Tokyo Chapel

2019年7月29日

第210日

神を喜ばせる4つの犠牲

私の人生を振り返ると、私と姉を愛するために両親がどれほど多くの犠牲を払ってくれたかということが今は分かります。その時、もっと感謝すればよかったと思います。私の両親の世代には犠牲を払うという考え方はとても自然なことでした。彼らと同世代の多くの人々は人や国のために犠牲を払いました。程度の差こそあれ、犠牲を払うという考え方そのものが、私たちの世代ではもっと珍しいものになっているでしょう。

聖書の中で「犠牲」に関する記事の大部分は旧約聖書に記されています。それらの箇所は、十字架の上で私たちのために死なれたイエスの犠牲の予型です。新約聖書において、ほとんどすべての部分が言及しているのはイエスの犠牲についてです。選ばれた者としてのイエスの死は、すべての旧約聖書で準備され予見されていたことを成就した犠牲を完全にし、完成しました。私たちは、私たちの罪の犠牲を必要としません。しかし、新約聖書は、あなたが神を喜ばせることができる4つの犠牲があることを私たちに告げます。


イエスの犠牲を神に感謝する

詩篇89:30-37

神は聖であり(35)愛です。神はダビデを愛しました。彼は言いました。「しかし、わたしは恵み(愛,NIV訳)を彼からもぎ取らず…(33)」

神はダビデやご自身の民と愛ゆえに契約を結びました。それは恵みの契約であり、律法に従うことが求められました。しかし、もし彼らが律法に従わなければ何が起こったのでしょうか?「もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたしの定めのうちを歩かないならば、また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、(30-31)」…罰が科せられたのです(32)。

新約聖書は私たちに、神は自ら人となってこの地上に来られたイエス・キリストに刑罰を与えて、私たちが受けるべき私たちの罪の刑罰を取り除けてくださったと告げています。その犠牲を通して、神の愛と聖さは、制限なく表され、満足せられ、そして、あなたはもはや罪のための犠牲を設けることが必要なくなったのです。

祈り:感謝します。主よ。十字架の上でイエスを犠牲としてくださったことをありがとうございます。もはや私の罪のために求められる犠牲はないことを感謝します。


神を喜ばせる犠牲

ローマ11:33-12:21

この箇所で、私たちは、イエスが私たちのために為された犠牲への応答としての4つのいけにえを知ることが出来ます。

  1. くちびるのいけにえ
    ヘブル人への手紙の作者は「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。(ヘブル13:15)」と記します。

    ローマ書の最初の11章は、イエスが私たちの為にいけにえとなって下さったことについて記しています。そしてパウロは神が私たちの為になされた全てのことへの応答として賛美をささげることを教えているのです。(ローマ11:33-36)
  2. あなたののいけにえ
    パウロは続けます。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(12:1)」

    神は、時間、願い、持ち物、耳、口、性、想い、感情、振る舞いなど、あなた自身の全てそしてあなたの生活のすべてをささげることを神は願っておられるといいます。パウロの生きた供え物という描写は、あなたが神への犠牲としてあなたの生活、つまり、あなたの全生活のためにあなたのすべての全生活をささげ続けなければならないことを私たちに思い起こさせます。

    ユージン・ピーターソンがThe Message訳で翻訳している通りです。「あなたの毎日の、普通の生活、つまり、あなたが寝ること、食べること、仕事に行くこと、そして生活の営みのあゆみ、を神の前に、捧げものとして、取り置きなさい。」(1,MSG訳)

    旧約聖書の時代には「生きた供え物」とは矛盾した言葉であったことでしょう。すべて「いけにえ」が意味することは、殺されるものでなければならなかったからです。ジェイゴ・ウェインは記します。「私たちの礼拝の行為はもはやいけにえを携えることはありません。そうではなく、私たちそのものがいけにえなのです。私たちは生きています。私たちのすべてがささげられるべきものなのです。礼拝は私の舌をもって話すことそのものです。私たちが見るものそのものであり、考えることそのもの、そして私たちの足で行く所そのものです。」
  3. 受けたものをささげる
    惜しみなく与えることは、新約聖書もう一つのいけにえです。「分け与える人は惜しまずに分け与え(8)」とある通りです。「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。(13)」ともあります。これはヘブル人への手紙の作者がいう神に喜ばれるもう一つのいけにえなのです。「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。(ヘブル13:16)」

    私たちは敵に対してさえ惜しみなく与えます。「私たちの聖句は、次のように私たちに告げます。もしあなたの敵が空腹だと分かったら、その人のためにランチを買いに行きなさい。もし彼が喉が渇いているなら、飲ませてやりなさい。あなたの気前良さは善意をもって彼を驚かせることになるでしょう。(ローマ12:20,MSG訳)
  4. あなたののいけにえ
    この箇所で、パウロは愛の奉仕のいけにえの多くの例を教えています(9-21)。

    ヘブル人への手紙の作者は言います。「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。(ヘブル13:16)」

    「善を行うこと」とは良くない事柄をあきらめることを意味します。「この世が寄ってたかってあなたを型に押し込めようとさせてはなりません(ローマ12:2,J.B.Phillips訳)」神はただ私たちの生活の中から悪いものを取り除けるように勧めているだけなのですが、表面的にはそれが魅力的に思えるので、そうすることがとても犠牲を払うことのように感じるのです。悔い改めとは非常に前向きな言葉ですが、時によってはそれは犠牲的に思えます。

    犠牲的な愛とは、完全に変わることによって、神に私たちを作り変えていただくことを委ねることを包含します。気前よく、
    もてなして、赦すこと(13-14)です。あわれみ深く、平和を生み出す(15-18)こと、です。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21)」ギリシャ語の「正直な」という語の意味は「偽善がない」ことを意味し、文字通りには「演技せずに」とか「仮面を外して」ということです。

    しばしば、この世の関係は、至って表面的です。私たちは皆、自分自身をまもるためにうわべを取り繕ったり、仮面をつけたりするのです。私たちは政府がこのようにするのを知る時、それを「スピン(情報操作)」などと言ったります。私たち自身がこのようにすると「イメージ(心象)」と呼んで、何かを投影するのです。要するに私たちは「内側にいる自分それほど好きではありません。それで、私は違う誰かのふりをするでしょう。」と言っているようなものなのです。

    もし、他の人も同じようにするなら、二人のうわべを取り繕った、あるいは仮面をつけた者同士がいるだけです。悲しいことに両者は本当に会っているわけではないということです。これは「偽りのない愛」の反対です。正直な愛とはあなたの仮面を取り除けることを意味します。そしてあなた自身を明らかにして開示することです。あなたが、神がありのままのあなたを愛してくださっていることを知る時、あなたは抵抗なく仮面を取り除けられるようになるのです。

    これは、あなたの人間関係において、完全な新しい深みと信頼できる関係があることを意味します。仮面を着けたままで人々に印象を与えようと努力するより、私たちの不完全なままのすべてを真実に人々に開示することで、私たちは弱さを持ったままでつながることができるのです。

    パウロはクリスチャンが互いに調和して、気前よく(13)、もてなして(13)、赦し(14)、共感して(15)そしてすべての人と平和を保って(18)生きることを勧めています。これは神に召された私たちが入って行くキリストにある家族の栄光ある描きです。それは私たちを愛、喜び、忍耐、誠実、寛容、もてなし、祝福、喜び、調和、謙遜、平和の雰囲気へと手招きしているのです。そこでは、善が悪に打ち負かされることはありません。悪が善によって打ち負かされるのです(9-21)。

祈り:主よ。今日、私は私のからだを生きた供え物としておささげします。どうぞ、あなたのお役にお立てください。私は持てる物すべてを再びあなたにおささげします。私のいのち、時間、お金、野心、計画、希望、そして願いを…。私にあなたが良いお方で、喜んでおられること、そして完全なる御心を見せてくださいますように。


旧約聖書のいけにえを理解する

1歴代6:1-81

旧約聖書において、祭司は神と人との間に立つ仲介者でした。「アロンとその子らは、…至聖所のすべての仕事に当たり、イスラエルを贖った。(49)」

祭司職は世襲制で、レビの家系があたりました歴代誌のリストには「レビの子」(1,16,47)が記されています。私たちは、彼らが幕屋で、そして後には神殿で「レビ族の子孫たち(1-30)」として仕えたことを知ります。

歴代誌の作者は神殿に重きを置きます。神殿は神の霊が住まわれる場所であり、神を礼拝する場所でした。ダビデは祭司の中から賛美のために選び出しました。「ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らは…歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。(31-32)」

他のレビ人たちは贖いのためにいけにえを祭壇の前にささげる者たちでした(49)。以前、贖い(atonement)とは「ひとつになる手段(at-one-ment)」だと贖いを簡単に定義しました。言い換えれば、神が、人々が神と一つになることができる手段を与えてくださったのです。
これは旧約聖書を通じて一つのパターンでした。予型として示されている、いけにえの必要と贖いが為されることはイエスの犠牲によって完成され、十分でした。そのような箇所は私たちに、一度きりのイエスの真実で完全な犠牲のゆえに、罪のためのいけにえがもはや必要ではなくなったことが如何に驚くべきことかを想いに刻むのです。

祈り:感謝します。主よ。今日私たちに求められているすべてのことは、あなたの犠牲に応答することです。賛美のいけにえ、私たちのからだ、善を行い、他の人々に分かち合うこと…。そのようなささげものをあなたが喜んでくださることを感謝します。どうか私たちのささげものにあなたの聖霊を注いてくださいますようにお祈りします。アーメン。

H.K

References

Jago Wynne, Working Without Wilting, (Inter-Varsity Press, 2009)

The New Testament in Modern English by J.B Phillips copyright © 1960, 1972 J. B. Phillips. Administered by The Archbishops’ Council of the Church of England. Used by Permission.