Tokyo Chapel

2018年7月28日

第209日

あなたの召しは変わることがない

私の父のように、多くのユダヤ人はイスラエルには住んだことがありません。ユダヤ民族は世界中に散らされました。1947年、イスラエル国家が再び樹立しました。今日750万人の人々がイスラエルに住んでいます。そのうち、約600万人がユダヤ人です。未だに多くのユダヤ人が全世界に散らされています。

ユージン・ピーターソンは今日の新約聖書の箇所でユダヤ人を「内部の人(insiders)」ユダヤ人以外の人を「外部の人(outsiders)」という言葉を用いて表しています。私はその訳が気に入っています。

この何年もの間に多くのユダヤ人が個人的にクリスチャンになっています。実際、最も初期の初代教会のクリスチャンは皆、ユダヤ人(内部の人)でした。しかし、今はクリスチャンの大部分は、ユダヤ人以外(外部の人)です。将来、「内部の人」には何が用意されているのでしょうか?

パウロの理解の鍵はローマ11:29にあります。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」これは、今日の箇所で私たちが見るように聖書を通して流れているテーマです。


神の民にあるご自身の契約はとこしえまで

詩篇89:19-29

私たちは、神の賜物と召しが変わることがないということを神のダビデに対する契約に見ることが出来ます。

神はご自身の民の中から「ひとりの勇士(19c)」を選びました。神は賜物として「力を授け(英訳19b)」「油注ぎ(20b)」を与えました。また神は彼を愛することを約束されました(24a)。それを永遠に保持すると約束したのです。「わたしの彼との契約は決して破られないだろう。わたしは彼の家系を永遠に絶やさず、彼の王座を天の日数のように、続かせよう。(28b-29,NIV訳)」

この約束はもともとダビデに対するもの(2サムエル7:12-16)で何度も繰り返し描かれています。その後、イザヤ書ではダビデとの契約はイスラエルに当てはめられています。「わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。(イザヤ55:3)」

パウロはこのすべてがイエスによって成就したことをはっきりと示しています。パウロは記します。「私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。(使徒13:32-33)」パウロはイザヤ55:3を引用して続けます。「わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。(使徒13:34)」

神は、ご自身があなたへの愛を永遠に保持されることを約束されます。そして、イエスを通して、あなたはダビデに対して約束されたすべての祝福を相続するのです。あなたは愛されています。あなたは油注がれています。神はあなたに力を与えるでしょう。あなたの召しは変わることがありません。

祈り:父よ。あなたの誠実な愛を感謝します。今日、私はあなたを呼び求めます。「あなたはわが父、わが神、わが救いの岩(詩篇89:26)」


イスラエルへの神の約束はやがて行き渡る

ローマ11:11-32

私たちが見て来たように、ローマ11章でパウロは、「神はご自身の民を拒絶されたのでしょうか?」という問いへの答えを示しています。彼の答えは「ノー。ノー。ノー…。」でした。「神の賜物と召命とは変わることがありません。(29)」「神の賜物と神の召しは完全保証済みです。解約されることはなく、無効になることもありません。(29,MSG訳)」

しかし、ユダヤ人の多くは依然としてイエスを拒んでいる事実をパウロは知っています。彼らが「つまずいた(11)」ことや、「かたくなになった(25)」ことをパウロは告げています。彼らは今、オリーブの枝のようです。それは「折られた枝」というモチーフで表現しています(17)。これがどのようにして破られることのない、旧約聖書で神の民に設けられた約束に繋ぐことができるのでしょうか?

  1. このかたくなさは、一部だけです。恵みによって選ばれた、残りの者たちがいつもいたのです(11-16)。
  2. かたくなさには実りもありました。それは異邦人にとっては収穫に導いたからです。「彼らが外に出て行った時、彼らは扉を開けたままにしたので、外部の人が入って来たのです。(11,MSG訳)」
  3. かなくなさは一時的でした。「『彼らが出て行ったことは良いことでしょうか?』その答えは明らかにノーです(11,MSG訳)」「さて、もし彼らの退出が、世界中のユダヤ人ではない外部の人に神の国が到来する引き金を引いたのなら、彼らが帰ってくる影響力はどれほどか想像してみなさい!なんという帰郷でしょう!(12,MSG訳)」

この最後のポイントは、同胞を情熱的に気にかけているパウロにとって特に重要です。パウロはイスラエルの民が皆含まれることを熱く予期していました(12)。彼は続いて「こうして、イスラエルはみな救われる(26)」と言います。パウロは「もし」これが起こればとは言わず、これが起こる「」というのです。パウロはユダヤの国をオリーブの木を用いて描きます(17,24)。キリストは来ました。イスラエルはキリストを拒みました。木は倒されましたが根は残されました。庭師は異邦人を接ぎ木したのです(17)。

やがて、ユダヤ人の枝が再び接ぎ木される日がきます(23-24,MSG訳)。そして木全体が完成するのです。異邦人は切り株から成長します。彼らは根(ユダヤ人)を支えているのではなく、根が彼らを支えているのです(18)。神の救いの計画の完成において3つの完成する段階があります。

  1. イスラエルの大部分の不信仰な者たち:「枝の中のあるものが折られて(17)」
  2. イエスを信じることを通して含まれた多くの「外部の人々(異邦人)」:「野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ(17)」
  3. 「イスラエルはみな」救われる(26)

しかし、「イスラエルはみな救われる」とは何を意味するのでしょうか?ある人々は、イスラエルは未だにキリストを介さずに救われることができるということを意味すると論じます。しかしながら、この立場は説得力がありません。パウロはずっと、イエスが救いの道であるとこの手紙の中で一貫して論じて来たのです。

他の人々は、それはすべての個人個人を含む、イスラエルの国全体がイエスに信じるようになることを意味すると論じます。しかしながら、「イスラエルのすべて」は旧約聖書やユダヤ教文書の中で繰り返し用いられる表現で、それは必ずしも「一人残らず、すべてのユダヤ人」を意味する必要はなく、「全体としてのイスラエル」(たとえば、1サムエル7:5、28:1、1列王12:1、ダニエル9:11)を指します。これはまた、パウロがローマ人への手紙のこの箇所で言っている文脈とも適合します。

パウロは国全体としての神の取り扱いを考えているのです。それゆえ、「彼らの完成(ローマ11:12)」は異邦人の完成と同じ感覚で理解されるべきです。異邦人世界で大規模に起こる回心が、イスラエルの大規模な回心を伴うものであるということなのです。

パウロは結論します。「しばらく前に、あなたがたが神の外側にいた時がありました。しかし、ユダヤ人たちがバタンと扉を叩きつけるように出て行き、あなたがたのために開かれたのです。今、彼らは外側にいます。しかし、あなたがたのためにドアは広く開かれました。彼らはやがてそこから戻って来るのです。あれやこれやで、神は私たちが皆、外側に居たことの証しを経験し、それで、神は一人ひとりに扉を開いて、私たちがそこから戻って来るのを受けとめてくださるのです。(30-32,MSG訳)」

祈り:感謝します。主よ。神の召しと賜物は変わることがありません。間もなく、私たちは異邦人の大規模な回心だけでなく、イスラエルの民の大規模な回心をも見ることができることを祈ります。


神の惜しむことないご性質と祝福は変わることがない

1歴代4:9-5:26

神は歴史を究極的に支配しておられます。神の召しと賜物は変わることがありません。新約聖書で成就したことは旧約聖書で始まったものです。歴代誌の作者はイエスラエルの歴史を極めて最初からなぞります。神は統治するのです。「この戦いは神から出ていた(5:22)」

これは、私たちが将棋の駒のようなものだということなのでしょうか?私たちは神の将棋盤の上で動かされている単なる駒にしかすぎず、自由に意思する選択権はないということでしょうか?いいえ全く違います。

あなたは神の計画に包含されています。あなたの善い行動を取るか悪い行動を取るか、その行動が結果を左右します。

歴代志の著者は、イスラエルの人類の歴史の最初から描きます。そして、あなたもまた神の計画された歴史の中に生かされているのです。

  1. 不名誉な行動に対抗する
    私たちの行動は神の祝福から私たちを遠ざける原因になりえます。「イスラエルの長子ルベンの子孫――彼は長子であったが、父の寝床を汚したことにより、その長子の権利はイスラエルの子ヨセフの子に与えられた。(5:1)」ルベンは長子であり、本来は祝福を受け継ぐ特権を持っていましたが、自分の欲をコントロールする事が出来ずに神の偉大な遺産を受け継ぐ事が出来ませんでした

    私たちは皆、誘惑に用心して対抗し、神からの祝福を受け取り損なう原因となる肉の欲や私たちの感情に流されてはなりません。

  2. 栄誉を受ける人
    一方で、ヤベツは栄誉を受けた人です(4:9,MSG訳)。ヤベツは祈りによって、彼の人生を変えました。「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。(10)」

    ヤベツが祈った祈りは聖書の中で最も他利的な祈りというわけではありません!しかし、神はそれにもかかわらず、祈りに答えられました。イエスは私たちに、数々ある中で「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:11)」と祈ることを教えました。私たちの最初の関心は神の栄光、神の御国、神のみこころであるべきです。しかし、私たちが私たちの生活における神の祝福、臨在、守り、癒しを求めることは間違っていません。

    同じように、神はご自身の民に勝利を与えました。「彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。(5:20)」

「この戦いは神から出ていた(5:22)」神は究極的に支配しておられます。しかしながら、あなたの祈りは変化をもたらすのです。

祈り:主よ。私の召しが変わることがないことを感謝します。戦いはあなたのものであることを感謝します。そして祈りが変化をもたらすことを感謝します。そして主よ…。今日、私が直面する闘いにあなたの助けを叫び求めます。アーメン。

H.K