Tokyo Chapel

2019年4月15日

第105日

あなたが記憶することを選ぶ

記憶とは奇妙なものです。覚えたいと思っていないのに、忘れられないものというものがあります。また、覚えたいと思っているのに簡単に全部忘れてしまうというものもあります。

社会全体にとって忘れられない重要なものがあります。世界中で、私たちは、その国のために死んだ人々の名前を記した戦争記念碑を見かけることができます。そこには多くの場合「私たちは忘れない(Lest We Forget)」という言葉が記されています。アウシュビッツ強制収容所の額には、「歴史を思い起こし得ない者は、歴史を繰り返すように運命づけられている(ジョージ・サンタヤーナー)」と記されています。

私たちは、私たちの記憶をいくらか制御しようとします。聖書の中には「忘れる」ことについていくつかの箇所で言及されています。また、他の箇所では私たちは繰り返し「覚える」ように招かれています。あなたは、何を「忘れるか」あるいは、何を「覚えるか」を選択することができます。

聖書の中にはヘブル語やギリシャ語で「覚える」という意味の言葉が250回登場します。神があなたのためにしてくださったすべてのことを忘れてしまうのは容易いことです。神がしてくださったすべてのことを覚えるために、地域的にも世界規模でも、教会の歴史の中でそうであったように、あなた自身の人生を振り返ることは重要です。

最後の晩餐において、イエスは聖餐式を行われました。それは、世界の歴史の中で中心的な出来事、すなわちイエスの死と復活を忘れないようにするためでした。


いつもイエスを覚える。

詩篇45:10-17

時代は移り変わりますが、イエスの名は永遠です。

新約聖書は、この詩篇をイエスに当てはめています(ヘブル1:8)。初代教会はキリストとの関係をここで表現されているように花嫁と花婿の関係になぞらえました。

イエスは教会を愛します。「王は、あなたの美を慕おう。(45:11a)」とある通りです。そして教会はイエスを拝します。「彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11b)」「わたしはあなたの名を代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。(17)」とある通りです。王であるイエスはいつも覚えられるべきお方です。すべての国民は永遠にこのお方を礼拝するようになるのです。(黙示録5:13)

祈り:主イエスよ。今日、私はあなたを礼拝します。わたしはあなたの名を代々にわたって覚えることができますように。国々の民が世々限りなく、あなたをほめたたえるために。


貧しい人々を覚える

ルカ16:19-17:10

もし、あなたが今日食べるものがあり、履く靴があり、雨風をしのぐ屋根を持っているなら、世界の中であなたは「裕福な人」です。自動車を所有しているなら、(自転車を持っている人さえ)世界の中で「とても裕福な人」です。

この箇所は、世界中の貧しい人々と比較して自分自身の状況を見るとき、個人的に大きなチャレンジを覚えます。また、たとえばアフリカのような私たちの世界規模の隣人を見るとき、社会にも大きなチャレンジを受けます。テレビや他の世界規模のコミュニケーションの方法によって、彼らは今「その門前(16:20)」にいるのです。

19世紀の説教家D.L.ムーディーは「子よ。思い出してみなさい。(16:25)」というフレーズをよく用いました。このたとえ話は、私たちの生活に警鐘を鳴らします。(これは、たとえ話なので、死後の様子を完全に教えているわけではありません。)

たとえ話の中でアブラハムは、今まで派手に浪費してきた金持ち(19,MSG訳)に言います。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(25)」金持ちは、貧しい者に対して間違った行動を取ってきたことを対応を裁かれています。ニッキーは西ヨーロッパに(私たちは日本に)住んでいます。これらは世界の中で最も裕福な地域です。世界のほとんどの地域と比較するなら、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。(19)」という姿です。

金持ちは、ラザロの貧しさに気付いていました。なぜなら、いつも門の前で「全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた(20-21)」のですから。メディアは私たちに世界中の貧困を伝えています。今こそ行動すべき時です。私もこの金持ちと同じように言い訳できません。旧約聖書において、人々はモーセと預言者の言葉に従って行動するように召されていました(29)。私たちは「覚えること」に召されています。そしてイエスの死と復活を生きるのです(31)。

しかし、このたとえ話は裕福さを非難しているのではありません。天の存在として描かれているアブラハムは非常に裕福でしたし、天においてもそのように描かれています(22)。この裕福な人の金銭への愛は、彼の霊的状態を表しています。そして悔い改めと信仰に基づく神との親しい交わりを欠いていたこと示しているのです。

彼は自分の間違いに気づき、アフラハムに言いました。「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼ら(男の5人の兄弟たち)は悔い改めるに違いありません。(30)」アブラハムは答えました。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(31)」

もし、この金持ちがモーセや預言者たちに耳を傾けていたなら、彼は悔い改めて神に信仰を置いたことでしょう。ルカは、イエスののこのたとえ話を記録することによって、イエスが死からよみがえったという証拠を知っている読者が自分たちも言い訳することが出来ないという事実に、もちろん直面させたのです。私たちは悔い改めてイエスに信仰を置くことにチャレンジを受けているのです。

今日の新約聖書の箇所の基礎をなしているのは、悔い改めと信仰に基づく神との関わりという共通のテーマです。

これは、次のセクションへと続いています(17:1-4)。イエスは、私たちが誰かの罪の原因になったり人が仕掛けた罠に陥ったりすることを避けて、私たちを自分の生活をよく見張るようにと招いています。常に赦しの生活を生きなさい。たとえ、一日に七度あなたに罪を犯す者がいても赦しなさい。

弟子たちはこれを可能にするのは大きな信仰だけであると認識していました。彼らはイエスに言いました。「私たちの信仰を増してください。(5)」イエスは答えました。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)」

この信仰は謙遜へと導きます。あなたが神に仕えることにおいて、あなたは決して神を疑うことができません。私たちが為すすべてのことは、ただ神が私たちのためにしてくださったことへの感謝から出るのです。私たちは皆、世の終わりの日に「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです(10)」と言うのです。

信仰は筋肉のようなものです。屈伸する度に鍛えられます。あなたの信仰が増し加わる一つの方法は、神があなたにするように願っておられることをすることです。

もし、あなたが「子よ。思い出してみなさい。…」という忘れられない言葉を聞くのを避けたいと願うなら、特に貧しい者へのあなたの応答において、今こそ悔い改めて、イエスに信仰を置き、あなたの信仰を生きる時なのです。

祈り:あわれみの主よ。私の罪を御赦しください。いつも私が赦すことができますように助けてください。私の信仰を増し加えてください。私の眼を開き、私の周りにいる人々の必要を見せてくださり、今実行することができますように。


神があなたのためにしてくださったことを覚える

申命記23:1-25:19

今日の箇所で、神の民は「思い出しなさい。」と言われています(24:9、18、22、25:17)。特に、彼らはエジプトにおいて奴隷であったことと彼らの神である主が彼らを贖われたことを覚えなければなりませんでした(24:18-22)。実に、今日の箇所の最後は「これを忘れてはならない。(19)」という言葉で締めくくられています。

ここで再び、貧しい人々との関連があります。彼らはエジプトで奴隷でしたから、彼らは苦難の中にある人々…孤独な人、みなしごややもめ(24:21)を心に留め覚えるべきでした。彼らは貧しい者や必要のある者を世話すべきだったのです(14)。

貧しい者たちに向けられる寛大さは個人のあり方ではなく、律法として与えられたものでした。貧しい者の必要に応えて供給することは律法を持つ社会にとって実に正しいことです。しかし、それはそこで留めるべきでありません。それはすべてのクリスチャンが招かれていることです。

旧約聖書の神の民がエジプトに居た頃は奴隷であり、神が彼らを贖われたことを覚えるように召されたのと同様に、私たちもまた、かつては罪の奴隷であったことを覚えるのです。イエスはあなたを奴隷状態から贖われたのです。

定常的にイエスがあなたのために為された御業を覚えましょう。聖餐式がとても重要である理由がここにあります。イエスは言われました。「わたしを覚えてこれを行いなさい。(ルカ22:19)」

クリスチャンの歳時記の目的は覚えることです。クリスマスに、私たちはキリストの受肉を覚えて祝います。ペンテコステに、私たちは聖霊の注ぎを覚えて祝います。

極めつけは、イースターに、私たちはイエスの死とよみがえりを覚えて祝います。復活はクリスチャンの歳時記の頂点です。初代教会の時代から、クリスチャンはイエスの覚えてパンとぶどう酒をもって礼拝する中でイエスの死と復活を覚えてきたのです。

祈り:主よ。あなたがイエスのからだを私に与え、イエスの血を私に注がれたことを感謝します。聖霊の力によって、あなたの御言葉と聖礼典が、あなたに焦点を合わせ記憶させるものとなりますように。アーメン。

H.K