2019年7月16日
第197日
神の形勢逆転の答え
「私たちは時々、自分がこの地上にいる人々の中で最悪の人間で、自分がする多くの間違ったことを誰もしてはいないという考えの罠に陥ることがあります。しかし、ローマ3:23はすべての人は罪を犯したので神の(最上の)栄光を受けることができないと言っています。すべての男、女また生まれたばかりの子供も、そしてこれから生まれてこようとする人も、罪の問題を持っているのです。しかし、良き知らせは、神は私たちのジレンマに答えを与えたということです。」とジョイス・マイヤーは記します。
聖アウグスチヌスが386年に答えを見出したとき、「明るい光が心に溢れ」ました。マルチン・ルターは、数年後の1517年に宗教改革が始まろうとしている頃に答えを見出しました。ウェスレーが1738年に答えを理解した時、彼の心は「妙な温かさを感じ」そしてリバイバルが始まりました。
どの場合も、彼らの人生は、「神の義」を理解することを通して、急激な変化を遂げました。それは「形勢逆転」です。誰であってもこの表現を理解するようになった瞬間に、その人の人生は変わります。確かに私の人生も変わりました。
神の答えは平和をもたらす
詩篇85:8-13
「私は喧嘩ばかりの雰囲気の中で育ちました。」とジョイス・マイヤーは記します。「覚えているのはそれだけです。私は全く新しい生き方を学ばなければなりませんでした。今、私は平和にどっぷりと浸かっています。私の平和が消えるや否や、私は自分自身にどうして失ってしまったのかを自問し、それを取り戻す方法を探し始めるのです。」
神はご自身の民に「平和(8)」を約束しています。それは必ずしも外面的な平和である必要はありません。プレッシャー、困難、試練、闘い、忙しさなどは無くならないかも知れません。しかし、それらすべての中にあっても神はあなたに平和を与えることを約束するのです。この平和は「主であられる神の仰せ(8)」を聴くことからやって来ます。
平和は義と密接な関係にあります。詩篇の作者は「義と平和とは、互いに口づけしています。(10b)」と表現しました。同じように、 恵みとまこと(「愛と忠実さ」,NIV訳)も密接に関係します。義と平和も同様です。平和は神との正しい関係に生きることからもたらされるのです。(ローマ5:1)
祈り:神よ。私があなたのとの正しい関係に歩むことができるようにしてくださったことを感謝します。そして、それに伴って、平和を楽しむことができますことを感謝します。
神の答えは私たちへの賜物
ローマ3:9-31
私たちは平和を願います。私たちは神との、そして人との正しい関係が築かれることを願います。しかし、それはどのようにしてこの「神からの義」を受け取ればよいのでしょうか?
パウロは、誰一人として自分だけ義とされる者はいないという論議を進めます。「義人はいない。ひとりもいない。(10b)」「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。(12)」義は平和への道です。しかし、現実には「彼らは平和の道を知らない(17)」のです。
パウロは、この箇所で彼の論議を締めくくります。「そして、十分にはっきりしていますよね。私たちは皆罪びとです。私たちすべてです。沈みゆく船に同じように皆乗っているのですよね?(20,MSG訳)」この後に続く、小さな2つの言葉は至って重要です。それは「しかし、今は(21)」です。
問題に着手するにあたって、パウロは今、「神の形勢逆転の答え」を描写し始めます。「神からの義(21,NIV訳)」です。この神からの義は律法によっては成就できません。なぜなら、(イエス以外の)誰一人として、律法を完全に守った人はいないからです。旧約聖書(律法と預言者)はこのことを証ししています。そして神の答えを指し示すのです(21)。
「イエス・キリストを信じる信仰による神(から,NIV訳)の義であって、それはすべての信じる人に与えられ(22)」るのです。この神からの義は、鋭意努力によって獲得できるものではありません。それは純粋に、ただ私たちが「イエス・キリストにある信仰によって」受け取る贈り物です。それは、「すべての信じる人に(22)」与えられる贈り物です。
パウロは3つのイメージを用いてイエスの十字架の死によって完成した神の義について説明します。それぞれは多面体にカットされたダイヤモンドの面のようです。それぞれのイメージが他のイメージと絡み合っているのです。
- 罪の代価が支払われた
「義認」とは法廷用語です。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(24)」ただ神が裁くのです。神は私たちの罪責をうやむやには出来ません。
神は御子なるイエス・キリストとなってあなたや私のために死んでくださるためにこの地に来られました。「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(25-26)」神はご自身で罰金を支払われたのです。
あなたは「主の恵みによって自由になり(24,NIV訳)」義と認められたのです。恵みとは、努力によって獲得することのできない愛を意味します。それは無料です。何も私たちの側に賞賛に値する価値はありません。あなたはそれを報酬として得ることはできません。それは贈り物です。それゆえ、自慢する余地はありません(27-31)。
主の十字架の死を通して、イエスは私たちすべての悪い行い、言葉、考えのための罰金を支払ってくださったのです。あなたが信仰をイエスに置いた瞬間に、あなたは義と認められるのです。あなたはもはや恐れることはありません。罰金は支払われたのです。あなたは神からの義の贈り物を受け取ったのです。 - 罪の力は打ち砕かれた
パウロが用いた2つ目のイメージは「市場」です。「キリスト・イエスによる贖いのゆえに…(24)」
負債は古代においても問題で、もし誰かが深刻な負債を抱えて、支払うことが出来なければ自らを奴隷として売ることになりました。
一人の人が、自分を奴隷として売るために市場に立っているのを想像してみます。誰かが、哀れに思い、負債の合計金額を支払ってくれたとします。支払われたその人は自由の身となるのです。そのようにして、彼らは「身受金」を支払われて「贖われる」のです。
私たちの場合もよく似た方法です。「贖いは…イエス・キリストによって来る(24,NIV訳)」のです。あなたの罪は負債のようです。それはあなたの前に立ちはだかっています。イエスは、ご自身の十字架の死によって、身受金を支払ってくださいました(マルコ10:45)。このようにして、あなたは神との関係へと解き放たれたのです。あなたの関係は回復しました。あなたは神から義を受け取ったのです。 - 罪の汚れは取り除かれた
パウロの3つ目のイメージは「神殿」です。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。(ローマ3:25)」
旧約聖書にはどのように罪を取り扱うべきかに関して詳細な律法が定められました。罪の深刻さとそこからきよめられる必要が示されたいけにえの制度がありました。罪は罪びとから動物に移され、その動物が殺されました。
しかし、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:4)。」旧約のいけにえ制度は「すばらしいものの影(1)」にしか過ぎないのです。現実にはイエスの犠牲が支払われたことによってもたらされました。キリストの血が「ただ一度だけささげられたことにより(10)」贖いの犠牲となり、あなたの罪はきよめられ、その汚れは取り除かれたのです。これがイエスが完全ないけにえとなったということです。イエスだけが完全な人生を送りました。イエスの血を通して、あなたは神の「形勢逆転の答え」つまり、神からの義を受け取るのです。
祈り:主よ。どのようにして、イエスにある信仰によって神からの義という贈り物を戴けたことを感謝すればよいのでしょうか?あなたの義の結果として、私は平和、赦し、自由、そしてイエスの血によるきよめを戴くことができましたことを感謝します。
神の答えは私たちに正しく生きるチャレンジを与える
アモス3:1-4:13
パウロは私たちに「神の形勢逆転の答え」を語っています。「律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(ローマ3:21)」アモスはその預言者の一人です。
アモスがイエスラエルに対して主の言葉を語った時、私たちは、彼らのすべての罪を罰することによって、義としたいという神の願いを見ます。主は言いました。「この地上のすべての家族の中から、私はあなたを選んだ。それゆえ、あなたの特別な召しの理由により、私はあなたに罪の責任を負わせる。(アモス3:2,MSG訳)」
民はまるで法廷に立たされたように咎められました。「聞け。そして、これをヤコブの家に証言せよ。―神である主、万軍の神の御告げ― (13)」
それは、あたかも神が証人を呼び出しご自身の民に証しさせているようです。「聞け。このことばを。サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども。彼女らは弱い者たちをしいたげ、貧しい者たちを迫害し、自分の主人たちに、『何か持って来て、飲ませよ』と言う。(4:1)」彼らは上っ面であり、自己中心で気ままであり、貧しい者や困窮している者の取り扱いを非難されました。
何度も何度も、神はご自身の民に試練の中で彼らを呼び戻したことを告げます。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。(3:7)」しかし、主は宣言します。「わたしのもとに帰って来なかった」と。(4:6,8-11)
私たちがこの旧約聖書の背景を理解するとき、使徒パウロが記したことにもっと圧倒されます。「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ3:22)」形勢逆転はあなたのためにイエスが罰金を支払ってくださったことによるのです。あなたは神の目に義とされているのです。今日、あなたは神のもとに確信をもって近づくことが出来ます。愛する父のように話しかけることができ、あなたの心の奥底に主の平和を覚えることが出来るのです。
祈り:主よ。あなたの願いはいつも、私たちがあなたに立ち返って、あなたとの正しい関係をもってともに歩むことであることを感謝します。あなたがイエスを通してすべてを今可能にしてくださったことを感謝します。
H.K
References
Joyce Meyer, The Everyday Life Bible, (Faithwords, 2014) pp.1804,1805.