Tokyo Chapel

2019年6月21日

第172日

神はあなたの心をご覧になる

ポール・スワラはザンビアで収監されていました。彼は反逆罪に問われていました。彼は政府を転覆させるクーデターに関わり、告訴されたのです。刑務所の中で、彼はアルファに参加しました。彼はイエスと出会い、神に救ってくださいと叫び求めました。彼は言います。「笑顔が私の顔に戻って来ました。そして私の心は平和で満たされたのです。」

驚くべきことに、彼は告訴された69人の中でただ一人、無罪放免されました。彼はロイヤル・アルバート・ホールで開催されたリーダーシップ・カンファレンスでそのことを証ししてくれました。彼の顔は主の喜びで輝いていました。彼は今、ザンビアのすべての刑務所を巡回しイエス・キリストの良き知らせを分かち合っています。そしてどんなに悲惨な状況であっても、イエスは希望をもらたし、心を変えてくださると伝えています。彼は言います。「私は今までイエスのような友にあったことはありません。」神は、本当に彼の心を喜びで満たしてくださったのです。

「心」という語は今日の箇所に少なくとも17回登場します。ヘブル的な「心」の理解は感情を含みます。それだけではなく、思考、良心、意思を含んでいます。それは、あなたの内面に起こるすべてのことを意味しています。

神が大いに用いるためにお選びになったすべての人は、男も女も、弱さを持っており、失敗してしまうものです。しかし、神は彼らの心がご自身に向いているかどうかをご覧になっているのです。あなたの心が問題です。あなたの心は「主の前にある(箴言15:11)」のです。神だけがすべての人間の心をご覧になり、知っておられるのです。(1列王8:39)


あなたの顔はあなたの心を反映する

箴言15:11-20

ある人の顔には愛や喜びが輝いています。その笑顔は接する者の心をも明るく爽やかにさせます。また苦々しい表情は、周りの人々の心を緊張させ居心地の悪い思いにさせます。

あなたの顔はしばしばあなたの心を反映しています。「心に喜びがあれば顔色を良くする。(13)」ある説教者が言いました。「私たちが生きて来た人生がついには私たちの顔に現れる。それゆえに、40歳以上の全ての人は自分の顔に責任を持たなければならない!」

たとえ、あなたの心をあなたの周りの人に知られないようにと隠したとしても、神は知っておられるのです。「地獄でさえ、神に秘密を持つことが出来ないとすれば、あなたは神が人間の心を読み解くことが出来ないとでも思うのか?(11,MSG訳)」

神はあなたの心に関心を持っておられます。この箇所は、あなたの心をどう養えばよいのかという良きアドバイスを与えてくれます。「悟りのある者の心は知識を求めるが、愚かな者の口は愚かさを食いあさる。(14)」「心に楽しみのある人には毎日が宴会である。(15b)」

箴言の作者は外面よりも内面に注意を払うように教えてくれます。「憎しみ合ってプライム・リブのステーキを食べるより、パンきれを愛をもって分かち合うことの方がよっぽどいい。(17,MSG訳)」愛と友情こそが宴を楽しいものとするのです。

祈り:主よ。ありがとうございます。あなたは外見を超えて、私の心をご覧になります。私の顔が、あなたが与えてくださった愛と喜びを反映することが出来ますように。そして、私が出会うすべての人に励ましと自信をもたらすことができますように。


周囲がどうであろうが心は喜びで満たす事ができる

使徒14:8-28

周りの状況に関わらず心を喜びで満たす事が出来ます。時には、あなたが間違ったことをしたのでないのに、むしろ正しいことを行ったのに困難にさいなまれることがあります。

パウロは大変な苦労をしましたが喜びで満たされました。なぜなら、彼は正しいことをして世界に大きな変化をもたらしたからです。

パウロは世界で初めて異邦人世界に遣わされた宣教師だと言えます。その働きによってキリスト教はユダヤ教の1つの狭いセクトではなく、今日、世界中に最もたくさんの人々が信じる宗教となったのです。神はパウロを用いて「異邦人に信仰の門を開いてくださった(14:27b)」のです。

パウロは「教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われたすべてのことと(27a)」を話しました。しかし、外面的には彼にとって不利な状況でした。パウロは外見はあまり見栄えがしませんでした(2コリント10:10)。パウロの見栄えについてはある文書(2世紀に記された「パウロとテクラ行伝」という文書)の中に、こんな記事があります。「パウロは体が小さく、頭の髪がうすく、両足は曲がり、胴体の格好はよいのですが、両方の眉毛がくっついており、鼻はやや鉤鼻であり、恵みに満ちており、ある時は人のように見え、ある時は天使の顔のように見えた!」と書かれています

彼は見栄えが良くなかっただけでなく、いくつかの肉体的な病気も患っていたようです(ガラテヤ4:13)。これらすべてに加えて、彼の体は迫害によって打ちのめされてボロボロになっていたに違いありません。この状況で、パウロは石に打たれて瀕死の重傷を負いました(使徒14:19)。

パウロの足跡を辿る多くの人々のように、肉体的な苦難にもかかわらず、彼の心は喜びに満たされ、神は彼を通して働かれました。神はパウロをその弱さによって用いたのです。これは私たちに神はまた私たちの弱さの内に私たちを通して働かくことがお出来になるということを信じるように励まします。

彼の心に燃える喜びを、この箇所の中で私たちは様々な種類の心として知るのです。

  1. 信仰に満ちた心
    パウロは主の霊に従いました。そして心を見ました。彼は「生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった(8)」男を見ました。その時、「パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを(9)」見ました。時々、神は私たちが人々の心を見ることが出来るようにされます。それは癒される信仰を彼らが持っていることを見るため、聖霊に満たされたり聖霊の賜物を受けたりするためです。後で、私たちは神がどのようにして「異邦人に信仰の門を開いてくださった(27)」のかを読みます。
  2. 変わりやすい心
    群衆が男が癒されたのを見た時、彼らはパウロとバルナバを神のように扱い始めました。パウロとバルナバは「私たちは神ではない!」と言って、自分たちはただの人間で、立ち返るべき群衆に「生ける神」の良き知らせをもたらしたのだと指し示しました(15)しかしながら、群衆の心は「変わりやすい」ものでした。彼らはすぐに翻ってパウロの敵対者となり、パウロのためにいけにえをささげようとしていた人々は、あっという間に、今度はパウロを石打ちにしたのです。
  3. 喜びに満ちた心
    これはパウロとその一行が進んでいく中で受けた「多くの苦しみ(22)」の中のほんの一握りのことでした。それでもパウロは神がどれほど「を喜びに満たしてくださる(17,NIV訳)」お方であるのかを語ることが出来たのです。再び、彼は外面よりも内面の方がもっと大切なのだと言ったのです。

パウロはルステラ、イコニオム、(ピシデヤの)アンテオケで弟子たちを「心を強め」、「勧め」ました(21-22)。彼が心を強め勧めた方法は、クリスチャン生活は簡単だよと言ったのではなかったのです。パウロは彼らに、自分の罪を後ろにおいて、目の前の困難に立ち向かって行くことを語ったのです。パウロは言いました。「神の御国のためにサインした者は誰でも、山ほどの厳しい時を通らなければならない(22,MSG訳)」イエスはあなたの人生を容易にするために来られたのではありません。人々を偉大にするために来られたのです。

祈り:主よ。使徒パウロのような奮い立たせる例をこんなにも与えてくださって感謝します。外見や環境がどうであれ、私の心は喜びで満たされますように。人や状況を外面的に判断せず、あなたのように、いつも心を見て判断することができますように。


あなたの心をすべて主に明け渡す

列王8:22-9:9

ソロモンは神殿を奉献する際にこう祈りました。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。(8:23)」

神ご自身の心は民に向かい、またすべての民の心をご覧になり知っておられます。「あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。(39)」

ソロモンの祈りは私たちが罪人であるという事実を認めています。私たちは罪を犯しました。彼は「もし」彼らが罪を犯したならとは言っていません。むしろ「彼らがあなたに対して罪を犯したため―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから(46)」というのです。(ローマ3:23参照)

感謝なことに、希望はまだあったのです。「悔い改め(1列王8:47)」ることは可能です。私たちの心を神に立ち返らせることができるのです(48)。ソロモンは神が「私たちの心を神に向けさせ(58,NIV訳)」てくださいと祈ります。神はいつでもご自身の愛とあわれみを示してくださるのです(28,30,34,36,39,50)。神は執拗に愛し、ご自身のことばを守られるのです(23,MSG訳)

あなたが神を知るようになればなるほど、すなわちの心、神の御性格、そして神のあなたへの愛を知れば知るほど、あなたは心を尽くして神に従うことがたやすくなるでしょう。

後回しにせず、ソロモンが言ったように、「あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つに(61)」するのです。神はあなたに「全きと正しさをもって(9:4)」歩んで欲しいと願っておられます。民はそのように生きることを決心し、「すべての恵みを喜び、楽しく(66)」家路につきました。それは、弟子たちが喜びに心満たされていたのと同じです。

私たちは皆、弱さを持ち、失敗する者です。しかし、神はあなたの心を見ておられます。神はあなたを愛し、あなたをよしと認めておられます。神の喜びに今日満たされましょう。

祈り:主よ。私の心をあなたに向けさせてください。あなたは私がどれほど失敗するものかご存じでしょうが、どうぞ、私を赦し、あわれんでください。日々、あなたに立ち返らせてくださることを感謝します。あなたが私の心を喜びで満たしてくださることを感謝します。今日、心を尽くしてあなたに従わせてくださいますように。アーメン。

H.K

References

Acts of Paul 3, ‘The Acts od Paul and Thecia’, Paragraph 2, in J.K.Elliot, The Apocryphal New Testament (Oxford: Clarendon, 1993), p.364