2019年1月14日
第14日
ただリラックスして、神がなさるままに
ジョイス・マイヤーは「ただリラックスして、神がなさるままに。」とツイートしました。愛する神が出来事すべてを究極的に支配しておられることを知るなら、それは大きな安らぎを生みます。
サンディー・ミラー主教は、悲劇的な出来事に面したり、物事が悪化したときに「主が統べ治められる。」とよく言いました。
聖書の中には数多く、神が主権者たる主として描かれています。ジョイス・マイヤーやサンディー・ミラーも、それぞれ異なった方法で、神の主権を絶対的な自信をもって表現しているのです。
もし神が主権者であり、究極の支配を持っておられるとするなら、あなたの行動について、あなたは責任を免れるのでしょうか?あなたには「自由意志」がないということでしょうか?今日の新約聖書の箇所で見るように、聖書は神の究極の主権と同時に人間の責任と自由意志の両方を教えています。
神の統治を確信を持って信頼する
詩篇9:7-12
神は究極的に宇宙を支配しておられます。「主はとこしえに御座に着き(9:7)」「義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行われる。(8)」のです。このことを知るなら、大きな平安を得るでしょう。人生において、どうして神はこのようなことを御許しになるのだろうか?と首をかしげることがあります。
神の主権に信頼し、神が決してあなたを見捨てたりしないことを信じ続けましょう。「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。(10)」
- 讃美しましょう
主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。(11a) - 告げ知らせましょう
国々の民にみわざを告げ知らせよ。(11b) - 祈りましょう
主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。(9)血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。(12)。
祈り:主よ。あなたは私の叫びを無視なさらないことを、そしてあなたを確信をもって信頼できることを感謝します。あなたは神であられ、私は心穏やかに過ごすことができることを感謝します。
イエスと歩む招きに応える
マタイ11:16-30
イエスの教えには興味が尽きません。今日の箇所の最初の部分で、イエスはまるであなたに「どっちみち非難される」と言っているようです。バプテスマのヨハネは禁欲的で、悪霊に憑かれていると非難されました。その一方で、イエスがあまり評判の良くない人々を友としてすべての人々と食事をしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ(19)」と非難されました
あなたが何をしても間違って解釈されるかもしれません。イエスは「でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。(19b)」と付け加えました。神の前に正しく行っているなら、人の目や人のことばに動揺する必要はないということです。「世論調査がどうっだって?論より証拠だ。(19b,MSG訳)」
ですから、イエスはご自身が滞在し奇跡を行った町々を公然と非難しました。悔い改めず、信じることをしないのを見て、ソドムの方がましだと言いました(24)。信じないという罪はあらゆることの中でたぶん最も深刻です。
イエスは神の聖定(神がすべてを定めておられること)と自由意志の両方が明らかになるような方法で教え続けました。二つのことを並記して教えてたのです。それはパラドックスのようです。神の定めと人間の自由意思は相反することのように思えます。
それは聖定50%、自由意志50%ということではありません。イエスは、私たちは100%神の定めの内にあり、100%自由意志を持っていると言ったのです。これは一見不可能のようです。しかし、神は人間の自由をゆがめることなく、それを超えていくことがお出来になるのです。私たちはそれをイエスの受肉に見ることができます。イエスは100%神であり、100%人間です。イエスは完全に神であり完全に人間です。
- 神の聖定
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27)
- 自由意志
イエスは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(28)」イエスのもとに来るようにという招待はすべての人に与えられています。誰も拒絶されません。皆、招かれているのです。私たちにはその招待を受け取るか拒否するかの選択が委ねられているのです。
このパラドックスを知性的に解き明かすことは難しいでしょう。しかしながら、次のような描写が助けになると思います。アーチ型の入口がある部屋を想像してみてください。外から見ると入口の上には「だれでも来なさい(28)」と記されています。すべての人がその部屋に招かれいるわけです。もし、あなたが、その入り口から部屋の中に入ると、その入り口の上にこう記されているのです。「子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27b)」
言い換えるなら、自由意志はすべての人のための教理です。誰も「私は選ばれていないから、クリスチャンになるつもりはない」とは言えないのです。招待はすべての人に与えられているからです。その一方で、聖定の教理はクリスチャンすべてに保証として与えられています。あなたがひとたびこの招待を受け取って入るなら、神があなたを選び、それゆえ、神はあなたを見捨てることがないことを知るのです。
28節のイエスの言葉は愛すべき言葉です。ストレスに満ちた世界で多くの人々が「疲れ、重荷を負って」いるのです。イエスはあなたに休息を約束しています。イエスはあなたに重荷を下ろして、替わりにご自身の荷を担うように勧めています。
「くびき」とは二匹の動物(通常は牛)の首に掛け渡す木製の接続棒です。(当時はイエスのような大工が作ったようです。)それによって、鋤や荷車などを引かせることができました。くびきの役割は荷を担いやすくするということです。イエスと共に歩むとき、忍耐を必要とする時や戦いや試練の時に、一歩一歩イエスは一緒に担ってくださって、荷を軽くしてくださる光景を想像してみてください!
イエスはあなたに言われます。「あなたは疲れましたか?擦り切れましたか?燃え尽きましたか?さあ私のもとに来なさい。一緒に行きましょう。わたしはあなたの人生を回復させます。わたしはあなたに本当の休息を見せましょう。一緒に歩こう。さあ一緒に歩こう。わたしがどうやるかご覧なさい。自然に湧き出る恵みのリズムを習いなさい。わたしは重過ぎる荷を担わせたりしない。歩調を合わせて自由に軽く生きる方法を学びなさい。(28-29,MSG訳)」さあ!ただリラックスして、神様がなさるままに。
祈り:主よ。あなたが私の魂のやすらぎを約束してくださったことを感謝します。今日、あなたのもとに行くことができることを感謝します。私の荷をゆだねます。
神のみこころを神の御業に見る。
創世記29:1-30:43
私たちの弱さや、罪にもかかわらず、神はご自身のみこころを地になされるお方です。ヤコブは騙す者でした。私たちは蒔いたものを刈り取るのです。ヤコブは欺きの種をまき、今度はラバンに騙されました(29:25b)。ヤコブは欺きの連鎖を続けました(30:37-43)。これは比類なき欺き、不誠実、不忠の物語です。
こうしたあらゆる点で、なんとはなしに、個人を巻き込みつつ神はご自身の目的を、イスラエルのために、御子の誕生のために、そして神の民の将来のために果たしていかれるのです。
人間の罪と失望がヤコブの子どもたちの誕生の逸話の中にたくさん含まれています(29:31-30:21)。結果としてヤコブの祝福を受け継ぐ十二部族の族長を生み出すことになりました。ラケルの祈りは最終的にヨセフの誕生(30:22)をもって叶えられることになります。
神は彼らの人生を支配しておられたように、あなたは同じようにあなたの人生を究極的に支配されていることを信頼することができるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」ですから、ただリラックスして、神様がなさるままに委ねましょう。
祈り:主よ。あなたが弱く罪深い民をお用いになられたことを感謝します。あなたが私を用いることができることを感謝します。あなたは私があなたを愛する以上に私を愛してくださいました。どうか最善のつくすことができるように助けてください。
私の人生における責任を担うことができるように、そしてあなたの主権を確かに信頼することができるようにお助けください。アーメン
H.K
References
@Joyce Meyer, ‘Just Relax and Let God Be God’, https://twitter.com/joycemeyer/status/286320915329994752 [Last accessed December 2015]
Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p.1507