優しさ
スティーブ・シェーグレンは「優しさの陰謀(Conspiracy of Kindness)」という題の本を著しました。彼はアメリカ、オハイオ州、シンシナティで教会を始めました。教会は急成長し、平均出席者数は7,500になりました。彼らのモットーは「大きな愛をもって小さなことをすることは世界を変える」です。彼らは親切な行動を手当たり次第に実行しました。たとえば、誰か知らない人のコーヒー代を支払ったり、店員さんに「ありがとう」というカードを添えるなどです。
優しさは愛の作業着です。神の愛を具体的な方法で見せることによって、彼らは、自分たちの生活と周りにいる人々の生活に、やさしさの力が前向きな変化に効果をもたらすことを発見したのです。思いがけない優しさは、最も小さな手間で最も力強く働き、人を変えるということにおいて最も見過ごしにされてきたものです。優しさが表現される時、健康な関係が生み出され、社会のつながりが息づき、優しさは人々の中に伝染していくのです。
神の優しさに信頼する
詩篇70:1-5
神は優しいお方であなたを愛しておられます。今日、あなたが必要とすることは何でも、あなたは神に叫び求めることが出来、神はあなたの助け、解放者となってくださいます。
「神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。(1)」とダビデは祈りました。さらに続けて、「私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。(5)」と神を見上げました。ダビデが叫び求めた時、神が今まで彼にしてくださった優しさをダビデは覚えていたのです。
私の聖書のこの箇所には、かつて彼が何年にもわたって叫び求めて祈り続けてきた、次の祈りの言葉が記されているのです。
祈り:主よ。本当にありがとうございます。あなたの優しさそして愛。今日、私は叫び求めます…。
優しく必要に答える
使徒3:1-26
一つの親切な行動が、その人の一日に、時には人生にさえ革命を起こすことができます。格言に「親切にしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。(プラトン)」とあります。親切は御霊の実の一つです(ガラテヤ5:22)。彼らが聖霊に満たされたちょうどその後、私たちはこの箇所でペテロとヨハネによってなされた(3:1-10)、後で「良いわざ(親切な行為,NIV訳)」(4:9)として描写されている出来事を見ます。
この「親切な行為」は、多分「力の伝道」として表されるのに最も適切な特筆すべき出来事のつらなりを導きました。それは、感嘆すべき教会成長を導きました。この「親切な行為」は、やがては全世界を爆発的に変える引き金の一つとなったのです。
もし、私たちが新しい教会を始めるように頼まれたとしたら、私は彼らがした方法でやっただろうかと考えてしまいます。彼らは建物を持たず、お金もなく、何も元手がありませんでした。漁師と取税人の集まりから始まったのです。他にあるものと言えば、その人たちは皆、異言を語ったいうことです!でも、教会は目を見張るような成長をもって爆発的に拡がっていったのです。
「外からの人たち」は「内側に起こった」ことを見て、関心を持ったのです。彼らはこの「親切な行為」を通して解き放たれた神のそのままの力に引き寄せられたのです。
この二人の男たちは夕拝に向かう途中でした。彼らがそこに行こうとした時、彼らは心底必要を訴えて物乞いしている人に会いました。誰かの親切を受けることが出来るかもしれないと望みを持てるようなある場所に行けば、そのような人に私たちも会うことが出来るかもしれません。
「生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた。(2)」その門は「美しい」と呼ばれていましたが、彼らがそこで見たのは、この世が美しいとは見ない、生まれつき足が効かない、物乞いだったのです。
彼らの心は、その対照的な光景を見た時に重く沈みはしませんでした。むしろ、彼らの信仰が湧き上がりました。彼らは行動しました。それは彼をいやすことです。彼らは必要のある人を見ました。彼らはすべての人間の内面の美しさを認識しました。彼らは金銭を持ってはいませんでしたが、ペテロは言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(6)。」
イエスの御名には大いなる力があります。ヘブルの人々にとって人物の名前にはその人の名前の性質が啓示されています。イエスの名は祈りの最後にとってつけるお題目のようなものではありません。これは、イエスのミニストリーと弟子たちのミニストリーとの違いです。イエスはご自身の権威によって癒しましたが、弟子たちはイエスの名によって癒すのです。同じように、私たちはイエスによるのです。私たちが弱くても、あなたも私も、イエスの力とイエスの御名によって、ご自身の働きを為すことを続けるのです。
この男は癒されただけではなく、彼は自分の足で跳び上がり、歩き始め、そして神を賛美しました。(8)そして、多くの人々もまた回心しました。この一つの親切な行動が目を見張るような結果をもたらしたのです。彼らは「この人の身に起こったことに驚き、あきれた。…非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。(10-11)」神の力の現れは福音の宣言と同時に起こります。彼らはイエスについて語る機会を持ったのです。イエスの死と復活、そして信仰の必要についてです。」(14-16)
私たちの説教はいつも「イエス中心」であるべきです。ペテロの第二の説教は、最初の説教と同様に、すべてイエスに焦点が合わせられたものでした。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。(12)」とペテロは説教を始めました。ペテロは、人々が自分に注目してほしいとは思いませんでした。ただ、イエスにです。
話の内容はすべてイエスについてです。イエスは神の「しもべ」でした(13)。「このきよい、正しい方」(14)、「いのちの君(15)」そして、「私(モーセ)のようなひとりの預言者(22)」です。ペテロは言いました。「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。(16)」
ペテロはイエスについて良い知らせを告げました。彼は罪、十字架、復活、そして神に立ち返って悔い改める必要について語りました。彼は、彼らの罪が赦されること、そして、神との関係が修復されるという神の約束を彼らに保証しました。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。(19)」
神の臨在の内に時間を過ごすとき、「新鮮にされる時」がもたらされます。あなたが疲れ果て、へとへとになった時、神と過ごす時間を持つことによってリフレッシュされるのです。時々、あなたは、自分自身を仕事から切り離し、イエスがなさったように、寂しい所に行って、神と時間を過ごすことを学ぶ必要があります。聖霊はご自身の優しさをもって、あなたを「リフレッシュする時間」をもたらしたいと願っておられるのです。
祈り:主よ。イエスの御名にこんなにも力があることを感謝します。私は今日、誰かに優しさを見せる機会のために祈ります。その人をイエスの御名によって助けることができますように。
優しくし、優しくされる
2サムエル9:1-10:19
神はエンドレスに親切を供給し続けるお方です。ダビデは「神の恵み(NIV訳:親切)」を施したいと願いました(9:3)。誰かに親切にすることは、あなたへの神の恵みを表現する方法です。
ダビデは「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。(1)」と言いました。そして、ツィバを呼び「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。(3)」と言いました。
ヨナタンの子、メフィボシェテは父が死んだ時5歳でした(4:4)。そして、その時、彼は小さな息子を持つまでになっていました(9:12)。ダビデはエルサレムに君臨して少なくとも7年は経っていましたメフィボシェテはたぶん20歳くらいだったでしょう。ダビデがメフィボシェテに見せた優しさは、神が私たちに与えてくださる優しさのようです。それは尽きることなく、見返りを求めず、無制限です。
繰り返しますが、特別な優しさが示されたのは、身体に障がいを持った人であったのです(3)。ダビデはメフィボシェテに「恐れることはない。私は、…あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。(7)」と言いました。
それから、ダビデは優しさを表すさらなる機会を探しました。「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように(10:2)」悲しいことに、時々起こることですが、この善意は誤解されました(3)。しかしながら、これによって意欲をなくすべきではありません。特に自分に対して親切にしてくれた人の子どもたちに優しくすることは自然であり、正しいことです。
メフィボシェテは「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。(8)」と言いました。彼は貧しい自己認識を持っていました。私たちの多くにも当てはまりますが、彼は自分の不完全さに焦点を当てました。しかし、神の私たちへの祝福は、私たちの不完全さにもかかわらないものです。神は私たちにご自身の無制限の優しさを経験してほしいと願っておられるのです。あなたの罪、失敗、弱さ、過失など、欠点にばかり目を向けてはいけません。キリストにあって、神はあなたにご自身の義を与え、キリスト・イエスにある豊かさとご自身の優しさをあなたに注ぎたいと願っておられるのです。(エペソ2:7)。
祈り:主よ。あなたが私に与えてくださった豊かな優しさを感謝します。どうか、必要を持った人々に優しさを示す機会をいつも見出すことが出来ますように。アーメン。
H.K