Tokyo Chapel

2018年2月26日

第57日

有名人やセレブより良いもの

ミレニアル世代(1980年前後から2005年ごろにかけて生まれた世代)を調査すると、ヤングアダルトの50%は主な人生の目標は有名になることとと答えます。それ以前の人々は何かをすることで有名になりたかったのですが、今は、セレブリティーは、それ自体になることなのです。それは神のような特徴を持つことです。人々は有名になりたいだけではなく、セレブリティーとしてのステイタスを達成して偶像化されるのです。広く行き渡っている有名になりたいという個人の関心は「セレブリティーのカルト」と評されます。それが西洋ポップカルチャーの顕著な社会現象となっています。

有名になることへの野心は喉の渇きをいやすために塩水を飲むようなものです。得られれば得られるほど、もっと欲しくなる。マドンナは、現時点で、この惑星で最も有名な女性でしょう。彼女がこう言っています。「私は神と同じくらい有名になるまで幸せにはならない。」

セレブリティーと名声は本物の栄光の弱々しい反射でしかありません。「栄光」は聖書の中では神の臨在の顕れを示すものとして用いられます。栄光は聖書の中で最も一般的な言葉でしょう。神の「栄光」とは、神ご自身の重要性、高い価値、主権と尊厳を意味します。

多分、社会が神の栄光を拝することから離れ去ってしまったということは驚くに値しないことでしょう。セレブリティーと名声という「栄光」を礼拝することへと社会は向かっているのです。しかし、私たちは神の栄光を礼拝するように召されています。そして、たとえ不完全であったとしても、それを私たちの生活の中で反映しているのです。


神の栄光を求める

詩篇26:1-12

ダビデは記します。「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。(26:8)」ダビデはまさにセレブリティーでした(1サム18:7)。しかし、自分のための栄光ではなく神の栄光を求めたのです。ダビデは今日の詩篇の最後を「私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」(詩篇26:12)と結んでいます。ダビデは人々を神の栄光へと導きました。

もし、あなたが主の栄光を反映したいと願うのなら、ダビデの例に倣いましょう。非難される所のない生活を導き(1)、よろめくことなく主に信頼し(1b)、あなたの心をきよらかに守り(2)、神の愛と真理によって導かれる(3)。あなたを引き下げるような「不信実な人」「偽善者」「悪を行う者」「悪者」というような人々に近づき過ぎることを避けなさい(4-5)。

ダビデは「私は非難される所のない人生を導きます(11a,NIV訳)」と言いましたが、続けてこう言います。「どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。(11b)」ダビデは次のことを自覚していました。それは、罪のない生活を生きるように努めるのですが、いつもそうできるとは限らないので、神の贖いとあわれみが必要だということです。罪なきことを主張するよりもむしろダビデは「誠実(1,11)」な人生を生きることを主張しているのです。それが正直で神のために心こもったあり方です。

同じ時代の他国の王たちは「セレブリティーのカルト」として自分が民に賛美されることを期待していました。しかし、ダビデは主への礼拝者だったのです。ダビデは記します。「主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。(6-8)」

旧約聖書の神の民にとって、エルサレムの神殿は神の栄光を見出すことのできる場所でした。新約聖書では、私たちは神の栄光の住まう、新しい神殿について読むことができます。神の臨在は人の内にあります。イエスはその神殿です(ヨハネ2:10,21)。神の栄光はイエス・キリストに極まって啓示されているのです(1:14)。

さらに、驚くべき真理は、神の栄光はイエスを信じるすべての人々にも宿っているということです。個人にも(1コリント6:19)群れとしても(1コリント3:16)、神の民は御霊が住む神の宮とみなされているのです。「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:22)

祈り:主よ。あなたがご自身の民のうちに栄光を宿らせてくださることを感謝します。私はあなたがおられる家を愛します。私は声を上げて賛美します。そしてあなたの素晴らしい御業を語り告げます。


イエスの栄光を反映する。

マルコ9:2-32

ペテロとヤコブとヨハネは彼らの目の前でイエスが姿を変えられたのを目撃した時、神の栄光を垣間見ました。おりしも、「人々はわたしをだれだと言っていますか。(8:28)」と尋ねられた後に変貌山の出来事があったのは偶然ではありません。神の子としてのお姿を弟子たちに顕わされたのです。

時間のカーテンが脇に寄せられ、弟子たちはモーセ(律法を代表する人物)とエリヤ(預言者を代表する人物)がはっきりとイエスの脇に生きていました。この弟子たちには、モーセとエリヤのすべてが分かりました。ユダヤの世界において、この二人は究極のセレブリティーでした。しかし、神はイエスをこの二人より優れた者だと言いました。

彼らがもう一度見るとそこにはイエスだけしかいませんでした(9:8)。ペテロとヤコブとヨハネは、イエスがやがて戻って来る時に、私たちが見るであろうイエスの姿を見ました。そこにはイエスの栄光が啓示されています。

変貌というここで用いられている単語は、「姿を変える」と訳されることばです。使徒パウロは記しました。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)」

今日のセレブリティーは、しばしば名声を求め、広く知られることを追及します。イエスは名声を求めず、むしろその逆でした。イエスは「『あなたが見たものを他人に言ってはなりません。(マルコ9:9,MSG訳)』と秘密を誓わせました。

セレブリティーはまた、しばしば、裕福で豪華なライフスタイルに関連しますが、イエスの人生は、苦難栄光は表裏一体で結びついています。変貌山から降りて来たとき、イエスは弟子たちをにこう説明しました。「人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれる(12)」と。イエスの「栄光」はこの世が求める類のものとは、今までもそしてやがても全く違うのです。

イエスのセレブリティーぶりを表す一つのことは「回りに大ぜいの人の群れ(14)」がいたことぐらいでしょう。「そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。(15)」

変貌山に一緒に行かなかった弟子たちは悪霊につかれた少年を癒すのに必要な信仰がありませんでした。イエスは言われました。「…信じる者には、どんなことでもできるのです。(23)」この世は言います。「まず見せてください。そうすれば信じましょう。」イエスは言います。「まず信じなさい。そうすれば見ることができる。」聖アウグスチヌスは記しました。「信仰とは私たちが見えないものを信じることです。信仰の報酬は私たちが信じるものを見ることです。」

イエスは少年を癒すのに大げさな儀式を必要としませんでした。このケースでは、手を置くことすらしていません。なんら争うこともなく、イエスの命令の単純な力が現れたのです。イエスは祈りの生活(28)の中でいつも闘いに勝利されたのです。

イエスはまっすぐにご自身の語られた苦難に向かって行かれました。「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる(31)」と。

祈り:主よ。今日、あなたの臨在のうちに過ごすことに時間を用います。そして、私が行い、語るすべてのことにあなたの栄光を反映させます。


永遠の栄光を待ち望む

出エジプト39:1-40:38

ダビデは宮に入って行った時、神の栄光を垣間見ました。弟子たちはイエスが姿を変えて彼らの前に現れた時、神の栄光を垣間見ました。あなたは、神の民とともに集う時、神の栄光を垣間見ることになります。

神殿の原型である幕屋が完成したとき、会見の天幕に雲が道ました。「神の栄光が神の住処に満ちた。(40:34,MSG訳)」雲がとどまり、「その神の栄光が幕屋に満ちた(35,MSG訳)」ので、モーセは天幕に入ることができないほどでした。

その瞬間、明らかに神の栄光は力強いものでした。幕屋には実際に見える形で「くだっておられる」ことが分かったのです。ヘブル語の「くだる(シャカイナー)」は現代においても時々、特に神の臨在と栄光の明白な力強い感覚を言い表すのに用いられることがあります。

神の栄光を表す幕屋の上のは、旅する神の民に伴い、彼らを日ごと、夜ごと、導きました(36-38)。今日、神の聖霊は同じように、あなたを導きます。変貌山の物語の中に登場する「」は旧約聖書が背景となっているのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがあの時体験したことは主の栄光の一端でした(マルコ9:7)。

新約の私たちには、神は「福音の内にキリストの栄光を輝かせ(2コリ4:4)」ておられます。あなたも神の栄光を垣間見ることができるのです。「私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(4:6)」

しかし、それは栄光の一部に過ぎません。やがて栄光そのものを見る日がきます。使徒パウロは地上では患難があっても「測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(4:17)」と記しているのです。

祈り:あなたがすべての栄光をやがて顕される、その瞬間のためにあなたは私たちを整えてくださっていることを感謝します。人生の葛藤の中でも「測り知れない、重い永遠の栄光」という観点を得ることができますように。アーメン。

H.K