2019年12月18日
第352日
主に栄光を帰する方法
十億人の人々がその救出を見守りました。2010年10月13日午前10時(世界標準時)ホセ・エンリケス・ゴンザレスは、チリ北部、サン・ホセの鉱山崩落により69日間閉じ込められた後、地下700メートルから救出されました。
当初、この崩壊で生き残っている人は誰一人いないであろうと思われました。取り残された33人は発見されるまでは、地下で閉じ込められ餓死しているだろうと考えれたのです。
彼らの多くは無神論者、不可知論者、非信者または名ばかりの信者でした。ホセ・エンリケス・ゴンザレスは人々をイエス・キリストに導いていたので、「伝道者」として知られていました。彼は祈りのグループを形成し、導きました。33冊の小さな聖書が友人たちから、差し入れられて、彼は二日に一回、祈り会を導きました。彼らはそこには34人いたのだと証しします。90歳の鉱夫、ジミー・サンチェスは言いました。「確かにそこには34人いたんだ。神が私たちだけをそこに取り残したりはしなかったからさ。」イエスは彼らと共にいたのです。彼らが鉱山から救出された時、救出された男たちは皆、そろいのTシャツを着ていました。そのTシャツの前面には「主よ。感謝します。」背面には「主に栄光と誉れがあるように」とプリントされていました。
私はホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会でホセ・エンリケスにインタビューする機会がありました。彼はこう言います。「本当のヒーローはイエス・キリストだよ。イエスだけが注目すべきただ一人のヒーローさ。人は鉱山の外と中とでしたことはともかくとして、イエスだけが栄光と誉れを受けるにふさわしいお方です。」
イエスは私たちに神の名が崇められるように祈りなさいと教えられました(マタイ6:9)。私の夫も大きな恐れは、私が何かすることや言うことで主の御名をおとしめることになってしまうことです。私の最も深い願い求めは、私たちの社会に再び主の御名が崇められるようになることです。
主の御名が崇められるのを見るために、あなたは何をすべきなのでしょうか。
悪ではなく、善をかき立てる
箴言30:24-33
私たちのすべての生活は自分自身にではなく、イエスの御名が高められるためにささげられるべきです。箴言の作者は言います。「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、たくらんだりしたら、手を口に当てよ。乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。(32-33)」「扇動者(かき回す人)」と呼ばれる人々は、議論や対立や怒りを引き起こす人々です。
その反対は良いことをかき立てることです。怒りをかき立てず、むしろ善をかき立てる誰かを探しなさい。自分を高めることを追い求めず、ただイエスだけが高められることを求めなさい。いつも主の御名が崇められることを求めましょう。
「かき立ててください。あぁ。主よ。あなたの忠実な民の意思は、良い働きの実をもたらし、あなたは豊かにほめたたえられることでしょう。私たちの主イエス・キリストによって」(英国国教会のアドベントを控えた前の日曜日の特祷)
イエスのメッセージを語る
黙示録9:13-10:11
あなたがこの世にイエスについて告げる時、あなたはイエスの御名を崇めているのです。すべての人が興味を持つわけではありませんが、ある人は持ちます。信じる者にとっては、そのメッセージは「蜜のように甘い(10:9)」のです。そして、彼らの人生はイエスによって創り変えられるのです。
裁きについての恐ろしい警告は第六のみ使いがラッパを吹き鳴らして続きます。身の毛のよだつ戦争(「騎兵の軍勢の数は二億であった。」,9:16)、無残な死と負傷があります。
二十世紀は多分歴史上最も暴力的で、戦争に巻き込まれた人数が最も多かったでしょう。それであっても悔い改めることを僅かにしかしませんでした。
「それらの兵器によって殺されずに残った男や女は好き勝手に行動し続け、自分たちの生活を変えようとしませんでした。…心を変える兆候はなく、人殺し、オカルト、性的放縦、盗みに堕していました(20-21,MSG訳)」あなたがニュースを見るなら、これらの言葉は、私たちの生きている間に成就するのではないかと思うことでしょう。
ヨハネは「もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来る(10:1)」のを見ました。これはイエス・キリストご自身のように響きます。彼は雲に包まれていました、それは神の臨在を象徴します。彼の頭上には虹がかかっていました。これは神の約束を象徴しています。「その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。(1)」これは黙示録の1章のイエスについての記述にとても良く似ています(1:12-16)。
「獅子がほえるときのように大声で叫んだ。(10:3)」― イエスは「ユダ族の獅子(5:5)」です。(今日の箴言の箇所には、獅子が次のように描かれています。「獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子」,箴言30:30)
イエスは小さな巻物をヨハネに与え、それを取って食べるように告げました。「それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。(黙示録10:9)」福音のメッセージはそれを拒むものには苦いのですが、それを受け入れる者皆にとっては、「蜜のように甘い(9)」のです。
そして、ヨハネはこのメッセージを告げ知らせるように言われました。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。(11)」
祈り:主よ。私たちを取り囲むすべての問題のただ中で、忠実に福音を宣べ伝えることができますように。そしてイエスの御名に栄光が再び帰せられるのを見ることが出来ますように。
主の栄誉のためのいけにえ
エズラ2:68-4:5
私たちは問題のない人生を期待すべきではありません。イエスは、私たちはこの世を生きる中で、問題を経験するだろうと私たちに警告しました(ヨハネ16:33)。信仰はあなたを問題から守るわけではありませんが、あなたが問題に対処する助けとなるのです。あなたの問題に焦点を当てるのではなく、それらからあなたを取り運んでくださるお方に焦点を当て、そのお方の御名に栄誉をもたらすために犠牲をいとわないようにしましょう。
神の民はエルサレムの神殿が再建されることを切望していました。バビロンによって神殿が破壊された時、神の御名は面目を失いました。今、それらが再建され、そして神の御名が栄誉を受けるのを見るチャンスが巡って来たのです。
彼らは二十歳以上のレビ人を、主の家の建築を指揮するために指名しました(エズラ3:8)。これは若いリーダーを指名するよい手本です。彼らは進んで自分たちの金銭や所有物をささげました。彼らは自分たちの能力に従って工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげたのです。(エズラ2:68-69)
ささげものは神への礼拝と奉仕の基本的な部分です。あなたのささげものは不承不承であったり、強制されたりすべきではありません。むしろ気前よい「自由意志に基づく献金」であるのです。あなたのささげ物を他人と比べないようにしなさい。むしろ、あなたがささげて差支えのない気持ちでささげましょう。このささげ物について素晴らしいことは、彼らの能力に応じて各々がささげ、彼らは必要なだけの金銭すべてを調達したのです。
もし、教会の中のすべての人が、犠牲を払って、気前よく、各々自分の能力に従って、ささげたなら、神の国は急速に発展し、主の御名は栄誉を受けるでしょう。
取り囲むすべての反対にもかかわらず(「彼らは回りの国々の民を恐れていた」,3:3a)、彼らは主を再び礼拝し始め、いけにえをささげ始めました。今日では、あなたの体を生きた供えものとしてささげて神を礼拝するのです(ローマ12:2)。すなわち、あなたが持っているもの、そしてあなた自身のすべてをささげて、主の御名に栄誉をもたらすように用いるのです。
彼らは、彼らが自分たちの礼拝を始める前に、神殿の完成を待ちませんでした。礎が据えられるとすぐに、「そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ3:11)」
活気に満ちた礼拝は現代的な現象だけではありません!人々は賑やかで騒々しかったので、「その声は遠い所まで聞こえた(12-13)」のです。しかし、喜びの叫びを多くの人々が上げる中で、コミュニティーの古いメンバーは「彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた(12a)」のです。
これは、多分、使われた石が、元来の神殿のものよりも小さく、立派ではなかったからでしょう。この神殿は答えではなく、聖霊の宮の予表にすぎないことを覚えましょう。キリスト・イエスご自身がその礎石となってくださった神の民こそが本当の神殿です(エペソ2:19-22)
神殿の建設に反対者が居なかったわけではありません。「…すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。(エズラ4:4-5)」
あなたが主に栄誉をもたらすことをし始める時、あなたは反対に遭うことでしょう。それは今日、教会の再建におていも、神の国の他の働きにおいても、必ずや反対に遭うものなのです。反対は彼らを遅らせることに成功しても、それを完全に打ち負かすことは出来ません。
祈り:主よ。あなたの聖霊の宮である教会、―神の民― を私たちの世代に再建してください。私たちが、がらがらになって見捨てられている教会の建物が、あなたを礼拝する人々で再び満たされますように。あなたの御名が私たちの世代に再び崇められますように。アーメン。
H.K