2019年12月16日
第350日
あなたの人生の主は誰ですか?
ポリュカルポス(AD 70-156年)はクリスチャンに対する激しい攻撃があった時代の司教でした。86歳の時、彼はただクリスチャンであるというだけで犯罪者として逮捕されました。彼が拷問と死を避けるには、ただ「カイザルが主です。」と告白すればよかったのです。
ポリュカルポスはこう答えました。「86年間、私はキリストに仕えてきました。そしてキリストは私に何一つ間違ったことをしませんでした。どうして私が自分を救ってくださった私の王を冒涜することができましょうか?」ポリュカルポスにとって、「イエスは主です。」という事実は、彼が「カイザルが主です。」と言えないことを意味しました。キリストに堅く立ったポリュカルポスは、彼の信念に妥協することを拒み、AD156年2月22日、生きたまま火あぶりに処せられました。
神は旧約聖書の中に「主」として記述されています。今日の新約聖書の箇所に、私たちは「イエスは主です!」という尋常ではない主張の背景を見るのです。
イエス ― 天から下って来られた主
詩篇144:1-8
あなたは自分の生活においてどんな戦いを闘っていますか?誘惑ですか?心配ですか?恐れですか?鬱ですか?経済的な闘いですか?健康問題ですか?仕事や人間関係の闘いですか?
この詩篇は闘いの前の助けを求める請願です。もともとの文脈はたぶん物理的な戦闘でした。しかしながら、新約聖書のレンズを通せば、霊的な闘いとして見ることが出来ます。私たちは霊的な領地を失っているうに思える時があります。例えば、私たちの国の魂です。しかし、あきらめてはなりません!
多分、あなたは自分自身の生活の中で恐ろしい闘いに直面しているでしょう。ダビデは、「わが岩」「とりで」「やぐら」「救う方」「私の盾、私の身の避け所」(1-2)と主を賛美しました。
主は力強いお方です。神はまた、「私の愛する神」であり、神はあなたをご自身の計画に入れておられます。「神は私を闘いのための公平に良く訓練なさいます。(1,MSG訳)」あなたは神のパートナーです。神は、もちろん、大部分を占めるパートナーですが、同様にあなたにも出番があります。
ダビデは続けて言います。「主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。… いと高き所からあなたの御手を伸べ、…私を解き放し、救い出してください。(5a,7)」これは確かに神がしてくださったことです。それを私たちはクリスマスに祝うのです。主イエスは天から下って来られました。そして私たちは解き放ち、救い出してくださったのです。
今日、あなたがどのような闘いを闘っていたとしても、イエスご自身がどのようなお方であるかのゆえにこのお方を賛美する時間を割きましょう。あなたを解き放ってくださることを信頼して助けを呼び求めましょう。
祈り:主よ。私はあなたに叫び求めます。私の愛する神よ。私のとりで、やぐら、救う方、私の盾、私の身の避け所なるお方。主よ!どうぞお助けください。
イエス ― 礼拝の中心におられる主
黙示録7:1-17
毎回のオリンピックのハイライトの一つは開会式です。225か国の選手たちが喜びの祭典にともに集います。しかし、この箇所に描かれていることと比べれば、それも色あせてしまいます。私たちはあらゆる国民、部族、人種、国語から神の御座の前に共に集う大群衆を見るのです。
昨日、6つの封印がイエスの降誕と再臨との間の歴史の一般的な視座を与えることを私たちは見ました。明日、私たちは第7の封印が解かれるのを読みます。
黙示録の幕間にあたる7章では、神の民に与えられた重要な再保証があります。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。(3)」あなたの周りでどんなことが起こったとしても、あなたは永遠の安心を疑うことがありません。あなたには「生ける神の印(2)」が与えられているのです。
1-8節で言及されている144,000人と9-17節にある数えきれない大群衆は多分異なる別のグループではなく、異なる二つの御使いから同じグループを見たものだと思われます。最初に、神の民はこの地で集められます。そして、第二に、彼らは、天の神の前に集められます。彼らのとって格闘し闘ったのは過去のことです。
「その衣を小羊の血で洗って、白くした(14)」者たちとして神の民は描かれています。これは字義的にではなく、ヨハネの黙示録の黙示文学としての隠喩的言語の例です。そして、それは特にこの章において顕著です。衣は血で洗っても白くはならないでしょう!しかしながら、隠喩的に、あなたはイエスの血によってきよく洗われたのです。
144,000という数字は、字義的なものではなく、それですから、歴史を通じて神の民とされたすべての人々を象徴的に表したものです。ヨハネは「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、…御座と小羊との前に立っていた(9)」のを見たのです。
大群衆は「白い衣を着、しゅろの枝を手に持って(9)」いました。彼らは主に向かって拝の歌を歌っていました(10)。御使いは大群衆とともに神を礼拝します(11-12)。最終的に、全教会が、み使いの大軍勢と共に、イエスを礼拝するのです。地上での聖歌隊やオーケストラは天でのコンサートのリハーサルなのです。
「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者(17a)」となりました。これは驚異的な役割の転換です。子羊が牧者になったのです!あなたは再び空腹になったり渇いたりすることが決してありません。あなたは「いのちの水の泉」によって満足し、「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(17b)」もはや痛みも苦難も死別も悲劇もありません。
祈り:主よ。イエスの臨在の内に永遠を楽しみに待つことが出来ますことを感謝します。あなたは私の飢えを満たし、私の渇きをいやし、私の目から涙をすっかりと拭い去ってくださることを感謝します。
イエス ― 精錬し祝福してくださる主
マラキ2:17-4:6
マラキ書は主のために道を備える者がやって来ようとする期待で締めくくられています。「わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。(4:5-6)」
これはバプテスマのヨハネがどのようであるかを描いていたのです(ルカ1:17)。イエスは彼が来るべきエリヤであることを告げていました(マタイ11:14、マタイ17:12-13、マルコ9:12-13参照)。
キリスト教の聖書において、旧約聖書の最後の書物はマラキ書です。それが主の到来への期待と主の道を整える者の到来への期待で締めくくられているのです。
人々は主の到来の日のために準備するように呼びかけられています。それはまるで「精錬する者の火(マラキ3:2)」のようになります。私たちが自分の中から自己中心や自分勝手さを追い払うために、神は私たちの態度、願い、思考、会話を変えたいと願っておられます。ジョイス・マイヤーが書いている通りです。「私を信じなさい。自分勝手さを追い払うには火(困難な時)を通るのです。それは通常多くあります。しかし、最期には価値あるものとなります。」
主に立ち返れという呼びかけに耳を傾けなさい(7)。特に、ささげることを取り分けなさい(8-12)。あなたの金銭に対する態度はあなたの人生観のバロメーターです。
「什一献金」は神殿とそこで働く人々を支えるための教会的な所得税の一種です。つけ加えるなら、人々はさまざまな他の方法で、貧しい者をもてなしたり、施しをしたり、「自由意志」による献金もあります。
預言者は、彼らが取り分けることをしなかったので、彼らは神から盗んでいると非難しました。彼は彼らに勧めます。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。 ―万軍の主は仰せられる― わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(10)」
これはあなたのささげ物が神の眼にはどれほど重要であるかを表しています。 私たちにとって神殿に等しいともいえる、あなたが属している教会へのささげ物を優先しなさい。もしあなたが気前よく与えることをしないなら、あなたは「神から盗んで」いるのです。もし教会のコミュニティーすべてが気前よく与えるなら、神が「あなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を」注いでくださることを期待することが出来るのです(10)。
彼らが第一に取り置いたように思えます。「そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。(16)」私はこの節が好きです。時々、あなたが一緒に会う時、あなたは一緒に祈るための時間を持つことが出来ないかもしれません。しかし、それでも「主は耳を傾けて」それを聞いてくださるのです。なぜなら、彼らが「主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たち(16)だからです。
神は約束してくださいます。「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。
あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。(4:2)」あなたが、どんなに傷つき、心折れ、損傷しても、神は癒してくださること、そしてあなたの人生を回復し完全にしてくださることを約束しています。
主よ。私たちが気前の良いコミュニティーになることができますように。あなたが私たちの日々の戦いとともにいてくださり、やがてその日に、私たちがあなたを大群衆の一部として永遠に礼拝し、「イエスは主です!」と宣言することが出来ますことを感謝します。
H.K
References
Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Hodder & Stoughton, 2006) p.1471