Tokyo Chapel

2018年12月3日

第337日

自信を持つ方法

誰かのことを「自信がある」と評すれば、普通はそれは誉め言葉です。しかし、自信には良いものと悪いものがあります。悪い自信というのは、神以上に自分が価値あるものだと考えることです。これは傲慢です。良い自信は自分自身をキリストにあって、そしてキリストを通して、自分の価値を認識することです。自然な世界で自信といえば、それは「自分を頼りにすること」です。霊的な世界においては、「神を頼りにすること」です。その極みは、神の臨在のうちにある自信です。


自信喪失

詩篇137:1-9

生々しい怒りにとても心安らぐ何かがあるということをこの詩篇は表現しています。それは、あなたは神の前に現実の存在であってよいこと、そして正直な存在であって良いことを、そして、あなたは、あなたの祈りを検閲する必要がないということを思い起こさせます。神はあなたの最も暗い思考でさえも取り扱うことがお出来になるのです。

神の民は神の臨在の内にある彼らの自信を喪失しました。詩篇の作者は、エルサレムから、そして神の臨在なる神殿から引き連れられ、バビロンへの捕囚のさなかにありました。神の民にとって捕囚について最悪であったことは、神の臨在から引き離されるというこの感覚でした。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。(詩篇137:1)」

「おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする(8-9)」という彼らの暴力的な反応と報復の願いは、あなたの敵を愛する(マタイ5:44参照)という新約聖書の戒めからは程遠いものがあります。しかし、それは苦しめられた民の嘆きの叫び(詩篇137:3)であり、神の臨在を求める切なる願いなのです。

祈り:主よ。私は今日、あなたの臨在を切に求めます。


自信回復

1ヨハネ3:11-4:6

自信と愛は密接に関連しています。もしあなたが、あなたへの神の愛を知ったなら、あなたは神を愛し、他者を愛します。そして、あなたは神の前に、そしてあなたと共に生きる人々の前に自信をもって生きることができるのです。

愛は単なる感情ではありません。それは行動を包含します。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(3:16-17)」

神が人々を愛しており、あなたが彼らを愛していることをその人々に告げることは重要です。しかしながら、言葉だけでは十分ではありません。「私の親愛なる子どもたちよ。愛について語るだけではなく、愛を現実に実践しましょう。(18,MSG訳)」
イエスが、行動(特に貧しい者たちへの)によって愛を示されたように、あなたの愛を表現しましょう。

これは、必要を大いに覚える多くの兄弟姉妹がいる世界に発せられた挑戦に満ちたとてつもない命令です。世界的な貧困問題、不正問題、疾病の予防についての問題に対して、私たちは行動を取らねばなりません。また、地域の教会の場において、あなたの愛を言葉だけでなく、真実な行動によって見せましょう。

神はあなたに、ご自身の前に自信をもって立って欲しいと願われます(21)。神は「神の前に大胆であり自由である!(21,MSG訳)」ことをあなたに願っておられるのです。

自信は罪に定めることの対局にあります。罪に定めることは神から出たものではありません。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」罪に定めることは、訴える者である悪魔から、そしてまた、自分自身の心から(1ヨハネ3:20)出るものです。

罪に定めること、すなわち「衰弱させる自己批判(20,MSG訳)」と、聖霊からもたらされる「罪を認めること」(ヨハネ16:8)には大きな違いがあります。聖霊が私の罪について認識を与えるとき、それは実に特定できるものです。私は自分が間違ったことをしたと知るのです。その目的は私が悔い改めることを、そして立て直され、再び立ち上がることを助けることです。

他方、罪に定めることは、もっと曖昧な罪や恥の感覚であって、それは、たとえ罪の悔い改めをして赦しを求めた後でさえ、自分自身を嫌なものであるという感覚にさせます。それは神の前に自信を奪うものです。

素晴らしい安心させる言葉は「神は、私たちが心に心配する以上に大いなるお方であり、私たちが自分自身を知っている以上に私たちをご存じのお方なのです。(1ヨハネ3:20,MSG訳)」です。誰も完璧な者はいません。しかし不完全な愛でさえ、あなたの人生に働いている聖霊を証明しているのです。あなたの心の中にその感覚を認識する時、完全なキリストの愛をもっと持ちたいというあなたの渇きは、あなたの確信を揺さぶるのではなく、むしろそれを確固としたものにしてくれるでしょう。

神はあなたを罪に定めようとはせず、あなたの失敗、弱さ、不完全さにもかかわらず、あなたを受け入れるのです。実に、神は、あなたが求めるものは何でも、神から受け取るようになることを約束しています。なぜなら、あなたが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです(22)。

神の命令を守り、神に喜ばれることとは何を意味するのでしょうか?それはとても単純です。二つのことが求められます。第一に、イエスを信じること、第二に互いに愛し合うことです。もしあなたがこれら二つのことをしているなら、あなたは神の内におり、神があなたの内に住んでおられることを確信することができます。「これが、私たちが神の深い、永続する臨在が私の内にあるという経験をどのようにするのかということなのです。…神が私たちに与えた御霊によって。(24,MSG訳)」

私たちの内に住んでいるのが神の霊であるかどうか、そしてその他の霊でないかどうかをどのようにして知ることができるのでしょうか?「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。(4:2)」

私たちは多くの闘いに面することになります。私たちはこの世から憎まれるでしょう(3:13)。多くのにせ預言者たちが出てきます。「神について語る者すべてが神から来たものではありません。(4:1,MSG訳)」しかし、あなたは確信を得ることができます。なぜなら「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(4)」

祈り:主よ。あなたの霊を通してあなたの臨在を知ることが出来、あなたの前に確信を得ることが出来ますことを感謝します。今日、イエスが愛したように、私のいのちを他の人々の前に投げ出す意志をもって、愛することが出来ますように。


付与された自信

ダニエル9:20-11:1

ダニエルとて完全ではなかったということは私にとって慰めです。ここまでの箇所でダニエルについて私たちが読んできたほとんどのことに彼の失敗を見ることはありませんでした。しかしながら、ここで、私たちは「私は、私の心を注ぎだしました。私の罪と私の民の罪をさらけ出して。(9:20,MSG訳)」という言葉を読みます。しかし、彼は祈り始めるや否や、祈りの答えが与えられ、「高い評価を受けている(23,10:11,NIV訳)」「あなたは、とても神に愛されている!(9:23,MSG訳)」と呼ばれます。

多くの預言者と同様に、幻と預言は、その成就には異なる層があります。直近の歴史的な成就と長期間を経た成就です。

長期間を経た成就はイエスの死についてでした。イエスこそ「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし(24)」たお方です。イエスは油注がれた方(ルカ4:18)でした。イエスは、洪水のように、再び来られます。

イエスはこれらの言葉をご自身の弟子たちに反復するように語られました。それはご自身に従う者たちが、ご自身が去ったのち、主の再臨までに直面するであろう葛藤について語られた時でした(マタイ24:6,8,15-16参照)。これらの預言は部分的には神に歯向かう者たちが興ってきた時に成就してきました。それはローマ帝国から、スターリンまで、そしてやがてある日、悪に対するイエスの最終的な勝利が成就されるまでです。

ダニエルは幻を見ました。それを新約聖書のレンズごしに読むと、私たちはそれがイエスについての幻であることが分かります。「私は見上げた。そして亜麻布の衣を着て、腰に純金のベルトをつけた人をみて驚いた。彼のからだは固く、輝いていた。あたかも高価な石から彫りだされたように。彼の顔は輝き、彼の眼はたいまつのように輝き、澄んでいた。彼の腕と足は磨き上げた青銅のようで、彼の声は深く、共鳴し、大きな聖歌隊の声のように響いた。(ダニエル10:5-6,MSG訳)」

これはヨハネの黙示録1:12-18に映画枯れているイエスの姿に酷似しています。だにえるがこのイエスの幻を見た時、「彼は膝の力が抜け、顔のから血の気が引きました。(ダニエル10:8,MSG訳)」

ダニエルがへりくだった時、彼は再び確信を取り戻しました。彼に告げる声が聴こえました。「リラックスしなさい。ダニエル。…恐れてはならない。あなたがわきまえようとしてへりくだった瞬間から、あなたの祈りは聞かれた。(12,MSG訳)」

幻は続き、そしてダニエルは彼が「人の手のような何かによって彼の唇が触れらたことで驚いた」様子を記述しました。彼はさらに続けて「私は口を開いて話し始めた…この人のような姿は再び私に触れ、私に力を与えた。彼は言った『恐れてはならない。友よ。平安があるように。すべてのことはうまくいく。勇気を出しなさい。強くありなさい。』彼が話す時に、私の内に勇気がみなぎってきた。私は言った。『さあどうぞ。私の主が語ってくださったように。あなたは私に勇気を与えてくださった。』(15-19,MSG訳)」

イエスがあなたの唇に触れてくださるとき、あなたは確信を与えられ、話し始めます(16)。イエスがあなたの身体に触れてくださるとき、あなたは確信を与えられ、行動する力を得ます(18)。

ダニエルに与えられたメッセージは「恐れてはならない…平安あれ!強くあれ(19)」でした。この自信はあなたにもたらされます。なぜならイエスがあなたに大胆さ、平和、力を与えられるからです。

祈り:主よ。私はあなたの臨在を切に求めます。あなたの言葉を理解し、あなたの前にへりくだることが出来ますように(12)。あなたがおられるという自信を与えてください。どうか私の唇に触れ、あなたのみことばを自信をもって語る力をあたえてください。どうぞ、私の身体にふれて、行動する自信と力を与えてください。私の恐れを取り去り、あなたの平安を与えてください。アーメン。

H.K

References

Oswald Chambers, If You Will Ask: Reflections on the Power of Prayer (Discovery Books, 1994) p.30.