2019年8月30日
第242日
霊的な顔の手直しの方法
ローマ教皇公邸付き説教者であるカプチン派修道士のラニエロ・カンタラメッサ神父は81歳で、ロイヤル・アルバート・ホールで持たれた私たちのリーダーシップ・カンファレンスに快く来て話してくれました。多くの人々が、彼の顔と眼は神の臨在を映すようにどれほど輝いていたかとコメントしていました。ある時、彼がイタリヤで列車に乗っていると、一人の全然信じていない女性が、彼に近寄って来て、「あなたの顔は私に信じざるを得ない気持ちにさせる。」と言いました。
「私たちは自分の顔の美しさを制御することはできませんが、その表情を制御することはできる。」と言われる通りです。この逸話は、「目は口程に物を言う」ことを描いています。英語の言い回しで「彼らの表情を見せてやりたかったよ(直訳:あなたは彼らの顔を見ておくべきであった)」と言いますが、ラテン語の格言に「顔は心の索引である」という言葉があります。
「目は魂の窓」というのもまた真実です。私たちが本当に誰かに話を聞いて欲しい時、そして信じて欲しい時に、私たちはその人に向かって「俺の目を見ろ」と言います。
聖書もまた顔や目について多くを語ります。
神の御顔
詩篇104:19-30
私たちの心には、神によってだけ満足することが出来る霊的な飢え渇きがあります。詩篇には神との関係への切望、そして神の臨在に留まることの願いが満ちています。これは、ここでは、神を「見つめ」、「御顔」を追い求めるという人間関係の言語を用いて描かれています。「彼らはみな、あなたを待ち望んでいます(見つめています。,ESV訳)。…あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、…あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。(27-30)」
詩篇の作者は、神の顔を見ることからもたらされる満足と御顔を隠される時の恐怖を対照的に描きます。罪は私たちと神との間に障壁を造り出します。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはもはや自分の目で神を見ることが出来なくなりました。彼らは自分を神から隠そうとしたのです。彼らは神の臨在から取り除けられたのです。神はご自身の顔を彼らから隠されました。彼らは恐れたのです。
私たちが神の顔を見る事が出来る時、神もまた私たちの顔をご覧になっています。「すべての被造物は食事があなたによって与えられることを期待して見ています。…あなたは手を拡げ、彼らはそこから取って食べます。(27,MSG訳)」これは肉体のための食事だけではなく、神が私たちに与えてくださる霊的な食事についても同じです。
祈り:主よ。私があなたを見るとき、あなたはご自身の手を開き、良いもので私たちを満足させます。私の罪をお赦しください。そして私から御顔を隠さないでください。
私たちの顔
2コリント3:7-18
私たちの顔はモーセの顔よりももっと光輝いているのだと思います。「イスラエルの民が彼を見るのは、太陽を凝視するどころではないほどであったとすれば、モーセの顔は、彼が石の板を届けた時にその日そのように輝いていた(たとえ、それがすぐに暗くなっていまうとしても)ことでしょう。(7,MSG訳)」
古い契約の務めそのものは良いものです。「石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光が(7)」あったのです。モーセは神の顔を見つめました。そして、その結果、彼の顔は輝いたのです(出エジプト34:29参照)。モーセは「消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛け」なければなりませんでした。(2コリント3:13)
古い契約の務めが良いものであったとしても、それは実際は「死をもたらす(7)」のでした。私たちは神の書かれた律法を(自分自身で)守ることが出来ません。私たちは罪を犯し、「罪の支払う報酬は死」なのです(ローマ6:23)。
パウロは続けて古い契約の務めと聖霊の務めを対照的に際立たせます。古い契約の務めそのものは良いもの(2コリント3:7)であっても、聖霊の務めは遥かに栄光に満ち、永遠に続くものなのです(9-11)。
古い契約の務めではモーセが覆いを被る事が必要でした。覆いは人々に見えないようにします。パウロは今日でさえ人々は本当に見ておらず理解していないと言うのです。「イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。(14)」彼らが主に立ち返った時にのみ、覆いは取り除けられるのです(16)。
これは確かに私の経験です。私は聖書が読まれるのを聞いていましたし、キリスト教信仰についての話を聞かされたこともありました。しかし、私は人々が話していることについて何も理解していなかったのです。それは私には全く分かりませんでした。私の霊的な目が見えていなかったのです。私が主に立ち返った瞬間、あたかも覆いが取り除けられたようでした。私は見えるようになり、理解できるようになったのです。
パウロは続けてとても驚くべきことを記しています。「そして神が個人的に生きておられる霊を臨ませてくださる時、古い、縛り付けていた律法は廃れたものとして認識されたのです。私たちはそれから自由になりました!私たち皆がです!私たちと神との間には何もありません。私たちの顔は神の顔の輝きをもって光り輝きます。そして、私たちはメシアのように変貌したのです。私たちの人生は、神が私たちの人生に入って来られにつれて、段階的に輝きを増し、さらに麗しくされるのです。そして、私たちは神のようになるのです。(17-18,MSG訳)」
三位一体のすべてが含まれています。(父なる)神の栄光は私たちの主イエスの顔のうちに見られ、聖霊はとても近しく結ばれます。それはパウロが「主は御霊です。…これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(17-18)」聖霊はイエスの御霊です(使徒16:7)。
主の霊は私たちの人生に過激な自由をもたらします。律法主義、罪責、恥、責め、自己憎悪、自己拒絶からの自由です。罪の力から、自己中心、人を操作したり支配したりすることからの自由です。死の恐れ、人が自分のことをどう思うかという恐れからの自由。他人と自分を比較することからの自由です。
あなたは神を知り、愛し、仕えることに自由です。あなたは他者を愛するためにあなたのいのちやエネルギーを用いることに自由です。あなたはあなた自身に対して自由です。あなたは大胆に神に近づくことが出来ます(2コリント3:12)。あなたは自分の顔に覆いをかける必要がありません。
あなたがイエスの顔を見つめる時、イエスはあなたをご自身のように変えられます。「ひとつの段階の栄光から次の段階の栄光へ(18,AMP訳)」と変化は段階的で少しづつです。あなたが誰かと一緒に時間を費やす時、あなたはもっと彼らのようになる傾向があります。人々は有名人を見ます。そして、彼らの身振りや服装をまねるのです。もし、あなたがイエスによって捕えられたなら、あなたはイエスの似姿に造り変えられるでしょう。
あなたは一日にたくさんの顔を見るかもしれません。どこにでもイメージがあります。しかし、聖霊は私たちの中で最も大切な顔を啓示してくださいます。あなたが主の臨在の中で時間を過ごす時、あなたはもっともっと主に似た者となります。あなたは勢いを増す栄光によってイエスの似姿に変えられます。
祈り:主よ。私があなたに自由にそして大胆に近づくことができるという莫大な特権のゆえに感謝します。私があなたの御顔を見つめてこの世に対してあなたの栄光を輝かすことが出来ること感謝します。今日、あなたに目を留め続けることが出来ますように助けてください。
神の目
2歴代35:20-36:23
主の目はあなたがすること、そして言うこと、思うことのすべてを見ておられます。私たちは人の目を避けることは出来ても、神の目から逃れることは出来ません。
神の民の悲しい歴史は今日の箇所にも続きます。生まれながらの人間性は変わらないものです。戦闘があり、闘い、口論し、攻撃し、戦争をします(35:20-21)。ヨシヤは彼の良き模範に従わなかった王たちに王位を継承します。エホヤキム、エホヤキン(彼の子)、ゼデキヤ(エホヤキンの叔父)らは皆、「主の目の前に悪を行った。(36:5,9,12)」のです。
ゼデキヤの問題は、他の王たちと同様に、「彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。(13)」うなじのこわい者というのは高ぶりの強烈な描きです。神の前に頭を下げてひれ伏すことが出来ません。心を閉ざすことは私たちが聖霊に抵抗することを描いています。
「神は…繰り返して彼らに警告のメッセージを送った。ご自身の民とご自身の神殿の両方に対するあわれみから、神は彼らにすべての機会を与えたいのです。しかし、彼らは聞こうとしませんでした。(2歴代36:15,MSG訳)」今日の多くの人々のように、「彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにした(16)」のです。結局、神は「すべての者を彼の手に渡された(17)。」のです。彼の手とは当時最強の国、バビロン(現在のイラク)とペルシャ(現在のイラン)です。
歴代誌の最後はほのかな希望で閉じられています。今日の箇所はBC 597年のエルサレムの崩壊、そして捕囚の記述を含んでいます。しかし、それはBC538年に始まった回復と再建の希望を伴います。
回復は私たちの主イエス・キリストを通してもたらされる最も偉大な希望に指し示しています。古い契約の務めよりもイエスの働きや聖霊のそれは遥かに上回るものです。私たちの希望は全く次元の違うものです。パウロは「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。(2コリント3:12)」と書きました。それは主の栄光を反映する希望であり、主と同じ姿に代えられ栄光を増し加える希望です(18)。
祈り:主よ。私たちが持っている希望のゆえに感謝します。その希望は誰かが考え想像するものよりはるかに偉大です。私がイエスの御顔を見ることができることを感謝します。私が神の栄光を反映し、ご自身と似た者と変えられることを感謝します。アーメン。
H.K