2019年2月22日
第53日
イエスと共に時を過ごす方法
私は1974年2月にイエスと出会いました。私は「静思の時」と呼ばれる大切なことを、始めから教えてもらえたことをとても感謝しています。
「静思の時(聖書を読み、祈るために取り置く時間のこと)」という古めかしい表現はたぶん今日の新約聖書の箇所のイエスのことば「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」(マルコ6:31)から取られたものだと思います。私は18歳から毎朝このようにして一日を始めることを実践しています。私は静かな場所で、自分ひとりで、イエスとの時間を過ごすようにしています。ある時はとても短く、ある時は長く。朝食を取らずに一日を始めたくないのと同じように、私にとって霊的な糧なしに一日を始めることは想像できません。
ほぼ毎日、私は聖書を読むことで始めます。イエスに話すことよりも、イエスが自分に話すことがもっと大切だと私は信じています。この「日々の糧(Bible in One Year)」に送っているノートが今や毎日の私の土台となっているのです。
神を見る時
詩篇25:1-7
あなたは自分の環境にへこんだことが今までありますか?自分が失敗するかもしれないと、行く末を案じて不安を覚えたことがあるでしょうか?
ダビデは明らかにそのような恐れを持ったことがあり、私たちに静思の時の始め方を教えています。彼はこう言うことから始めます。「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。(25:1)」どのような試練が待ち構えていようともダビデは神に信頼することを決めていました。「わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。(2)」
ダビデは要するに、「私はあなたを見ています。神よ。(1,MSG訳)」と言ったのです。彼は明らかに攻撃のもとにあったのですが、神が彼に恥をかかせることは決してないと信頼しました。(3)彼の希望は神の内に「一日中」ありました(5)。
毎日、その日に起こることに備えて、神を見上げる時間を取りましょう。神にあわれみ、赦し、助け、導きそして解放を願い求めましょう。
祈り:主よ。私は毎日あなたに導きを求めます。今日もそうです。「手の内に私を取り、真理の道に私を導いてください。…私のために最善だけを計画してください。神よ!(5,7,MSG訳)」
イエスとだけ過ごす時
マルコ6:30-56
イエスは、主とだけ一緒に過ごす時を最優先にすることを弟子たちに教えました。イエスは彼らに言いました。「私と一緒に来なさい。あなた方自身で、静かなところへ。(31b,NIV訳)」そして、彼らは自分たちで「静かなところ」に退きました。(32,NIV訳)
イエスの生活のうちにとどまり続けるにはとてもたくさんの行動がありました。イエスは逃げたり、休憩したりするのはとても難しい生活を余儀なくされました(31)。神はイエスを驚くべき方法で用いました。まず手始めに、5000人を食べさせ、水の上を歩かせたのです!イエスはすべての人々の莫大な必要を見たのです。「そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。(34)」
彼らはイエスに飢え渇いており、文字通り、イエスのもとに走り寄ってきました(33,55)。それにもかかわらず、イエスは彼らを休ませるために行かせたのです。イエスは一人でいることが必要だったのです。イエスは祈るために山に登りました(45-46)。イエスは神とともにひとりっきりになる時間を優先させました。
祈りと行動は密接に関連しています。活動は関係から生み出されます。イエスは彼らを「深くあわれみ(34)」ました。ここで用いられている言葉はギリシャ語で「哀れみ」を表す最も強い単語です。「イエスの心は壊れた(34)」とMSG訳では訳されています。
イエスは弟子たちを彼らの奉仕を絶えず開発し励まし続けます。5000人の人々に食事を与えるのを、イエスは単に一人で奇跡を起こすことでは為しませんでした。イエスは弟子たちに言いました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。(37)」
時々、私は神が与えてくださっている奉仕にへこたれそうな気持になることがあります。しばしば、私は召された奉仕で人々を満たすには自分が小さすぎると感じるのです。そのような時、この箇所は大きな励ましとなります。イエスは小さなものから大きなことを為すことがお出来になるのです。もし、あなたがイエスにあなたが持っている小さなものを差し出すなら、イエスはそれを倍加し、すべての人々の必要に応えることがお出来になるのです。
イエスは効率よく、組織化し、実践的でした。「イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。(39-40)」
弟子たちが5000人に食事を配った後、イエスは再び彼らを自分たち自身で行かせました。イエスは弟子たちを船に乗り込ませ、ご自身が山で祈るまでの間に、先に行かせました。
イエスが私たちにせよとおっしゃることを私たちがしている時でさえ、時には、それがとても難しく、困難な仕事となることがあります。問題と、恐れと疲れに満たされておぼえてしまうことがあります(50)。弟子たちは「向かい風のために漕ぎあぐねて(48)」いました。イエスは彼らに合流した時に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない(50)」と語られました。
イエスは舟に乗り込まれると、「風がやんだ(51)」のです。私たちはイエスが私たちの人生にもたらす変化を見ます。私たちがイエスが私たちとともにおられるという意識を持つまで、私たちは悪戦苦闘するのです。
イエスを認識した者だけが、この関係を楽しむことができるのです。(54)このお方を認識した者は駆け寄り(55)、「さわった人々はみな、いやされた(56)」のです。
祈り:主よ。人生の嵐の中であなたが「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない(50)」と言ってくださることを感謝します。
神からの助けを得る時
出エジプト31:1-33:6
イエスが弟子たちに去らせたかった理由の一つは休息をとるためでした(マルコ6:31)。今日の箇所で休息を得ることの重要性を学ぶことができます(出エジプト31:13-17)。毎日の生活におけるスケジュールを一度見直しましょう。そして、優先してこれらの時間を割きましょう。
イエスとだけ過ごす時とはイエスに聞く時を含みます。イエスが私たちに語ることを聴くための中心的な方法は聖書を読むことです。イエスとだけ過ごす時を私たちは簡単に、誘惑に負けてしまって、しばしば後回しにしてしまうのです。
出エジプト記32章で、民は主が成してくださった御業を簡単に忘れてしまい、主を疑い、その結果、罪に陥るのを私たちは見ます「彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、…」(32:8)。
民が偶像礼拝に堕した理由は、第一に忍耐の欠如でした。彼らは神のタイミングを待つことができなかったのです。私たちにとって長いと感じる時であったとしても、神はご自身の業を忘れたり怠けたりしているのではありません。
人々が偶像である金の子牛を造った後で、モーセは全体に禍が下されるのを回避するための祈りを捧げました。祈りの力によって、歴史の道筋を変えることが出来たのです。
アロンは偶像礼拝の片棒を担いでしまいました。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。(21)」実際、アロンは単純に民の意見に従ったのです。それは民の考えでしたが、それを実行したのは彼でした。しかし、神の目にはまだ彼はリーダーでした。彼は人々を罪に導くことを自分に許すよりもむしろ、彼らに反対して立つべきでした。
アロンは答えました。「あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。…彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。(22-24)」これは明らかにナンセンスですが、ともする自分自身を正当化するために、事実をゆがめてしまうのです。
今日の箇所は新約聖書の説明の光によって完全に理解することができます。聖パウロは「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(1コリント10:6)」と記しました。パウロはこの箇所が4つのことを戒めていると言っています。
- 放縦(1コリント10:7、出エジプト32:6)
- 性的乱交(1コリント10:8)
- 自己崇拝(9)
- つぶやき(10)
聖パウロはさらに続けて「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(11)」と言います。ここでの裁きの厳しさはそれらの罪がどれほど深刻で破壊的であるかのしるしです。これらは神が彼らを腐敗させたくないと願っておられることを表しています。
しかし、パウロは単にやり過ごすことなく、どのように誘惑を取り扱えばよいのかを私たちに告げます。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(13)」
最後の言葉は、誘惑の中にあっても私たちを助けようとしてくださる、私たちに向けられた神の尋常ではない恵みを思い起こさせてくれます。たとえ、私たちがこれらの領域における失敗を犯した時でさえ、私たちはイエスを通して赦しを受け取ることができるのです。
祈り:主よ。あなたの臨在の内に過ごすことが出来る驚くべき特権のゆえに感謝します。私はあなたの声を聴くことができ、みことばをとおしてあなたは私に語ってくださいます。どうか誘惑に陥ることがないように気を付けることができますように。日々、あなたとの近しい関係の内に歩むことができますように。アーメン。
H.K