Tokyo Chapel

2019年1月13日

第13日

聖なる加速

数年前に、ピッパと私はイギリス南西部のサマーセットでのカンファレンスの講師として招かれました。ロンドンからは3時間ほどかかります。しかしながら、とても暑い日で前を走っていた干し草を積んだワゴンに火が点き、それが道路にこぼれ、アスファルトが溶けてしまいました。そのため、私たちは渋滞に巻き込まれて5時間ノロノロ運転しなければなりました。そのような時、渋滞を抜けた時の爽快感は格別です。

個人や教会の生活や奉仕の歩みの中でも、時に渋滞の時のように、前に進めない感覚に囚われることがあります。しかし、一方で、渋滞を抜けて「加速が始まる時」もあるのです。

神は、加速の神です。神は人間的な可能性を超えてはるかに速く事を為さることが出来るのです。


抵抗があることを心する

詩篇9:1-6

加速する時に、抵抗は増加します。あなたの責任や地位が高くなれば、あなたへの批判も増加します。神の民はいつも反対に遭いました。ダビデにはたくさんの敵がいました(9:3-6)。反対や敵というものは痛みをもたらし、やきもきさせるものです。しかし、キリストにあるあなたは、究極的に勝利を収めることが約束されているのです。

私たちはその前味を今日の詩篇から味わうことができます。ダビデは勝利のゆえに神を賛美しました。「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。私の敵は退くとき、つまずき、あなたの前で、ついえ去ります。(1-3)」

私たちは皆、敵に取り囲まれた世界に生きています。イエスは警告しました。「私が来たのは、しゃれた生活をさせるためだと思ってはなりません。(マタイ10:34,MSG訳)」そして、反対があっても驚くなと言われました。「平和をつくる者」であれと(5:9,38-48)。たとえ身近な人があなたの反対者となったとしても、あなたは復讐の循環を断ち切るために召されたのです。(10:34-36)

今日、世界のここかしこで、国家レベルであるいは民間レベルで、イエスに従う信仰のゆえに差別を受け、抑圧され、迫害を受けている人々が何百万人といます。

あなたは今、そのような反対に直面していないかもしれませんが、反対意見を持つメディア、あなたの信仰を理解しない友人や家族、職場の同僚からの抵抗があるとすれば、それはもっともなことなのです。

祈り:主よ。反対に遭う時、あなたを心から賛美します。私はあなたの不思議を語り告げ、あなたを喜び楽しみます(詩篇9:1-2a)。


犠牲を払うことを惜しまない

マタイ10:32-11:15

イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(10:37)。」と語り、弟子たちに主のためにすべてを犠牲にしてでも従うように召されました。あなたのイエスへの愛は、あなたの最も親しい家族への愛にも勝るものなのです。

イエスは続けて「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(38-39)」と言われました。パウロはそれを「あなたのからだを生きた供え物としてささげる(ローマ12:1)」と表現しました。

それが神のみこころを知り、何が良いことで、完全であるのかをわきまえることの出来る方法だからです(12:2)。もし、あなたがもっと神に用いられたいと願うなら、そしてもっと加速したいと願うなら、このような犠牲を受け止めなればなりません。

あなたがイエスのために仕えたことは何一つとして無駄になることはありません。小さな一人に水一杯を飲ませた者は必ず報いを受けるとイエスは約束されました(10:42)。

フランス、トゥールの聖マルチノ司教(AD 316-397)は、ある寒い日の夜、馬に乗って出かけました。すると一人の物乞いがおり、マルチノは馬から降りて、彼がまとっていたマントを半分に引き裂き、物乞いにかけてやりました。その夜、マルチノは夢を見ました。半分に割いたマントを着たイエスが現れたのです。マルチノがそのマントをどうして主がお持ちなのですかと尋ねると、イエスは「私のしもべ、マルチノが私に与えたのではないか。」と答えたというのです。

イエスがマタイの福音書で犠牲に関して語った元来の意味は。敵に囲まれた世界の中で、主に属する者になることを端的に語ったのでしょう。主は言われます。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)」

イエスが迫害や困難を引き起こす種になるかもしれません。最初の弟子たちの多くはそれを死をさえ覚悟して「自分の十字架を負ってついていく(38)」と表現したのです。私たちにとって、このような犠牲を払うことは簡単ではないでしょう。しかし、私たちもまた、同じように根本的なイエスへの献身に召されているのです。

祈り:主よ。犠牲を甘んじて受け取ることができますように。私の十字架を負ってあなたに従うことができますように。あなたと一つにされて、どんな状況があってもあなたを認めることを恥じることのないようにしてください。今日、生ける供え物として私のからだをお献げします。


チャレンジを楽しむ

創世記27:1-28:22

明らかにF1のレーシングドライバーはレース中に全身に大きな力がかかるので、並外れた肉体を作り上げ、肉体的に強靭でなければなりません。

もし、神の国の前進を加速させたいのなら、私たちはイエスがいうように激しく攻める者たち(マタイ11:12)になる必要があります。(いくつかの訳では「激しく攻める」を暴力的なニュアンスでとらえていますが、多くの講解は積極的な意味に解釈しています。)これらの者たちは犠牲をいとわず、反対にめげることなく二の足を踏まずに進んでいく人々です。そして彼らはチャレンジを楽しむのです。

教会の歴史を振り返るなら、私たちに感動を与えるような情熱をもってダイナミックな積極的人生に取り組んだ人々を見ることができます。彼らは世界を変えてきました。歴史を通して、天の御国は聖霊に満たされた人々がつかみ取りながら、前へ前へと進んできたのです。

イエスは言いました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)」これらの言葉の背景は、投獄されていたバプテスマのヨハネがイエスが預言者の一人であるかどうかを尋ねてきたことにあります。イエスは実際上「証拠を見なさい(4-5)」と返答しました。

イエスは続けて、バプテスマのヨハネほど偉大な人物はイエスの前にもまた教会以前にもだれもいないと言いました(11)。バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者です(13)。12節は、旧約聖書の時代に神の人たちが激しく天の御国を攻めたことについて言及しているのです。

ヤコブはそのひとりでした。後日、ヤコブが神の祝福を知ることを固く決心して素晴らしい方法で攻めたことを読むことができるでしょう(創世記32:22-32)。しかしながら、今日の箇所では、彼がどのように間違った方法で攻めたを見るのです。彼は父の祝福を受け取ることを決意していました。それがどれほど重要かを知っていたからです。そして彼は騙してそれを巻き上げました(27章)。

ヤコブの母リベカもまた攻める女でした。彼女はヤコブを偏愛しただけではありません。イサクを騙す陰謀を企てたのです。その結末は目も当てられない家族の確執です。これは時代が変わってもどの世界でも起こってきたことです。

この出来事そのものは、まったくためにならない物語であると判断することができるでしょうし、真似るべき良い見本とは言えません。

何を差し置いても、神の計画と目的は継続して進みました。神のアブラハムとその子孫への約束は継続したのです。それはヤコブに引き継がれました(28:13-15)。確かに、この兄弟たちが生まれる前に神は約束していたのです(25:23)。もし、すべての登場人物が心を開いて、潔く進んでおれば、多くの悲しみと心の傷を避けることができたことでしょう。

この登場人物とこの物語のほぼすべてに欠陥があるのですが、神はそれさえも用いてご自身の働きを進めるのです。完全な神は不完全な人々を用いることができるということに救いを見出します。

神はヤコブを祝福します。彼の父、イサクは彼を祝福しました(28:3-4)。後に神はヤコブに夢を通して語りました。ヤコブは天から地にのばされた梯子を見ます。そして天の使いがそこを上ったり下りたりしているのです(12)。私たちすべてのために天と地との間に道が開かれているのです。「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。(14b-15a)」

神はアブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとラケルのような「激しく攻める」人々を用いられるのです。またイエスはバプテスマのヨハネほど偉大な人物はいないと言っています。さらに、天の御国の一番小さい者でも、バプテスマのヨハネより偉大ですと言われたのです。その小さい者には、あなたもまた含まれているのです。

祈り:主よ。あなたは私とともにおられ、どこにいても見守ってくださっていることを感謝します。どうか、私を、激しく攻める者の一人として、人生をかけてイエスに従う感動と興奮と挑戦を楽しませてください。アーメン。

H.K