Tokyo Chapel

2019年11月21日

第325日

力ある祈りの方法

私は教会のある人から電話を受けました。彼の奥さんが急に手術を受けるため入院することになり、私に病院に行って祈って欲しかったのです。

その出来事が起こった頃、私自身は、肩に注射してもらうためにすぐ近くで予約していました。私は2年ほど「五十肩」でした。しかしながら、2日前くらいから、突然調子が良くなったのです。私は担当医に起こったことを説明しました。彼は私を見つめて言いました。「これは奇跡だ!」私は言いました。「五十肩は突然よくなることはないのですか?」何度も何度も彼は繰り返しました。「それはないよ。こりゃ奇跡だ!」世俗の医師が信仰の薄い牧師に対して、起こったことは神の超自然的な力によって説明するほかないのだということを一生懸命説得しようとしていました!

私は自分の信仰がとても高められたことを感謝し、病院に祈りに出かけました。私が廊下を歩いていた時、病院の運搬人が歌いながら通り過ぎました(とても大きな声で!)。「あなたの手を病人の上に置けば彼らは癒される」私は言いました。「今まさに、その歌詞通りのことをしに行くところなんだ。」彼は大きな衝撃を受け、驚いたようでした。彼は明らかにそんなことを信じているような人がいるとは夢にも思っていなかったようでした。

私はその婦人のために祈るために階段を上っていきました。そして私の信仰がこんなにも高まっているのかを説明しました。彼女はちょうどヤコブの手紙の5章(今日の私たちの箇所)を読んでいるところだったと言いました。そこでこう言われています。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き…祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。(ヤコブ5:14-15)」主はすでに信仰によって祈るためのしるしを十分に(私にさえ!)与えておられたのです。聖霊が彼女の上に大いなる力をもって臨みました。彼女は瞬間的に癒されたわけではありませんでしたが(今はすっかり良くなっています。)この出来事は「信仰による祈り」について大きな理解をもたらしてくれました。

ウォッチマン・ニーは書きました。「私たちの祈りは神の力が来ることができるように線路を敷くことです。力強い機関車のように、神の力は抗しがたいものです。しかし、それはレールから外れて私たちのもとには来ることが出来ません。」

それでは、あなたはどのようにして力ある祈りをすることができるのでしょうか?


正直に祈る

詩篇130:1-8

あなたは今まで絶望の深みにいるように感じたことがありますか?「(あなたの)人生が崩壊した(1,MSG訳)」と感じたことがありますか?詩篇の作者は言います。「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。(1-2)」

あなたの祈りと神のあわれみは井戸の中の二つのバケツのようなものです。一方が引き上げられると、一方は下がっていきます。

この祈りには正直な絶望が表現されています。あなたの状況にある困難をうわべを飾ろうとしてはなりません。その代わりに、助けを求めて、神にあなたが寄り頼んでいることを認めるのです。

神のあわれみと赦しに信頼しなさい。
「もし、神よ。あなたが間違った行いを記録したなら、
誰が立ち得るのでしょうか?
結論から言えば、赦しはあなたの気質です。(3-4a,MSG訳)」

もし、神があなたの間違った行いを記録していないのなら、あなたはあなたに対して攻撃した他の人々の「リスト」を保持すべきではありません。愛は「人のした悪を思わず(1コリント13:5)」です。

あなたは神に近づく前に、あなたの人生の問題を解決する必要はありません。神はあなたの心の叫びを聞きたいと願っておられます。

絶望的な状況であっても、あなたは神から助けが来ることを確信することが出来ます(詩篇130:6)。あなたの願いを神のもとに持って来なさい。忍耐をもって待ちなさい(5)。そして神の尽きることのない愛に信頼しなさい(7)。

祈り:主よ。私はどん底からあなたにあわれみと助けを求めて叫びます。赦しと尽きることのない愛があなたと共にあることを感謝します。


あらゆる状況で祈る

ヤコブ5:1-20

神よりも他のものを信頼することは、私たちの生活の中で神の力の障害物となるものの一つになりえます。幾つかの点で、信仰と富は水と油のようです。それらはしばしば一緒にはならず、混ぜることは難しいことです。

金銭を所有すること自体は間違ったことではありません。しかし、富を築くことには固有の大きな霊的な危険があるのです。それは、傲慢、貪欲、放縦、他者の必要に対して無視することなどです(1-6)。

最も大きな富の危険性(それは今日の西欧に住む私たちのほとんどが含まれているかもしれません)は、神に対してよりも富に対して信頼を置くことです(1テモテ6:17)。世界の中でもっと貧しい地域の幾つかで、はるかに奇跡や癒しが起こっているように思えるのはなぜでしょうか?多分、富が信仰の潜在的な障壁となっているのです。そして、私たちの信仰の置き所を間違ったところに導いているのです。あなたは、あなたのすべての必要に応えてくださるお方に希望を置くように召されています。そして、あらゆる状況で祈るように招かれているのです。

この手紙の読者は明らかに困難な時を過ごしていました。ヤコブは彼らを「耐え忍びなさい。心を強くしなさい。(ヤコブ5:8)と励ましているのです。彼は苦難に直面し、耐え忍んだ(11a)人物としての手本としてヨブを指し示しています。彼は彼らに「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということ(11b)」を思い起こさせています。

あらゆる状況で祈りなさい。

  1. もしあなたが傷つけられても
    「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。(13a)」
    「私たちのほとんどは、私たちが小さな問題にある時には、問題の祈りをたくさんします。しかし、私たちが大きな問題にある時には、問題の祈りをあまりしません。」と言われてきました。
  2. もしあなたが上手くいってると感じても
    「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(13b)」
    聖アウグスチヌスは言いました。「あなたの思いがあまりに深く人をかき立てるので、彼らは、あなたを誉めなければ満足できない。」と言いました。
  3. もしあなたが病気でも
    「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き…(14)」
    もちろん、神はしばしば医療従事者と共同でご自身の癒しをなさいます。しかしまた、今日も神が奇跡的な癒しをなさることを期待します。
  4. もしあなたが罪を犯しても
    罪と病気を自動的に結び付けて考えることはできません。しかしながら、私たちはその可能性を除外することもできません。ヤコブはここで言います。「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。(15b-16)」

    お互いに罪を言い表すこと、そしてお互いに祈り合うことは、癒しと回復の過程において助けとなります。私たちの生活の中での出来事が闇の中に隠されている時、それらは破壊的力になりえます。私たちがそれらを光の中に持ち出すとき、私たちは自由になるのです。これはあなたが全世界に告げなければならないということを必ずしも意味しているわけではありません。しかし、あなたは少なくともあなたが完全に正直になることの出来、身構えずに、打ち明けることが出来る信頼できる一人の人を見出す必要があるのです。

祈りは力強く、効果的です。ヤコブはエリヤの例を見ることによって力強く指し示します。彼は祈りによって、日照りを起こしたり、終わらせたり、天候をコントロールしたことで有名です。しかしまたヤコブは、「エリヤは、私たちと同じような人でした(17)」と告げています。言い換えれば、エリヤが出来たのであれば、あなたもまた出来るということです!

祈り:主よ。あなたが私の祈りを聴いてくださることを感謝します。今日、私は祈ります…。


目を開けて、耳を澄まして祈る

エゼキエル40:1-49

祈りは独り言ではありません。それは対話です。神はあなたが祈る時、語ってくださいます。

エゼキエルは「主の御手が私の上にあり…(1)」と言います。彼は預言者として、また教師として召されました。多かれ少なかれ、これはイエスを信じる者に皆与えられた務めです。私たちは何が含まれているかを見ます(4)。

  1. 見る:「あなたの目で見
    御霊の目をもってあなたの周りで起こっているすべてのことを見ます。D.L.ムーディーが言った通りです。「哲学者のつま先より、クリスチャンの膝の方がよく見える。」
  2. 聴く:「耳で聞き
    主が何とおっしゃっているかを聴くということに尽きます。あなたの神との双方向のコミュニケーションにおいて、神があなたになんと語られたかはあなたが神になんと言ったかよりも大切です。
  3. 気をつける:「心に留めよ
    「注意を向けることは、寛大さの最も珍しい、そして最も純粋な形です。」とシモーヌ・ヴェイユは書きました。これはあなたと神との関係を含むすべての関係に適用できます。
  4. 言う:「みな…告げよ
    ただ見て聞くだけでは十分ではありません。私たちは従わなければなりません。神があなたに言うように告げたことを言うことを意志しなさい。

エゼキエルは新しい神殿の幻を受け取りました。それは象徴的に意図された目に見える神殿です。この中に、ヨハネの黙示録に描かれた都のような描写があります(黙示録21:16)。対称性と完全性がそこにあります。

神殿の中心には「主に近づいて仕える者たちである(40:46)」祭司たちの部屋がありました。「主に近づいて」ということは旧約聖書では数少ない部族の数少ない人々に厳格に定められていました。

今、キリストの血によって、あなたは主の前に仕える者として、主に近づくことが出来るようにされたのです(エペソ2:13)。これはなんと大きな、そして素晴らしい特権でしょうか。あなたの目を開き、あなたの耳を澄ませて、神があなたに語られることを聴きましょう。語る勇気と、信仰の祈りを祈るための信仰とを持ちましょう。あなたは神から多く愛された者です。あなたの祈りは力強いのです。

祈り:主よ。祈りの力は尋常ではないことを感謝します。どうか、今日、私があなたに近づく時、お語りくださいますように。アーメン。

H.K

Simone Weil; Joë Bousquet, Correspondance, (Lausanne : Editions l’Age d’Homme, c,1982) p.18.