2019年8月27日
第239日
神に油注がれた者
あなたは神によって「油注がれた」ということを今、実感していますか?「油注ぎ」というのは特別なクリスチャン指導者や説教者のためだけのものではありません。それは私たち皆のためのものです。この油注ぎはあなたに罪に、誘惑に、悪に打ち勝つ力を与えるということをあなたは知っているでしょうか?この油注ぎはあなたに祈りと礼拝で神につながることを得させることをあなたは知っているでしょうか?この油注ぎは、あなたを他の人々に神のメッセージを宣言することができるようにするということをあなたは知っているでしょうか?
これは皆、可能です。なぜなら、神はあなたに聖霊を与えたからです。聖霊はあなたの将来の保証であられるだけでなく、聖霊は頭金を払ってくださるのです。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(2コリント1:21-22)」
あなたが家の賃貸契約を交わそうとする時、普通は敷金を納めます。それは保証金であるばかりでなく、将来の支払いの一部でもあります。神は「ご自身の霊によって、永遠の誓約をもって証印を押されました。それは彼が完璧に決定づけたことの確かな始まりです。(21,MSG訳)」)聖霊があなたに与えられたことによって、やがてある日あなたがすべてを受け取るものの前受を、すでに神はあなたに与えられたのです。この聖霊の油注ぎは実際には何を意味するのでしょうか?
あなたへの神の親の愛を今経験する
詩篇103:13-22
私たちに子どもたちが生まれた瞬間、ピッパと私は子どもたちへの愛が溢れかえるのを感じました。それは今日まで続いています。これはすべての親の自然な本能です。私たちは自分の子どもたちに抜きがたい愛を感じるのです。それは子どもたちの振る舞いや実績にではなく、単純に彼らの存在そのものに根差すものです。
これが神があなたを愛する方法です。ただなおさら、「親が自分の子に対して感じるように、神はご自身を恐れる者に対して感じるのです。」(13,MSG訳)
あなたは今まで神のあなたへの愛を感じたことがありますか?どんな親が自分の子どもを愛するよりも神があなたを愛することがはるかに優っていると深く知っていますか?この愛を聖霊によってあなたの心に注がれるのを体験したことがありますか?神はあなたにこの親子のような会いを経験して欲しいと願っておられ、それが永遠に続いていくことを願っておられるのです。
ダビデはこの地の人生だけでないという事実のほのかな光を垣間見ていました。「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。(17-18)」
祈り:「わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)」主よ。あなたを賛美します。子に対する親の愛よりもどんなに大きなあなたの驚くべき愛とあわれみのゆえに。あなたが私を油注いでくださり、私の心にご自身の霊を置いてくださり、そうして私が今すぐその愛を経験できることを感謝します。
神の約束を今、経験する
2コリント1:12-22
神の約束のすべてはあなたのためであることをあなたは認識していますか?「神が約束されたことは何でもイエスの『はい。』という印を受けたのです。
聖霊によって、神は「神の『はい。』を私たちに与えてくださいました。神の霊によって、神は永遠の誓約をもって証印を押されました。それは彼が完璧に決定づけたことの確かな始まりです。(21-22,MSG訳)」
よく「神が約束を与え、信仰がそれを信じ、希望がそれを予期し、忍耐がそれを待つ」と言われる通りです。
あたかも旧約聖書の神の約束がイエスの内にはっきりと示され、再確認されたようです。聖パウロが次のように説明しています。「神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。(20)」私たちは神の愛の究極の表現を十字架に見ます。そして神の愛の究極の体験を聖霊を通して知ります。
旧約聖書に隠されていたものが新約聖書で明らかになるのです。キリストにあって、あなたは神の永遠の愛をいつまでも楽しむことが出来るのです。聖パウロが「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(21-22)」パウロにもコリントの人々にも油注がれた神は同じです。
特別なクリスチャンだけが油注がれるというのではありません。「神はこの方に聖霊と力を注がれました。(使徒10:38)」イエスに油注がれた同じ聖霊があなたを油注ぐというのはなんと驚くべきことではありませんか。あなたは聖霊によって「油注がれ」それは私も同じです。「前受け」としてあなたの内に住んでおられる神の霊はまた、神の「油注ぎ」を与えてくださるお方でもあります。この約束が如何に豊かで美しいことかを理解するために、私たちはその背景を理解する必要があります。そのうちのいくつかを今日の旧約聖書の箇所で見て行きましょう。
祈り:主よ。神のすべての約束は、キリストにある「はい」(2コリント1:20)に見出すことができますことを感謝します。あなたは「確認の印(22)」をもって私を油注いでくださいました。そしてあなたの霊を私の心の中に「前受けとして、やがて来るものの保証(22,NIV訳)」として与えてくださったことを感謝します。
あなたの人生への神の油注ぎを今経験する
2歴代29:1-31:1
旧約聖書において、三種類の人々が油注がれました。王と、祭司と、預言者です。聖霊が私たちに働いてくださり、私たちは皆、今、王としての油注ぎ、祭司としての油注ぎ、預言者としての油注ぎを受けました。これは実際的には何を意味するのでしょうか?
- 王としての油注ぎ
あなたは誘惑、罪、悪に対して闘うために王としての油注ぎを受けています。
ヒゼキヤは油注がれた王でした。王は葛藤し、格闘するすべての民を導きます。ヒゼキヤは「良い王でした。(29:2,MSG訳)」彼は「働きに出かけ、全てのリーダーたちを町に集めました(20,MSG訳)」彼らは神殿を修復し、過越しの祭りを祝い、偽りの偶像をすべて取り除けました(31:1)。
ヒゼキヤは彼らを招待し、「神の背いたあなた方の先祖の罪を繰り返してはならない。…神の伸ばされた手をしっかり握りなさい。聖なる礼拝をささげに神殿に来なさい。…あなたの神は恵み深く、優しく、あなたを冷たくあしらうことがないお方です。さあ帰って来なさい神は両手を拡げてあなたを迎えてくださいます(30:7-10,MSG訳)。」
ラニエロ・カンタラメッサ神父は王としての油注ぎは、聖霊が「イエスと教会にサタンに対抗して闘うことを駆り立てることを意味すると記しています。私たちは皆、この王としての油注ぎを受けているのです。聖霊は私たちに各々、誘惑、罪、悪に対する私たちの戦いの中で、私たちを奮い立たせているのです。神があなたのそばに来て、あなたが打ち勝つ力を与えてくださることを知って、あなたは、あなたが誘惑に遭う時、聖霊に助けを呼び求めることが出来るのです。 - 祭司としての油注ぎ
祈りと礼拝のためにあなたに祭司としての油注ぎが与えられました。
旧約聖書の祭司は、特にこの箇所において、神と人間との間の仲介者としての油注ぎがありました。私たちはここで、彼らが牛、羊、やぎなどのいけにえをささげるのを見ます(29:20以降)。彼らは牛や羊の血を祭壇に注ぎかけました。彼らはヤギに手を置いてそれらをささげました。それらは罪のための贖いのささげもののでした。「
彼らが牛をほふり、祭司たちがその血を受け取って、祭壇に注ぎかけた。ついで雄羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。ついで子羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。(30:22)」
イエスはこの祭司としての油注ぎを神の小羊として死なれ、ご自身の血を私たちに注ぎかけ私たちの罪を取り去ることで成就なさいました。
もう一つの祭司としての油注ぎの感覚を私たちにもたらすものがあります。教会です。私たちはイエスにあって祭司としての油注ぎを分かち合うのです。「あなたがたは…王である祭司(1ペテロ2:9)。」聖霊はイエスと教会を祈りに駆り立てます。あなたの祈りで、かつて神の前に民の仲介者としての奉仕を祭司がしたようにあなたは祭司の務めを果たします。 - 預言者としての油注ぎ
あなたはイエスについての良き知らせを語る預言者とのしての油注ぎを受けています。
歴代誌の作者は「預言者ナタン(2歴代29:25)」に言及します。そしてこう言います。「これは神の預言者によって取り運ばれた神の命令であった。(26,MSG訳)」旧約聖書の預言者たちは主の言葉を語るために油注がれました。バプテスマの時に聖霊によって油注がれたイエスは良き知らせを貧しい者たちに語りました。この同じ聖霊があなたに油注ぎを与えあなたに主の言葉を今日語らせるのです。あなたはこの預言者としての油注ぎを受けているのです。
教会はこの世界にイエスの良き知らせをもたらす神の代務者なのです。あなたが友人にイエスについて語るとき、アルファに誘う時、例えば、いろいろな方法で彼らの生活に語り掛ける時はいつも、あなたはこの召しに応えているのです。
祈り:主よ。私に王としての油注ぎを罪との闘いの中で成就してください。誘惑に遭わせず、悪から守ってください。
同じように、私に祭司としての油注ぎを他の人々のために祈ることをさらに忠実にできるように与えてください。貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、すべての悲しむ者を慰め、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためです。それらは聖霊から来ます(イザヤ61:1-3,ルカ4:18-19)。アーメン。
H.K
References
Raniero Cantalamessa, The Holy Spirit in the Life of Jesus, (Liturgical Press, 1994).