生の嵐に立ち向かう

2003年7月31日、冒険家ベア・グリルはゴムボートで北大西洋を横断するため5人のチームを率いていました。彼らはカナダのノバスコシア州ハリファックスから出発し、スコットランドのジョン・オ・グローツを目指しました。8月5日、暴風雨に遭い、波の高さは30mを超えました。衛星通信は途絶え、彼らの消息が懸念されました。感謝なことに彼らは助かり、その逸話をのちに聞くことができたのです。 (Facing the Frozen Ocean Bear Grylls著).

このような実際の嵐に巻き込まれるようなことは稀でしょう。しかし、イエスは、私たちは皆、人生の嵐(マタイ7:25-27)に遭うことがあると言っています。人生は楽ではありません。人生の嵐は多種多様です。今日の箇所に見られるように、アブラハム、ダビデ、イエスの弟子たちは皆、人生の嵐に直面しました。彼らの経験から何を学ぶことが出来るでしょうか?


信仰の盾を手に持つ

詩篇7:10-17

ダビデは嵐の中で「私の盾は神にあり…その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう(7:10a,17)」と告白します。

もし、誘惑に陥り、囚われ、虜となるなら、ダビデは「見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。(14)」と警告しています。もう一つのイメージは「彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。(15)」それはまさしく、墓穴を掘ることです。

使徒パウロは信仰の大盾は悪魔の放つ火矢を打ち消すと言いました(エペソ6:16)。盾とは「信仰の大盾」です。そしてダビデがここでいうように、「私の盾は神にあり(詩篇7:10)」と神に信頼を置くことです。神を信じて従うことは最大の防御であることを覚えましょう。

祈り:主よ。詩篇の作者のように「私の盾は神にあり」と私も言うことができますことを感謝します。


救い主であるイエスを信じる。

マタイ8:23-9:13

嵐は時に前触れなく私たちに起こります。「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。(8:24)」(ここで「すると、見よ」は英語(NIV訳)では「警告もなく」と訳されています。)

おそらく弟子たちは、ガリラヤ湖の嵐には慣れていたに違いありません。6メートルを超す波が起こるような突然の嵐は有名でした。しかし、彼らがうろたえるほどにこの嵐は突然のことだったのでしょう。弟子たちはイエスを起こして「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。(25)」と言ったのです。

人生の嵐の時には、私たちがパニックに陥るのはもっともです。(確かに私もそうです。そして、あたかもイエスが「寝ておられて」(24)、その問題に無関心であるかのように感じさせるのです。しかし、幸いなことに、私たちは「主よ。助けてください。(「救ってください」,NIV訳) (25)」と叫ぶことができるのです。

人生の嵐が来ると、恐れ、惑うのは当然です。しかし、イエスは彼らに嵐に対する反応は信頼であるべきだと言われるのです。(「信仰の薄い者たちだ。(26a)」)そして、恐れるべきではない(「なぜこわがるのか(26a)」)と言われるのです。イエスは嵐に静まるように命じました。そしてそのとおりになったのです。恐れず神を信じましょう。

イエスは風や波さえも聞き従わせました。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。(27)」さらに、イエスはその権威を悪霊に憑かれた二人の男にも示しました(28-34)。人々がイエスに自分たちの地方から出て行って欲しいと願った(34)のと違い、イエスは悪霊に憑かれることよりも、はるかに人に関心を持っておられました。

イエスは癒しよりも赦しの重要性にポイントを置いています。しかし、癒しが重要でないというのではありません。イエスは両方なさいました。イエスは中風の男を癒すことによって、病気や障がいに対する力をお見せになりました(9:1-2)。「群衆は圧倒されて、イエスがこのように彼らの間で働くように神が権威を与えたことに驚き、喜んだ(8,MSG訳)」

嵐のさなかに穏やかな瞬間があります。今日の箇所の最後には、イエスがマタイを召し出すという瞬間が記されています。イエスはマタイの家での夕食に招待されます。

パリサイ人たちは、イエスが「大勢のたちの悪い連中(10,MSG訳)」と一緒に食事をするのを見て驚きました。そして「詐欺師やろくでなしと和気あいあいとしているお前たちの先生からどんなことを学ぶつもりなんだい。(11,MSG訳)」と言いました。

イエスは小耳にはさんで、こう切り返しました。「医者が必要なのは誰か?健康な者か病人か?「わたしは宗教ではなく、あわれみをかけたいのだ」というみことばがどういう意味か理解しに行きなさい。私はここに甘やかされた身内よりも、よそ者を招いたのだ。(12-13,MSG訳)」

神の「あわれみ」は受けるにふさわしくないと感じている人々に対する優しさと赦しです。今日、主のあわれみを喜びをもって受け取りましょう。そして、同じように他の人にあわれみ深くありましょう。

祈り:主よ。人生のすべての嵐の中で、「主よ、助けてください。」と叫び求めるとき、あなたを信頼し、恐れることのないように支えてください。


神の備えに感謝する。

創世記21:1-23-23

アブラハムもその人生において多くの嵐を体験しました。今日の箇所には彼の葛藤が満ちています。しかし、嵐のさなかに穏やかな素晴らしい瞬間で始まっています。「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに、主はサラになさった(21:1)。」時に、私たちも同様に、待ち望む長い期間を強いられることがあります。しかし、主は約束はついに果たされるのです。待ち望む期間、神に信頼し続けることが求められるのです。

「サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。(21:2)」それは大いなる喜びの時であったことでしょう。サラは「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。(6)」と言いました。

しかし、アブラハムに嵐はすぐにやってきました。イシマエルがイサクをからかっているのを見ることになるのです(21:9)。それは家族に不和をもたらしました(10)。悲惨なことにハガルとイシュマエルは放逐されました(14)。このような離別は元を正せば、サラを通して息子が与えられることを信じる信仰に欠けて、女奴隷のハガルを通して子を儲けたアブラハムの罪の結果です。

時に、自ら蒔いた不信仰の種の結果を刈り取らなければならないことがあります。神はそれでもアブラハムと共におられ(12-13)、また追放されたハガルとイシマエルをも顧みられました(17-18)。これは私たちには理解することが難しい、矛盾した話のように見えますが、神は、罪深い状況の中にあってもご自身の恵みを働かせる神であることを見ることができます。

アブラハムにとって人生最高の試練はその後訪れます。「神はアブラハムを試練に会わせられた。(22:1)」

神は時々、私たちが試練に遭うことを許されます。神がアブラハムに息子イサクを実際にささげさせようと意図したとは思いません。子どもをいけにえとしてささげることは主の忌み嫌われることです。しかし、神はアブラハムに優先順位を確立させたかったのです。

新約聖書は、このテストがイサクについてのアブラハムへの神の約束のあとに来たことを思い起こさせています(ヘブル11:17-19)。それゆえ、このテストはアブラハムの信仰と彼の優先順位の両方についてなのです。

まず、これは信仰のテストでした。なぜなら、たとえ、アブラハムがその子をいけにえとしてささげたとしても、神がイサクについての約束を神が成就することを信頼し続けることが出来るかが試されたからです。アブラハムは何が起ころうとも、イサクは必ず復活すると神を信頼しなければなりませんでした(19)。

さらに、アブラハムの優先順位がテストされました。あなたの神との関係は、他のどんなものよりも、あなたの人生の最も高い優先順位を持っていなければなりません。あなたの人生のために神があなたに与えたビジョンやあなたの最も親しい人間関係よりもです。アブラハムは、どんな犠牲を払おうとも神に従うことを意思しました。彼の偉大な力は、彼がほかのどんなものより、また誰よりも神を愛したことによるのです。

感謝のことに、神は彼に必要ないけにえを用意しておられました。「神ご自身が全焼のいけにえのを備えてくださるのだ。(22:8)」これは神があなたのために備えてくださる偉大ないけにえの予表です。アブラハムがひとり子をいけにとすると考えたときにどのように感じたかを想像するとき、神がそのひとり子なるイエスを私たちのために払ってくださった罪の代価がどれほどのものであったかを思い巡らせることができるでしょう(ヨハネ3:16)。

イエスは「世の罪を取り去る神の小羊(ヨハネ1:29)」です。もし、神があなたの最も大きな必要のために究極の犠牲を用意してくださったのなら、あなたのその他のすべての必要に神がお応えにならないはずがあるでしょうか。ここで、アブラハムは神を「アドナイ・イルエ(Jehovah-Jireh)」あるいは「神は備えてくださる」(創世記22:14)と呼んでいます。彼は供給してくださるという神のご性質に感謝したのです。

神は偉大な供給者です。しばしば、私はこのことを実際生活の中で、また人々の中で私たちは体験します。神はご自身が約束した通りのお方です。使徒パウロもこう言っています。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)」

私たちの務めは神に従うことです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。(マタイ6:33a)」そして神は約束してくださるのです。「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(33b)」

神の供給と祝福は信じられないくらい大きなものです(創世記22:16-18)。「あなたの子孫(即ちキリスト)によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(18)」

祈り:主よ。あなたが、盾であり、救い主であり、供給者であることを感謝します。恐れることなく、あなたに信頼し続けることが出来ますように。どうか、あなたが私の人生で最も高い優先順位として歩ませてくださいますように。アーメン

H.K